『十五年目の復讐』浦賀和宏 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『十五年目の復讐』浦賀和宏 幻冬舎文庫

 

 

 

 


 

 

 

 

「ミステリ作家の西野冴子は、ストーカー扱いされた挙げ句、殺人事件の犯人として逮捕されてしまうが、一切心当たりがない。始まりは、彼女が受け取った一通のファンレター。些細な出来事から悪意を育てた者が十五年の時を経て、冴子を逃げ場のない隘路に追い込んでいく。残酷なほど計算し尽くされた罠に落ちる人間を描くサスペンスミステリ」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

最近浦賀和宏読みすぎかな・・・。文庫が出るとすぐ買ってほかのもの放置して読んじゃう。

 

 

本書は4話で構成されている、同一の事件をめぐる複雑な物語だ。同一の事件とは、『Mの女』である。以下致命的なネタバレは避けるつもりですが、『Mの女』を未読のかたはご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

『Mの女』の記事にも書いたのだけど、あの小説では、解かれない謎というか、どうして人物がそういう行動に出たのか特に説明がなく、いまいち腑に落ちない箇所がいくつかあって、そのじてんで、それらの背景を説明する短篇が電子書籍で出ていたことはぼくも知っていた。せっかくスマホに変えたのだから、すぐに読んでしまえばよかったのだが、ふつうにそのほかの浦賀作品の刊行がやまず、もたもたしているうちに一冊にまとまって出てきてしまった、というところである。しかも、本書には書き下ろしもついている。第4話にあたるが、これがあるとないとではだいぶ印象もちがうので、現時点で読み始めるのであればまちがいなくこちらで読んだほうがよいだろう。

 

 

ぼくは、基本的にはネタバレを気にしないというか、伏せることにあまり意義が見出せないタイプなので、いつでもわりとがんがん書いていくが、気にするひとがいることは理解しているので、とりわけ驚きが読後感に深くかかわってくるミステリのようなばあいは、よく注意している。しかし、「ネタバレを避ける」ということもまた、ネタバレにまつわるひとつのふるまいである。ミステリのもっともシンプルなかたちでは、物語の構造は「謎」と「真相」に分離することが可能であり、「ネタバレを避ける」とはこの場合、真相ぶぶんを伏せることを指す。だが、トリックというトリックは出尽くして久しいといわれていながら次々と斬新な手法が開発されていくこのジャンルでは、もはやそのようなシンプルな構成でできているミステリなどそうないのである。謎がAであり、真相がBだとしたとき、AからBにいたる道筋を解明するのがもっとも原初的な謎解きであるが、現代では、そもそも謎がBだったり、Aの前にSがあったり、そもそもAもBもなかったり、よく見たらCとDだったり、作家は知恵をふりしぼって、読者を出し抜こうとしてくるのだ。こういう状況では、「ネタバレを避ける」というふるまいじたいが、ひとつのネタバレにつながってしまう可能性が出てくるのである。ミステリの原型では、Aだけを語り、Bを伏せればよかったのだが、じつはAを語ることによって、本当の真相であるSが示唆されてしまう可能性が出てくるとき、わたしたちはAを語ることにも躊躇することになってしまう。だが、その「躊躇する」というしぐさが、気の利いた相手には、なるほど、これはわりとメタ的な構成になっているのだな、というふうに勘付かせてしまうのである。

しかしそれにしても本作は語りにくい小説だ。電子書籍ではこのシリーズは「メタモルフォーゼの女」とまとめられており、これは『Mの女』の核心的なアイデアにほとんど言及しているといってもいいタイトルである。だから、それじたいはそう神経質になるようなことでもないのかもしれないが、しかし最初から共有されている情報ということでもない。もし『Mの女』を既読なのであれば、この「前提的ミステリ」について語ってもよいのかもしれないが、本作はあいまあいまに『Mの女』の主人公である西野冴子の語りが挿入され、最後の話ではふつうに『Mの女』の結末に触れてもいるので、これ単独で読めるかというと、読めるが、できればあとに読んだほうがいいというようなところで、なかなか難しい。当然、内容について語ることも非常に繊細な作業になるのであった。

 

 

