今週のバキ道/第16話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第16話/最筋量姿勢(モーストマスキュラーポーズ)

 

 

 

 

 

 

純粋な闘争を実現した先に、ファイターはすべて力士になる。金剛力士像の構えで宿禰のぶちかましをうけとめたオリバだったが、額を打った拳はつぶれてしまい、つづけてからだを捕られてしまうのだった。それも、まわしではない。からだに指をさしこんだ状態で持ち上げられているのである。

光成はスクネがなにをつかんでいるのかわからないが、加納が骨だとつぶやく。肋骨をつかんでいるのだ。ただ貫手のように手をさしこむだけではなく、オリバのからだは完全に浮いているので、彼の150キロからの体重が二本の、最下部の肋骨にかかっている状態である。

骨をつかむからには、オリバのぶあつい筋肉を指がつらぬいて、いわば肉ごと、なかの骨をつかんでいることになる。想像するだけでものすごい痛いだ。さすがのオリバも見たことのないほど発汗しており、じゃっかんことばを失っている。力が入らないようだ。そういうものか。

 

 

スクネは、これは「命」をつかんだも同然である、決着としようと言い出す。しかしオリバにはまだその気はない。腕が、徐々にあがっていく。ボディビルの大会で行われる、最筋量姿勢(モーストマスキュラーポーズ)である。オリバがオリバ脱ぎをするときにやるあれだ。ポーズとしてはおもに前面に視線のいくものだが、オリバはこうしてよく服の後部を弾けさせているので、背中を広げる効果もあるようである。

スクネも、オリバがなにをしようとしているか理解したようだ。それはやめたほうがいいという。しかし、オリバに降参する気はない。そして、筋肉でなにもかも可能にしてきた男だ。今回もそうするほかないのだ。

 

 

オリバの背中に力が集中する。だがその瞬間に肋骨も砕ける。スクネは手を離さない。だから、ハシゴをつかむ手がすべっていくように、次々に肋骨がくだけていき、やがて肩甲骨のあたりまでのぼっていってしまう。ひどい状態である。これは痛すぎる・・・。

そこから、なにがどうなったのかよくわからないが、オリバは回転、地面に叩きつけられるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

花山もそうだけど、耐久型のファイトは痛そうだよなあ・・・。

 

 

モストマスキュラーは、ボディビルの大会だと最後のほうの自由時間とかに見られるポーズだ。基本は、試合なので、ダブルバイセップスとかサイドチェスととか、いわれたポーズを壇上にいるみんな同時にやって、評点をしていく。くわしくは知らないが、大きな大会とかだと上位の段階でフリーの時間ができるので、そういうところでこのポーズをする選手が多いようである。からだのほぼぜんぶのぶぶんにちからをいれて、しかも見せることができる非常に迫力のあるポーズなのだ。

オリバはこれをよくオリバ脱ぎのときに行っている。これをすると同時に、服の背中のぶぶんが爆ぜるのである。ということは、背中のぶぶんがふくらんでいることになる。今回起こったことは、それの逆流のようなことだろう。要は、オリバの背中の肉はいまスクネに握られている。スクネは手でダイヤをつくってしまうくらいだから、つかまれたらおしまいだ。固定されているも同然である。となれば、背中の外側にいくべきパワーは内側にいくことになる。筋肉のふくらみが、骨のほうに向かっていくのである。かくして最初の肋骨が砕ける。砕けてもスクネは手を離さない。落下するオリバをキャッチするように、次の肋骨に手がひっかかる。そこでも同じことが起こると、こういう理屈だろう。

 

 

わりと微視的な展開が続いているので、なかなかはなしが進まないが、前回の考察を続けることにしよう。武蔵篇と比較して、『バキ道』のスクネは「状況」を越えたファイトを描きうるというものである。

ひとは、どのような場合も、ある社会の求める一定の価値の内側に含まれている。ロラン・バルトはエクリチュール、つまり文体という切り口からそのことを論じた。それは、ただの言葉遣いというようなことを越えて、そのひとじしんに表出するふるまいや、内的な傾向、あるいはイデオロギーのようなことにまで及んでいく。バルトは、どのようなエクリチュールにも囚われない、「零度のエクリチュール」を求めて、カミュの文体にそれを見出した。しかし、年月とともに、カミュの書いたものは、「カミュの書いたもの」、つまり「カミュの文体」として構造に登録されることになる。零度のエクリチュールが持続するのは、それが書かれて、作者じしんも含めた誰かに読まれるまでの数瞬だけなのである。

