今週のバキ道/第19話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第19話/金竜山の妙案

 

 

 

 

 

 

光成をおとなうなつかしの金竜山のところにスクネがやってきた。というか、もともと宿禰は光成の家に居候しているっぽかったので、金竜山が彼をたずねたという感じか。しかし彼らは初対面ではなく、金竜山の引退と決意は、宿禰の存在ありきのものだったのだ。前回は、金竜山が敵に廻すという最大の格闘団体を、世界のどこかにあるなにかかとおもったのだが、どうやらそれは大相撲を指すようだ。冷静に考えたらそうだよな。

 

宿禰は金竜山を「親方」と呼ぶ。金竜山は、引退しているので、謙遜するが、宿禰は「威厳に溢れた横綱」だったと金竜山を高く評する。金竜山は恐縮するが、続けて「きれいな相撲だった」といわれて、表情を変える。

ふたりはしばらく黙ってしまう。ぼくは、モデルの貴乃花にも、そもそも相撲にも明るくないので、このやりとりが指し示すところのものはわからない。金竜山はやがて応える。他人のことはわからないが、じぶんは、「手心」には「拒絶」をもって応じた、それだけだと。流れからすると、宿禰のいう「相撲のきれいさ」は、いっさいの手加減なしで行われる真剣勝負にあったということだ。要するに、八百長のことをいっているのである。

 

さて、金竜山はなにをするつもりなのか。目的は、宿禰もいう「威厳」である。「真なる國技の発揚」だというのだ。なにやらあやしい響きだが、金竜山は本気だし宿禰もうれしそうである。

 

金竜山にはすでに妙案があるのだという。「真なる國技の発揚」のじてんでだいぶ空語気味なのに、さらに妙案ということで、いよいよ不明瞭である。なにかというと、ストリートなのだ。おそらく夜の街で遊んでいた大関の前に宿禰がたったのである。大勢も大男のようだが、宿禰はそれよりもひとまわり大きい。

宿禰はさわやかにストリート相撲を提案するが、大関は戸惑うというかちょっと怒ってるみたいだし、だいたい付け人がそれを許さない。宿禰はもちろん大関よりも小さい付け人があいだに入り、これを追い払おうと手で胸を押すが、宿禰がその重量感で微動だにしないものだから、彼自身が後ろによろめくことになる。

付け人のひとは恥ずかしそうにして、ちょっと大きいからって素人と相撲ができるわけないだろと常識的なことをいう。仮に宿禰が実力者なのだとしても、それとこれとは別の問題なのだ。仕事で相撲をしている大関が、そうではないただの大男と相撲をするわけにはいかないのである。大関はそれで食っているのだから。

だが大関は無言である。つまり、宿禰的には大関は拒絶していないのだ。というわけで、目立ちすぎる男たちを囲った観衆があおりはじめる。その輪の外側にはすでに警察がきているようだが、ギャラリーが多すぎて中心にたどりつけないようだ。そして挑発にのった大関がついに上をはだけてしまうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

神話の人物・野見宿禰が現世に着地した、という印象の回だった。

作中の金竜山が公式にどうした事情で相撲界を離れたのかは不明だ。しかし、気持ちのいいお別れでなかったことはまちがいない。そこに宿禰がからんでいるわけだが、じゅんばんを間違えてはいけないのは、なんらかの確執によって金竜山が業界を離れ、そこで宿禰と出会い、これをつかって復讐しようとしているわけではないということだ。金竜山は、宿禰と出会うまでは、もやもやがあったとしても、がまんして団体に所属していた。それを、すべてなくしてもいいとおもえるものを宿禰に感じたから、こうして引退し、新しいなにかを考えているのである。

そこで問題になるのが「威厳」であり、「真なる國技の発揚」である。こういうことであるから、道理として、現状の大相撲にそれが感じられないから、ずっともやもやしていて、それを実現できる逸材に出会えたから、これを離脱した、ということになるのだろう。宿禰は圧倒的に強い。オリバをあそこまで一方的にやっつけるということは、ピクルでも武蔵でもバキでも、たぶん勇次郎でも難しい。しかも、多少フォローの余地はあるとはいえ、それはオリバの土俵、「パワー」の領域だったのだ。だが、金竜山はおそらくそこだけを見ているのではない。もちろん弱かったらはなしが始まらないのだが、それとともに「威厳」を体現できるという確信を得たから、行動に出たのである。

 

そして、今回のはなしに限れば、「威厳」ということばを最初に使ったのは宿禰で、それは金竜山の相撲の形容句としてであった。つまり、きれいな相撲、望まれる手心を拒絶するありように添えられた表現である。となれば、金竜山の「きれいな相撲」に、彼が望む「威厳」、今後宿禰が実現しうるなにかが、兆しレベルでも宿っていたことになる。そしてそれは、ひとことでいえば、八百長ではない、純粋な闘争としての相撲だ。そうした領域で強さを示したとき、相撲は威厳を回復するのである。

 

ここでいう八百長とは、おそらくもっとも狭い意味での人為というようなことであって、闘争を不純にする人工的な意図のことだ。威厳は、強さそのものに宿るのではなく、そのありかたのうちにみなぎるのである。金竜山も強いファイターだろうが、全盛期でも宿禰にはさすがに歯が立たないだろう。しかし、そういう問題ではないのである。

 

 

だが、この宿禰の考え方は、少し奇妙でもある。というのは、この文脈では、威厳とは相対的なものになってしまうからだ。つまり、八百長のようなことがまったく考えつかれることのないクリーンな世界で、果たして「威厳」は成立可能なのかということなのである。たとえば、当麻蹴速と野見宿禰の試合は、いま考えれば相当な威厳を備えている。しかしそれは、歴史目線で、史上最初の素手の闘争ということでとらえられているからであって、そのときにも同様の価値観が存在しえたのかというと、なかなか想像は難しい。真にその世界が威厳あるものになったとき、不思議なことに「威厳」は消失してしまうのである。

このようにとらえたとき、宿禰の、そして金竜山の真の敵は、闘争の外部にあるということになる。これは宮本武蔵のときにも問題になったことである。ひととひととが複雑に関係しあう世界では、あるものとあるものの強さを比べるという、ごくたんじゅんなことが、単独ではうまく成立しないのだ。宿禰がその身に宿しつつあるもの、それは、いかにして「純粋な闘争」をこの世界から取り出すのか、ということなのではないか。

こう考えると、当初彼にみえた正邪二元論も、少しクリアに見えてくる。つまり、彼のいう正しいとか正しくないとかは、ある法理とか教義とかにしたがったものではなくて、端的に人為と自然の対立が呼ぶものだったのかもしれないのだ。ただまあ、金竜山が「妙案」というように、ああして大関に喧嘩を売ることが、自然な行いだとはいえない。落としどころの難しい問題だが、おそらくそれはそれ、目的として純粋な闘争、あるいはもっと広く純粋なものを得ようとするのは変わらないのだろう。