そして、本作には“ある人物”が登場する。その“ある人物”と、『Mの女』から通して主題となっているものにかんけいする人物が、こう、敵対関係にある。彼らは仕事上のライバルであり、以前にも“ある人物”は痛い目にあっているようである。だが“ある人物”は・・・、煩雑になるのでSとして、Sは、ええと、そのMが現在に至るまでのあいだになにをしたのか、ほとんどつきとめている。このはなしが、作中にも出てくる。これが、前提事項のような顔つきで語られるのだ。ぼくは、このSの作品をすべて読んだわけではない。だから、それまでの作品のなかで、彼らの因縁は描かれていたのかと考えたのだが、どうもググッても出てこない。こういうやりかたはこれまでの浦賀作品でもあった。たとえば安藤シリーズでは、『記憶の果て』に登場する高校時代の安藤の友人のひとりが、彼が大学生になったときのはなしである『頭蓋骨の中の楽園』には出てこない。そして最後に、のちの作品の内容につながるものとして、この人物のことが言及されるのだ。作品世界を、粘度をぺたぺた貼り付けて拡張していくものとみなすのであればそういう仕掛けも不要だろうが、それはそれで興ざめで、矛盾点も出てくる。仮に創作の方法が「粘度ぺたぺた」型であるのだとしても、物語としてはあくまで「大きな全体」が少しずつ明かされていく、という感触であることが望ましいのだ。これは、くだらない想像といえばそうだが、やはり浦賀和宏も大好きらしいマーベルなどの影響があるのだろう。MCUの世界では、だいぶあとに発表された作品のネタが何年も前に仕込まれていた、なんてことは珍しくないのである。ぼくは松浦純菜のシリーズは読んでいないのでわからないが、少なくともほかのシリーズは同一の世界であるらしいことが判明しているのだ。

 

 

Mの能力は、あまりくわしく語れないが、いかにも小説的というか、そんなばかな、という感じがないでもない。さすがにそれは気づくでしょと、たぶんほとんどのひとがいうだろう。しかし、登場人物たちは気づいていない。重要なのはそのことのほうだ。浦賀作品では、内面の緊張感が表面の美を支える、という信憑がある。ある美しい人間について描かれるとき、それは、顔の造形、つまりパーツの配置についていっているのではない場合が多いのである。安藤裕子がそうだった。そして、今回おもったのは、そもそも、外見というものは、実在していないのではないか、というようなことだった。内面の緊張感が美しさを呼び込む、ということは、実生活の経験からしても理解できるが、たぶん、たとえば安藤裕子が美しい理由は、そういうことではないのである。わたしたちは、ある人物と相対するとき、じつは、「外見」をかぶっているはずの、目前の、実在している人物とは、向き合っていないのである。相手の言動が、こちらのイメージの内側にもたらされる要素となって、イメージを構築し、それこそが、わたしたちの受け取る「相手の外見」そのものになるのではないだろうか。この理屈でいくと、相手がどういう人間かよくわからない状態で目にした人物、たとえば道ですれちがっただけのものの外見を判断することは、わたしたちにはできなくなってしまう。それでも、ああ、いまのひとはすごい美人だったな、ということはあるのだ。こうした描写も、浦賀作品にはある。『HEAVENHELLに登場したふたりの超能力者などがそうだ。しかし、彼女たちはむしろひどく空虚なのである。表出する内面がほとんどないか、凡人にははかりがたいものであるかして、直接外見につながるものとはいいがたいのだ。

この表現はきわめて小説的である。顔が見えない、だから確認できない、というだけのはなしではない。小説では、描写されていることだけが、人物の情報となる。一人称的な、主観で描かれる小説では、まさしく、「外見」を導く「内面」、これを示唆する「言動」だけが、その基礎となる。これが異なっていれば、当然、両者は別人となる。ただたんに、一種の反則として、異なった描き方がされてきたふたりが同一人物だった、というトリックが、読者をだますためにある、ということではなく、内面が外見を構築するという状況じたいが、小説的なのである。

 

 

こういう、ある種の主観地獄、受け取った内面が相手の外見を構築してしまう世界で、逆説的に、同一人物は存在することができない。最終話までの3話で、ある意味、世界はばらばらにほどかれてしまったわけである。世界は、ひとの数だけある。これは、マイノリティにとって救いであるとともに、混乱のはじまりでもある。ばらばらにほどけた世界では、たしかなものがまったく感じられないからだ。

そこに投入されるSは、おそらく浦賀作品におけるホークアイ、もっとも地に足ついた現実的な人物だ。Mは、相手のイメージに働きかけることで、これをコントロールし、ありとあらゆる不可能事を達成してみせる。「ひとの数だけ世界がある」世界では、Mは誰にも負けない。世界はMのものである。それとライバル関係になるのが、客観の権化みたいなSなのである。

 

 

世界はふたしかなものである、全体を把持することはできず、もし把持可能であるとするなら、それは陰謀論につながっていく、そういう物語類型が、浦賀作品にはある。安藤直樹はそれを受け容れることで悟り、謎に対しては確信をもって対峙するようになった。浦賀和宏がどんでん返しの名手といわれるようになったことも、この世界観と関係している。展開が、作品の最終部分でごろごろ変わることは、最後に示された解答も、「真理」であるとは限らないということも同時に含んでいる。わたしたちがそれを「真理」、最終的なこたえ、真相だと考えることができるための理由はただひとつ、「そこで小説が終わっているから」ということだけだ。この世界は、拡散していく。これを収束させるひとつのこたえが、萩原重化学工業のシリーズにみえた陰謀論である。そしてもうひとつ、地に足ついたこたえが、Sなのだ。

 

 




 


管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com