このことは、ひとがある社会構造の内側では、どれだけ特異なエクリチュールを用いても、それが「特異なエクリチュール」という相対的な語られかたをされている限り、その社会、ここでいう「状況」を出ないものだということも示唆している。それは、宮本武蔵や勇次郎でさえそうだったのである。

 

 

格闘漫画のカルマとでもいうか、どんな格闘技、またどんな格闘技者が優れているのか、ということを研究する作品では、法の存在しない自然状態における強さのようなものに必ずたどりつくことになる。宮本武蔵もそうだったと見ていいだろう。だが、それは現代からみて「比較的自然状態に近い」というだけのことであって、じっさいには「自然状態」というものはそれじたいでは自存していかない。社会がまず成立して、そこから遡行してはじめて想定可能になるのが自然状態なのである。なぜなら、いまの状況がどういう状況かを語れるということは、そうしたエクリチュールが成立しているということだからである。げんに自然状態に息づくものが、「ああ、この世界は自然状態だなあ」と自覚することは決してないのである。

宮本武蔵は戦国時代最強だった。勇次郎は現代最強であり、おそらく、戦国時代や、それこそ自然状態の世界にいってもおそらく最強だろうと想像することはできる。しかし、それだけである。両者を比べることはできない。現代にやってきた武蔵は、その説明が示すように、異邦人であることを出ないのだ。

 

 

では、どのような社会的状況にも通用する、通時的な強さを求めることはできないのか、というところでやってきたのが宿禰である。彼は、強さの概念の成立、その外側からやってきた。初代スクネと当麻蹴速がたたかい、勝敗が決まるまで、この世に最強という概念、もっといえば強いとか弱いとかいう概念もなかったのだ。それは、神話の世界である。神話とは、自然現象のような、わたしたちの尺度では計ることのできないなにごとかに宿された物語のことだ。この二重の意味で、スクネは「状況」の外側からやってきたことになるのである。

 

 

スクネじしんがそうした人物である、ということでもあるが、これは同時におそらく、彼がファイターからそうしたものを引き出す、ということでもあるのだろう。だから、スクネとたたかうオリバは金剛力士像のかまえになって、力士になる。強さ比べは、極まったところで「角力」になるのだ。スクネが廻しをとらずにオリバの肋骨をつかんだことからは、それがやはり「相撲」ではなく「角力」なのだ、ということを暗示していただろう。廻しもまた、状況に含まれる要素であり、大相撲が強さ比べの洗練された先にあるのだとすれば、状況に左右されない純粋闘争には馴染まないものであるのかもしれないのだ。

 

 

だがオリバはどこまでもオリバである。筋肉でなにもかも解決する男は、やはり今回の危機も筋肉で脱しようとした。彼のパフォーマンス的なふるまいも含めて、今回の行動はきわめて現代的状況によるものだったと見ていいだろう。結果としてそれは純粋闘争を超えることはできなかった。だが、だからといって現代的ありようが純粋存在を超えることはできないとは限らないだろう。あの状況であのポーズをとるというのは、それをするとどうなるかというようなこと以前に、なかなか勇気のいることである。しかしオリバは実行する。彼には筋肉信仰があるからである。じぶんの信じる道を、あのようにすることでひとまずはまっとうしたわけである。もう少し遊んでほしかった、という気もするが、短時間で決着するのがすもうであるというはなしでもあるし、こんなところかもしれない。問題はスクネがこの件をどう解釈するかだろう。スクネからすれば、もう勝負ありの段階で、ふつうに考えてちょっとそれはまずいというところで、信念を優先し、ほぼ自滅したのが今回のオリバである。スクネはただ肋骨を握り続けただけで、ほとんど動いていないのだ。フリーファイトは未経験だった彼は、ここになにを見て、どういう感想をもつだろうか。