第15話/フリーファイト
バキ界怪力代表オリバと二代目・野見宿禰の対決だ。相撲での激突では軽々あしらわれたオリバは、フリーファイトならはなしは別だと挑発する。応える宿禰の、はなしの途中で、オリバの剛拳が宿禰の顔面にめりこむのだった。
大量の鼻血を出してはいるが、宿禰は別によろめくこともない。いきなり殴られたのに動揺している感じもないのだ。
オリバが前回の開始の合図が云々ということを言い出す。ちょっと勘違いしていたが、あれは要は、相撲には開始の合図がない、というはなしだったようだ。たしかに、いわれてみると、相撲はふたりの息があったところで自然に開始し、行司はいってみれば「開始した」ということを事後的に宣言しているだけなのだ。そのうえでオリバは、まあ呼吸は合っていなかったわけで、いまのは「待った」だったかな、などと皮肉をいうのであった。
しかしスクネは、合わせられなかったのはじぶんのほうだと謝る。それがオリバは気に喰わない。血だらけなのに悪かったのはじぶんだ、などといって状況を受け容れているからだ。
といってスクネも別に少しも感情的になっていない、ということではないようだ。命乞いでもすりゃよかったのかな、ということだが、命乞いとはそういうものではなく、こちらが追い詰めて、特に望んでもいないのに願われるものだという。
理解したスクネは、相撲のかたちになって、たたかいを続行する。追い詰めてくれと。光成は、刃牙道最終話で投げかけられた問い、「打たれる」覚悟を決めた力士の実際が見れる、と興奮する。
オリバはいわれるまでもなくそのつもりだ。拳をかため、タックルしてくるスクネのあたまを打つ体勢になる。そしてそのかまえが、金剛力士像の構えとまったく同じであることに光成は気がつく。なるほど、こりゃすごい。金剛力士も、力士なわけである。どのような技術であれ、フルパワーでぶつかるとき、ファイターはすべて「力士」になり、闘争は「角力」になるのである。
オリバの拳はスクネの額に直撃した。だが耐えることができなかった。いくらオリバでも、スクネのタックルのちからを宿した、人体でもっともかたいといわれる額を打つのは無謀だったかもしれない。せめてアッパーか得意の鉄槌にしておけば・・・。
続けてスクネはオリバの胴体をつかむ。ただ抱えるのではない。まわしをとるように、おそらく肋骨をつかんできたのである。
つづく。
持続的な握力ではオリバも相当なものがあるはずだが、あっさり砕かれてしまった。しかしちょっと条件が悪かったかも。
スクネはオリバのからだに指を食い込ませた。肋骨に指を引っ掛けているのか、肉をつかんでいるのか、それはちょっとよくわからないが、ともかく、まわしをつかわずに同じ体勢になっている感じだ。
ここで描かれていることは、ちからとちからのぶつかりあいがひとつのかたちに結晶する、という刃牙道以来の確信である。
たとえば武蔵は、闘争がこの世界においてどのようなところまでたどりつけるのか、ということを追究した結果、宮本武蔵に到達した。戦国時代から江戸時代まで無双の強さを誇った武蔵である。その強さの探究のしかたは、つきつめれば、自然状態の世界での強さの探求だった。法のない世界では、各人が各人の利益を追究して、人間世界は無秩序の普遍闘争の状態に陥る。それが法を要請するわけだが、法のもとで強さはある種の限定、条件をほどこされることにもなる。武蔵の強さは、限りなく普遍闘争に近いと考えられる戦国の世に(作中では)その名をとどろかせたわけで、それだけ、彼のありようは現世とは馴染まないものだったのだ。つまり、武蔵は、個人が自然状態でも通用する武から最強にたどりつくことはできるのか、という思考実験だったわけである。
こういうことであったから、もともと勇次郎がそういう人物でもあったし、バキですべきことはもはやないかにも見えた。そこに相撲のはなしが出てきたのだった。今回、その意味の一端が見えたとおもう。それは、一個の武の表現として、自然状態レベルでも最強は存在可能か、というようなこととはまた次元のちがう問いかけ、闘争それじたいをつきつめるとどうなるのか、ということなのである。かんたんにいえば、いま、この現世で、法律のことをあたまのかたすみに、また無意識下におきながらストリートファイトの強者どうしがたたかうのと、戦国時代に混乱した戦場で武蔵が無双の強さを発揮するのとでは、まったく状況がちがう。だから、武蔵の「最強」は現世で存在を認められなかった。それを、バキが社会の代弁者として、また近代格闘技の代表として、武蔵につきつけた。これは、考えてみれば残酷な解答でもあった。バキは、近代格闘技は武蔵的な自然状態の強さからは離れているように見えるが、じっさいにはそれを含んでいる。近代格闘技のKOは、「とどめをささない」のではなく、意味としてとどめを含んでいるものなのだ。少なくとも現世では、決して武蔵が「最強」と認識されることはないのである。
