第480話/ウシジマくん66
追い詰められ、迷いの先にこたえを見出せず、丑嶋は滑皮から預かっている銃をくわえるのだった。
そこへタイミングよく柄崎の母・貴子から電話がかかってきたので、丑嶋はいったん気持ちを飲み込んで出る。今日は柄崎母の誕生日で、毎年丑嶋は参加してるみたい。だから、すき焼きの肉をたくさん買って、今年もくること前提で、柄崎母は準備を進めているのである。柄崎じしんも夕方にくるそうだ。柄崎から電話がないのは奇妙だが、すでにそのはなしはしてあるか、柄崎と柄崎母で今日の予定を話し合ったあと、じぶんが丑嶋に直接電話すると母親がわがままを言った感じだろう。
丑嶋はとりあえず行くと返事をする。なんとか今回の衝動的な自殺は回避できたようである。
滑皮は鳩山のもとに向かう。見送りは鳶田と、例のタバコをせがんだチューボーだ。なんか、あだ名というか、もう名前が「チューボー」みたいになってる。なんとなく大人になってもずっとそう呼ばれてそう。
鳩山のところには豹堂もきている。はなしは、梶尾と巳池の件だ。梶尾の死体は公式に発見されているが巳池はいまのところ行方不明だ。とにかく、これが連続して起こった。これをどうみるかと、鳩山は問う。そして、鳩山がじぶんのことを語り始める。鳩山は、貧しい家で親の愛情に餓えて育ったという。そういう、じぶんのような、貧困に苦しんだり、差別に苦しんだりしていた行き場のないものが最後に選ぶのが猪背という共同体だったと。ヤクザの世界では生まれ育ちはかんけいない。じぶんの才覚だけでのしあがることができる。だがいまは時代の変わり目で苦しいときだ、そんなときは助け合うのが大事ではないかと、なにか問題提起でもするように鳩山はいうのであった。鳩山は、ふたりに問いを投げつつも、別にこたえは求めていないのだ。
その庭で滑皮と豹堂が対峙する。豹堂はいきなり直球で、鳩山のはなしを理解したか、お前は義理と人情のない損得だけの銭ゲバだと決め付ける。まったく遠慮がない。滑皮は、お言葉ですが、と前置きしつつ、じぶんは目先のことより遠くを見据えていると、暗に豹堂の近視眼的なありようを批判するのである。こんなに仲のわるいふたりが同じ組織にいたら、まわりはとてもやりづらいだろうなあ。
チューボーはゲーセンにやってきており、衣笠という貧乏なヤクザに会いにきている。家賃滞納で追い出されて、ゲーセンしか居場所がないということだ。酒ばっか飲んでるからですよと、なんだかちょっとみない間にずいぶん大人になったチューボーがいうと、飲まないでやってられないと衣笠はいう。だが、互いに嫌な感じはない。チューボーにはどこか余裕が芽生えており、同時に衣笠にも、子どもだからといってなめきっている感じはない。
ヤクザである限りこの国に居場所はない、だったらヤクザやめればいいのでは?と、他人事ではないはずのチューボーが妙に客観的に問う。だが、そうたんじゅんなはなしではない。まず、現役のヤクザはそれだけでひどい差別を受けていると衣笠ははなす。暴排の影響で、ヤクザは銀行口座をつくることもできないし、部屋を借りることもできない。口座がつくれないから、授業料の引き落としができず、ヤクザの子どもは学校に行くこともできない。衣笠はチューボーの金で酒を買い、歩きながらはなしを続ける。でもそれも、ヤクザ辞めたら関係ないですよねと、どこか他人事のチューボーはやはりいう。だが、ヤクザを辞めても5年は登録をはずしてもらえないのだとか。ヤクザを辞めたら、ホームレスになるか、軽い犯罪で刑務所に行くかする以外ないのである。
チューボーは衣笠になにか封筒をわたす。すごく薄いが、金が入っているのだろうか。チューボーの用事はこれだったのだ。衣笠は一気にご機嫌になる。そして、衣笠に「いい親方」といわれて、チューボーもうれしそうな顔をするのだった。
滑皮と丑嶋。滑皮は梶尾のお墓らしいところにワンタンを丼のまま供えている。表情は険しい。そして丑嶋は、ぼうっとした表情でどこかに突っ立っているのだった。
つづく。
