『震える舌』三木卓 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

■『震える舌』三木卓 講談社文芸文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その予感は娘の発作で始まった。
極限の恐怖に誘われる衝撃の作品。

平和な家庭でのいつもの風景の中に忍び込む、ある予兆。それは幼い娘の、いつもと違う行動だった。やがて、その予感は、激しい発作として表れる。<破傷風>に罹った娘の想像を絶する病いと、疲労困憊し感染への恐怖に取りつかれる夫婦――。平穏な日常から不条理な災厄に襲われた崇高な人間ドラマを、見事に描いた衝撃作」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

繊細な、童貞小説としかいいようのない作風とおもいきや、引揚者の小説などもけっこう書かれているようで、なかなか、ちょっとかじったくらいでは印象の安定しない三木卓だが、本作はそのなかでもかなり変わったものになっているとおもう。作家史的にははじめての長編小説ということで、じしんの娘が破傷風にかかったときの体験を小説にしているのだが、それが、記録文学というか、医学小説というか、どう読んでも同じことだが、じつにカテゴライズの難しいものなのであった。

三木卓について、僕では解決していない問題がある。高校生のときに、センター試験の過去問だったと記憶しているのだが、問題に三木卓の小説が出てきたのである。ただそのときに感銘を受けたという記憶だけが残っていて、内容は覚えていないのだが、語り手だか主人公だかの男の子の妹がメインのはなしだったとおもう。それから、けっこうすぐ該当する作品を探したのだが、どうしても見つからない。ネットを使えるようになってから、センター試験出題作品とかも調べてみたが、どうもそこにもないようで、そもそもこの記憶がまちがいだったようだ。そうなるともう探しようがない。ちょっとずつ三木卓の作品を読んでいくしかないのだった。

 

 

内容としては、作者は語り手に徹して、不気味な予感とともに進行していく破傷風の症状を、あくまで小説家の視点、また父親の視点で描ききったものである。破傷風という病気のことはよく知らなかったのだが、全身の筋肉、特に顎とか背骨の周辺なのだろうか、神経が菌に侵されて、背が反り返り、とりわけ口元、顎の強いかみしめが、舌をかみちぎるほど強く起こるので、発作が起こるととにかく舌をかませないよう、成人男性である筆者が全力でくちをこじあけて、爪がはがれるほどの怪我を負っておさえなければならなくなるのである。本作は映画化もされたようで、映画ファンのあいだではトラウマ作品として記憶されているようである。じっさい、読みつつおとずれる感触は、むろん圧倒的な迫力と、24時間態勢で舌をかまないよう見守っていなければならない夫婦の緊張感と疲労ということは大きいが、それよりもホラー映画に近い。損傷した舌からの出血で口が赤くなる、ということもそうだが、小さなからだからは信じられないちからをその症状は呼び出すのであって、そこに、なにかこう、悪魔的なものが感じられるのである。小説家としての菌に関する洞察、菌は生物であり、嫌気性といって、酸素を嫌うから人間の体内に住み込むわけだが、それなら、なぜその体内を破壊しようとするのか、という理不尽さも、理解できない秩序に生きる他者のもたらすもので、サイコパス的な猟奇犯罪に接しているような不安に支配されてしまうのだ。また、伝染することはまずないと医師たちがいっても、彼らは絶対にとは断言してくれないので、疲労もあって、夫婦はそちらの不安も強く抱えることになって、これがもう、非常に疲れる。なにしろ、指を口にいれて損傷してしまっても、うつることはないといわれるくらいだから、まず大丈夫なんだろうけど、当時は馬血清というものを痙攣抑制にしようしていたようで、これは、人生で一回しか使えない。スズメバチの毒なんかといっしょだろうか、二度使用すると、ショック死してしまうというのだ。そして、筆者は幼いころにすでにジフテリアに感染してこれを使ってしまっているのだ。こういうこともあって、夫婦は精神的にもかなり参ってしまい、一家全滅を覚悟するところまでいくのである。医師が伝染はないといっているものをそこまで考えることがあるのかとおもわれるかもしれないが、この小説の圧倒的迫力の内側では、そんなことばはぜったいに出てこないだろう。読んだ人間、映画を見た人間が、感染の不安に駆られるほどなのである。