強さは、その世界の状況であっさり変わってしまう。勇次郎が「最強」であるのも現世でのことだ。むろん、勇次郎なら、戦国時代にいっても無双の強さを発揮したことだろうが、彼が素手にこだわることや、みずからすすんで戦場におもむくことなど、その思考法は、どうしても現世のものになる。わたしたちは、勇次郎ですらが、この「状況」という羈絆から逃れることができないのである。ルールありとルールなし問題も、実は同根なのだ。総合のチャンピオンとストリートの喧嘩自慢の強さを比較しても意味がない、というか比較する方法がないのと同じように、武蔵と勇次郎の強さを比べることも、じっさいにはできないのである。
だが、ではスクネはどうなのだろう。ここで、例の当麻蹴速との、太古の大戦が浮かんでくるわけである。これは日本で最初の素手の真剣勝負といわれている。こうした議論がはじまるためには、そもそも強さにかんする興味、渇望のようなものが必要になるのであり、強さを求めない世界では、最強議論なども当然あらわれてこないのだ。それをはじめたのが彼らだ。そして、彼らが行ったことが「角力」である。そこには「状況」などなかった。じっさいには、事後的にみれば、それを自然状態と呼んだり、あるいは多少の秩序はあったとみたりすることはできる。じっさい、「状況」と呼びうるものはあった。けれども、そこに組み込んで議論すべき「最強」という概念じたいが、彼らが対戦を終了する瞬間まではなかった。つまり、あの試合は、いわば純粋状態の闘争、ほかの闘争と唯一比較することのできない闘争だったのである。
問題になるのはそれが「角力」と呼ばれた、ということだ。もちろん、角力と相撲ではだいぶかたちが異なっているだろう。それが洗練され、無駄な要素を落としていくということは、同時に、純粋状態の闘争がもっていたものを落としていくということでもあるのだ。だが、ちからとちからのぶつかりあいが、必然、力士どうしのたたかい、つまり「角力」になる、という今回の描写が、純粋闘争が現世でも存在可能かもしれない、ということを示しているのだ。そして、特に上体が起きているということもなしにスクネがわざわざまわしではなくオリバのからだをつかんだことは、まわしがその「洗練」の結果呼び込まれた不純物である可能性も示唆している。相撲は、きわめていくと、むしろ相撲を離れて、「角力」になっていくのではないだろうか。
純粋な強さ、ということはどこでもよくいわれてきたし、バキ世界でも探求されてきた。しかし、そのときにやってくる「ルール問題」は、じつは世界を成立させる秩序と表裏一体の問題だった。こうしたことが刃牙道では武蔵を通じて描かれきったわけだが、その先に、今度は「状況」、つまりルールにとらわれない強さのありようが、相撲に求められているわけである。ルールがいけないならルールなしにすればいい、ストリートが最強だ、ということになりがちだが、そうではない、「ルールなし」は、「ルールあり」があってはじめて成立しているのである。これはロラン・バルトが示したエクリチュール、語り口の問題とよく似ている。文体とは、そのひとそのものだ。ひとは、どのような状況においても文体から逃れることができない。どのような文体にもあてはまらないありよう、これをバルトは「零度のエクリチュール」として求め、カミュにそれを見出したが、その文体もやがては「カミュの文体」として構造化され、温度を帯びるようになる。なにものでもない文体、零度のエクリチュールは持続できない。だからここで「零度の闘争」は歴史の(というか神話の)なかに求められたのである。相撲は神事として継承されており、この事実はなかなか幸運だったともいえる。構造化された「相撲」のなかに、「角力」は残っているのか。それ以外の格闘技が「状況」から逃れた「角力」になることは可能なのか。たぶん今後はそういう問いに対する解答が展開されていくだろう。
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