幸い丑嶋の衝動的な自殺は回避されたが、問題が解決したわけではない。これは“たまたま”にすぎない。丑嶋の迷い、こたえが出ないという現状が解消されたわけではないから、さらに人生の選択を他者にゆだねざるを得ない局面が近づけば、彼の衝動はよみがえってしまうだろう。彼を現世にどのようにつなぎとめるか、それはわからないが、げんにこうして柄崎母からの電話がそれをしているのだから、きっとそこにヒントがあるのだろう。
今回の鳩山の呼び出しは、微妙なものだ。彼は、猪背との会話で、次期組長が決まらないという流れで、滑皮と豹堂をぶつけてみようかといっていたのだ。梶尾と巳池の件は、みんな知らん振りしているが、ちまたでは当たり前に両者のぶつかりあいの結果と受け取られているのだろう。それを、互いにわかっているということをわかっている。それでいて、例の本音と建前の使い分けが出てきているものとおもわれる。だが、鳩山のことばをどのように受け取るべきなのか、ということは別の問題だ。つまり、言葉通りなら、いまはたいへんなときで、助け合わなければならないのだから、そんなふうに殺し合いしてるばあいじゃないだろ、ということになる。だが、彼はふたりの衝突を望んでもいた。ヤクザが面子をかけて衝突して、死人が出ないでいることもなかなか難しいだろう。鳩山はおそらく、なにもかもわかったうえであれをいっている。いわばこれはアウトラインである。面子をかけて殺し合うのだとしても、彼らはひとつの共同体に所属する同胞なのである。そのことを忘れるな、というはなしなわけである。
しかしこれはいかにも典型的な本音と建前の対立で、鳩山じしんは衝突を望みながら、そしてそれがじっさいに起こっていることを知りながら、衝突するなとくちではいっているのだ。つまり、ここで鳩山がいっていることは、眼前で戦闘がはじまるのでもないかぎり、じぶんはこの件に関知しない、だからお前らも、おれの見えるところでそれをやるな、ということなのである。
この「建前」は、世界でも例をみない、日本独自のヤクザという集団のありかたにかかわることで、「仁義」の物語もここに回収される。「仁義」は、正しきをなすことだが、この「正しさ」は法に基づくものではない。法がとりこぼす悪に対応するものとしての「正しさ」である。こういう物語が、ヤクザの存在理由として社会に向けて有効なものになる。しかし、「そういうことになっている」という物語が要請されるということは、事実はそうではないということだ。これは、ヤクザの存在の本質にかかわる宿痾のようなものである。彼らが、法治国家でそれとして存在するためには「建前」を必要とする。しかし、それは「本音」があって、それが法治国家では成り立つべきものではないからこそ、そうなるのである。それが公平にみて義の行いなのだとしても、みずからの意思でどこかの悪人に罰をくだすことは、法のもとでは許されないのだ。これが、ヤクザ社会がかかえるダブルバインドの原理となる。鳩山の説明はその典型とみていいだろう。
しかし今回の鳩山の発言でもっと重要なことは、その出自である。「他に行き場のない人間が選んだ最後の共同体」、それが猪背であり、つまりヤクザなのだ。そして、続く衣笠の描写が、「ヤクザである限りこの国には居場所がねぇ」と付け加える。なにものにもなれず、行き場所がないから、ヤクザになる。腕があれば、そこでのしあがることもできる。しかしそうでないものは、条例に対抗できない。ヤクザをやめても、しばらくはデータが残り、おそらくそのあとも、ヤクザであったことをその人物は負い続けることになるだろう。つまり、ヤクザというものは、なったり、また辞めたり、そういうふうにできるようにはなっていないのである。カタギのものにとってのたとえば仕事とは、根本的にちがうのだ。個人主義のもとでは、わたしたちは存在の核のようなものを抱えていて、仕事とか、友達付き合いとか、それぞれの状況に応じて、ペルソナを使い分けている、そういうふうに多くのひとはとらえているだろう。ここで、仕事上のペルソナが不快なものになってきたとき、わたしたちはそれを脱ぎ捨てて、新しいものを装着しようとするだろう。