 

1970年代当時、破傷風に対してどういう治療がされていたか、ひとびとはどのようなものとそれを考えていたか、等のリアルな記録であることはまちがいなく、著者じしん、そのことを執筆の目的としているのだが、そのこととも無関係ではない重要なポイントとしては、あくまで視点が、患者の父親、それも小説家、というものでああるということがある。ひとつは、患者である娘の昌子に感情移入するしかたで行われる、肉体の描写だ。このあたりは、ほぼ同世代の古井由吉と似たものも感じた。ちょっとくわしくない世代なので、なんともいえないが、おもえば、古井由吉の新潮文庫『杳子・妻隠』解説は、三木卓だったのである。ひとことでいえば、肉体のよそよそしさだ。「杳子」では、女体のまるみの生々しさとともに、なにかそれが、人物のおもうとおりにはならない、別の律動で働いているような感覚が、強くあった。その、たしかにじぶんのものであるのに、即物的ということもなく、なにか肉に封印されたほんらい制御できない生命力みたいなものが、本書においても感じられたのである。それは、多少の予兆はあったにしても、また感染している以上、どこかに原因を探すことは可能であるにしても、やはり他者的な細菌の侵入というじたいと、先ほども書いたことだが、その菌が、存在することによって身体をむしばみ、みずからの足場を危うくするという矛盾を通して、ある種の摂理のようなものを遠く受け取らせる。存在し、生を持続する行為が、必ずしも地球の安定をおびやかすことがないというわけではない、という点で、考えてみればこれは人間のありかたと相似形なのであって、それを、珍しいものとして、理不尽ということばに回収するのは、奇妙なことかもしれない。だが、罹患してじっさいに苦しみを味わうものからすれば、珍しいかどうか、人間の行為に同形のものが見出されるかどうかなど問題ではなく、ただただ恐怖なのである。

もうひとつは、妻の邦江も含めた、それを見守る側の夢想だ。昌子の発作はいつ訪れるかわからない。しばらく静かにしているとおもったら、突如としてうめき声をあげて、反り返り、舌をはさんだ状態ですさまじいちからをこめて顎を閉じてしまうのである。大病院に落ち着くまで近くの病院でああでもないこうでもないと、ほぼ誤診といってよい状況をくりかえしたあとに、ほとんど地続きでそういう24時間態勢の看病をしているので、夫婦はろくに睡眠もとらないまま何日にもわたって緊張を持続させていくことになる。その疲労感ときたら、読んでいるこちらも疲れきってしまうほどなのだ。感染の恐怖もあり、また、その馬血清の件もあって、覚悟を決めた夫の言動をきいたせいもあり、妻の邦江はいったん帰宅した際に、ほとんど発狂寸前にまでなってしまう。体力と洞察においてはまだ余裕があるとおもえた筆者も、昌子の手を握りながらうとうとしたりしたときなどに奇妙な夢をみるようになり、夢かとおもえばそれが現実と連続していたりして、たいへん消耗する日々なのだ。この夢の描写が見事で、最初に書いたような、僕がぎりぎり記憶している繊細な表現の片鱗は、こういうところに見ることができた。

 

 

昌子の症状はやがて落ち着き、大部屋に移ったところで、夫婦は帰宅するのだが、この最後の数ページがまた見事というか、不思議なものになっている。解説では、昌子が死んでしまった結末になっていたとしても、このぶぶんはたぶんほぼそのまま使えるのではないかと書かれている。夫婦にとって、昌子の回復はむろん喜ばしいことなのだが、昌子の小さな肉体に集約されて表現された、自然の摂理の矛盾は、もうすでに起こったことであり、忘れることのできないものなのだ。回復といっても、彼らはもとの場所にもどるのではなく、ある意味新しい段階に進むことになったのである。

 

 

 

 

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