だが、ヤクザ社会がもたらすペルソナは、いちどつけたらはずすことができない。存在の核と一体化してしまうのである。これを、個人主義の批判思想であるところの分人主義ととらえなおしてみても、同じことだ。分人主義は、存在の核というものを想定しない。それぞれ別個に生きる表情それじたいが、すべてわたしそのものである。だが、そのどれかひとつがヤクザの表情を帯びたとき、彼はすべての表情においてヤクザになってしまう。「ヤクザである」という状況は、着脱可能なペルソナでも、別の可能性をもったじぶんの新しい表情でもなく、人物の存在全体を「ヤクザ」にしてしまうのである。
このことにかんしては、滑皮の描写を通じて、ハレとケで考えてきた。自重トレ描写と、くりかえされる滑皮の半裸描写である。滑皮と丑嶋は、父親の記憶をタバコの煙とともに記憶からしめだしているという点で同根である。抑圧された記憶はかたちを変えて必ず回帰する。それは、苦痛をもたらすものとは限らない。滑皮では、父子の構造を求めるものとして、丑嶋では、それを拒むものとして、それが実現した。ここが両者の分岐点である。
滑皮がホテルの部屋でいつもイレズミを見せているのは、彼にとって、それがある種の確認の作業だからだ。イレズミはしるしである。彼は、「ケ」をしめだした全的にヤクザな存在として、生ぜんたいを「ハレ」にしているのである。会社勤めのひとの、家にいるときは「ケ」で、仕事をしているときは「ハレ」だとすることは、べつに奇妙なことではない。だが、滑皮においては、生のどの瞬間をとっても、彼がヤクザでないときはないのである。これが、鳩山から衣笠にパスされるかたちで描かれたヤクザというもののありかたと響きあうのだ。ヤクザになるということは、やめるとかやめないとか、そういう次元で語ることができないものなのであり、生のどの瞬間においてもそうなるということなのだ。それを、滑皮は完全に理解している。しかしそれは、生活のなかからいっさいの「ケ」をしめだすということにほかならない。この困難な生き方を維持するために、彼はくりかえし、鏡の前で、その表象であるところのイレズミを確認するのである。自重トレもその一貫としてみることができるだろう。自重トレは自分自身の存在それじたいを負荷とする方法だ。ただ存在している、生きている、そのことが、すでに彼にとっては負荷なのである。
そうして彫琢されていく「ハレ」の滑皮は、つねに「かっこいい兄貴」でいなければならない。滑皮と衣笠の関係はよくわからないが、これはたんに恩を売っているとか、物語としての義理とか、そういうこともあるとはおもうが、ひとえにヤクザであることを持続させるための、おそらく滑皮からしたら当然の仕事なのである。いつも書いていることだが、世知辛いヤクザ社会において、もちろん金はあるに越したことはないし、なければ大きな仕事もできないが、その根本にあるのは、あくまで美学である。金がなくてお腹がすいていても高楊枝でいること、それが、美意識として周囲に伝わっていき、組織を維持させる。今回滑皮がいっている「目先のことより遠くを」というのは、そういうことだ。現在の滑皮においては、規模が大きくなっていることもあって、お金の優先度はかなり高い。空腹でいながら高楊枝でいること、それがかっこよさを呼ぶのだとしても、それはあえて空腹でいるべきだ、ということではないのである。
豹堂と滑皮が根本的に異なるのは、その建前としての「義理人情」の物語を、どこに置くのかということだ。滑皮としては、世話になった、のかどうかはよくわからないが、衣笠のような男の面倒をみることは、ヤクザとして当然の任務であり、これは義理人情の範疇のはずだ。しかし、それはお金があってはじめて成立するものだ。当初の滑皮は、もちろん「高楊枝」からはじめていた。しかしいまはもうそうではない。かといって、そのことを忘れたわけではなく、いまでも行動の中心にあるのだ。
しかし豹堂は、「建前」をまず先にもってくる。建前であるところの「義理人情」はあくまで社会に向けた物語だから、じっさいの豹堂があくどい男であるということは、このはなしをしているときはあまり重要ではない。そして、そのあくどさは、じっさいのところ巳池が負っていた。豹堂は巳池にいっさい指示しない。巳池は、股肱として、豹堂を忖度して、事後報告だけにとどめる。そうすることで、豹堂の義理人情の物語は守られる。表面上の建前を維持するために、豹堂は巳池を通じて不義理を行うのである。いってみれば守りに入っている状態だろうか。しかし滑皮には、それではもうだめだ、という感覚があるのだろう。それを、彼はあこがれを集めるしかたで、積極的に維持する。たほうで豹堂は、あくまで事後的に、消極的に、建前を維持していくのである。
さて、こうした視点を丑嶋に持ち込むとどうなるだろうか。丑嶋も、禁欲的に「闇金ウシジマくん」を演じてきたが、彼には「ケ」がある。むろんうーたんであり、それが表象する母親である。
そもそも彼がなぜ迷っているのかというと、思考が一元的でなくなってしまったからである。それまでの丑嶋は、「カウカウファイナンス」の代表者として、お金で世界を解釈する立ち位置におり、ここいる限り、判断に迷うことはなかった。竹本のようなお金と無関係の人物は最初から計算にいれる必要がなく、お金と関係するもの、特に闇金にかかわるようなものは、欲望を通してコントロールすることが可能なのだ。それが、彼に全能性を与えていた。それを揺さぶるのが、カウカウの手足として働いてきた従業員たちである。彼らの存在が、ウシジマくんを多元的な思考に導く。もはや彼は、滑皮が断じるような自分勝手な人間ではない。真に身勝手な人間であれば、まだ手段はあるかもしれない。だが、柄崎や高田や小百合の存在と、そしておそらく圧倒的な疲れが、彼にそれをさせない。そうして、丑嶋はとるべき手をすべて見失ってしまう。なにをやっても、その先にやってくるのは死であり、奪われることで終わる死なのである。このことが、最後にみずからの選択で生を終わらせる、という可能性を引き出したのだ。
この、みずから生を選び取る、というありようは、闇金ウシジマくんという「ハレ」の丑嶋のものだ。金に万物を換算して全能性を発揮する、あのウシジマくんである。だが、滑皮のように全的に生を振り切っていないぶん、ヤクザには遅れをとる。ヤクザなら、滑皮が梶尾の死を「ヤクザの死」として受け入れ、豹堂を討ち取る物語のひとこまとして扱っているように、その死に「ハレ」の意味を見出すことができる。しかし、丑嶋はもちろん、カウカウのほかのメンバーもそういう生き方は選択していない。彼らにも「ケ」がある。丑嶋ですらが、うーたんという癒しを必要とするのである。だから、もし彼が自殺をとりやめることがあるとしたら、そのことを受け容れるところからはじまるだろう。「ハレ」のウシジマくんも、「ケ」の丑嶋も、どちらも彼そのものなのである。
柄崎母は、戌亥母とともに、彼らを見守ってきた人物だが、いまいち顔というか、表情、存在感のようなものが見えてこない。ことあるごとに会っているようなのだが、描かれない。それは、丑嶋が「ケ」を受け容れていないからかもしれない。「ウシジマくん」からすれば、そのやりとりは、世界の外側で起こっていることなのだ。じっさい、彼らの母親は、息子たちの仕事をどこまで知っているのだろう? そういうことがわからないというか、そもそも、なにか別の世界にいるような、別の時間軸にいて彼らの帰宅を待っているようなところが、柄崎の実家や戌亥のお好み焼き屋にはある。丑嶋には母親はいない。うーたんしかいない。だから、柄崎母の呼び声は、「ケ」の世界からの直接のアプローチとはならないようである。丑嶋はまだぼーっとしている。このあたりで、重なるように、高田とうーたんが物語に関わってくるのかもしれない。
noteに真鍋昌平論を書きました!
ブログとは異なったアプローチで書いてるので、超長いですが、よろしくお願いします。
https://note.mu/tsucchini2/n/na149bc1d8aca
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