今週の闇金ウシジマくん/第447話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第447話/ウシジマくん33






 

 

 

サンバービィが企画しているパーティーということなんだろうか、浮かれた人々がなにかよくわからない盛り上がりかたをしている。水着でいるのは雇われたグラビアアイドルとかっぽい。でも、どこかのクラブだとか、あるいはパーティー会場みたいなところじゃなくて、ふつうに誰かの家のようでもある。竹本の家なのかな。

その竹本優希は、だれかが薬物をつかった痕跡のあるテーブルの横、部屋のすみにうずくまっている。タバコのケースの奥に詰められている感じは、ハブがやっていたのと同じだ。じっさい楽園くんのハブは、中田やG10を通して、こういう何目的なのかよくわからないパーティーに薬物を流していたのだった。なんかいま考えると、ハブの視点って、現代的というか、シシックみたいな半グレ的な要素がけっこうあるよな。たとえば熊倉だったらこんなこと思いつかない、というか若い成金連中が夜な夜なこんなことしてるなんてぜったい知らないだろう。


 

竹本から「タクシー代」を受け取るのは紗里奈という女で、ウシジマくん冒頭で、東京にもどってきた丑嶋に金を借りていた女である。現在の見た目とはぜんぜんちがって、まあまあ魅力的な感じだが、たしかに目のまわりのメイクには同じ種類のものが感じられる。

紗里奈は10年後の現在でも若い格好を続けていて、むかしだったらただ存在するだけで大金が手に入っていたのに、不思議だな、みたいなことを無邪気にいって丑嶋に皮肉をいわれていた。それでも紗里奈に金を出す男はいるので、まだ生活はなんとかなっているようだが、けっきょくこのころの記憶がまだあって、そこから抜け出せずにいるのである。

今回のタクシー代はいつもより多いようだ。竹本は「今まで」ありがとうと紗里奈にいう。紗里奈もそれには気づくが、たいして気にせず、部屋にいる知り合いのグラビアの子たちと愛人契約をしてくれる社長はいないかと竹本に持ちかける。20万で契約して、5万ずつ紗里奈と竹本が受け取り、残り十万をアイドルが受け取る。事務所の給料だけではやっていけないのだそうだ。

しかし、「今まで」というくらいだから、もう竹本はかかわる気がない。わざわざ竹本を通さなくても会場には社長がいっぱいきている。直接話をつけろと竹本はいうのだった。


 

夜通しパーティーをした、そのあとの朝なのだろうか、竹本は新木というデザイナーと会う。僕はてっきりこれをよっちゃんだとおもってしばらく読んでしまったが、新木はデザインの勉強でキューバにいっていて、最近帰ってきたところのようだ。

新木の専門は40年代アメリカのワークウェアだという。学生時代、気に入ったビンテージの服をバラバラにして縫製を研究していたのだという。どういう仕組みで、どういう技術でつくられているのか、素材の状態から調べていったということだろう。新木が穿いているリーバイス501は古着屋で20万円もしたものだという。サメが何万年も前から進化していないように、リーバイス501は感性されて美しい。服がほんとうに大好きな新木は、ジーンズをなでてにやにやするのである。竹本はそんな新木をみて、ほんとうに好きなものがあっていいなあと、聞いたことのあるようなことをいう。竹本がこの業界を選んだのは、たまたまよっちゃんと選んだのがそれだったというだけのようだ。よっちゃんはよっちゃんで、新木とは別のしかたでアパレル業界に興味があったにちがいないから、たぶん竹本がよっちゃんに押し切られた感じなのだろう。




 

 

 

「僕は1を100にする能力はある。だけど、


 

0を1にする才能はない」




 

 

 

竹本が新木のポイ捨てしたタバコを拾う。むかしっからこんな調子だったのだ。

竹本がこの年齢で社長になれたのは、親の支援があったからだ。順序はよくわからないが、とりあえず、時給いくらのバイトでは得るものがないというのが父親の方針で、20万円で起業しろということになった。竹本は「最初の会社」といっているので、もしかするとサンバービィははじめて起業した会社というわけではないのかもしれない。ともかく、そのときは親が資金を1000万円も出してくれたという。なにももっていないところから1000万つくるのはたいへんだけど、20万円を1億にするのはかんたんだと、こういうはなしだ。


 

 

新木と別れた竹本は次によっちゃんと会う。新木の夢いっぱいなはなしを聞いたあとなので、竹本は「好きなもの」についてよっちゃんに訊ねるが、よっちゃんはどちらかというとアイデア勝負の経営者という感じなので、あまりおもしろいこたえは返ってこない。風俗やソープがとりあえず好きなようではあるが。

竹本は新木のことをはなすが、よっちゃんは新木のアーティスト気取りっぽい雰囲気が嫌いなようだ。サンバービィの経営者としてはよけいそうだ。「パタンナー」というのがなんのことかわからなかったが、デザイナーの描いたものを型紙に起こす役割のひとらしい。デザイナーの描いたスケッチみたいなのを見ながら、じっさいに服にするための設計図を書くみたいな仕事だろうか。サンバービィはとがったデザイナーより優れたパタンナーのほうが重要だという。しかし、デザインがなければ型紙も出てこないのだから、これは竹本の「0を1に」の議論に通じるものがあるだろう。

経営者であればよっちゃんのいうことにも一理あると考えるところかもしれない、デザイナーに任せていたら毎シーズン倉庫に在庫があふれてしまうと。先鋭的すぎる感性は、マーケティング的にはけっきょく過剰なものとなる。半歩先をいっているくらいがちょうどいい。そのくらいが、ひとびとの感性が届く範囲でもっとも先鋭的になると、こういうはなしだ。

よっちゃんにはしっかりした経営理念がある。経済は女でまわっている。感情に左右される彼女たちをいかにコントロールするかがカギなのだ。それで成功したのがサンバービィだと。サンバービィの生み出す服がどういうものかわからないが、よっちゃんの言い方だと、男受けを狙いつつも女性のプライドを維持できるタイプのものということになるだろうか。

よっちゃんのいうことにも理はあるが、それはあくまで儲けをとる経営者としての視点だ。とにかく売ること、それだけを目的とした消耗品にはうんざりだと、竹本はいう。こころの底からあふれでる、ほんとうに必要なものがいいと。しかしよっちゃんは無理無理と即答だ。クール・ハークにはなれないと。クール・ハークはヒップホップ文化の創成期に活躍したDJで、たしか2枚使いのブレイクビーツを発見したひとである。レコードの、ある曲の最初あたりにあるような、ドラムスだけのぶぶんをくりかえしかけると盛り上がるということに気がついた最初のひとだ。同じレコードを2枚用意して、2小節とか4小節とか、短いパターンをくりかえしつなげていく、その方法を2枚使いという。左のターンテーブルで該当の箇所をかけているあいだ、右のターンテーブルでレコードを巻き戻し、タイミングに合わせて、今度は右のターンテーブルを回し始めるのだ。これが、すべてのヒップホップ音楽におけるループの概念の基礎となっている。いわゆるフック(サビ)の箇所で多少の装飾がされることはあっても、アンダーグラウンドなラップ音楽のトラックは基本的にこのループで成り立っており、ひとむかし前のミクスチャーとか、比較的ポップよりのラップでも、ループが行われている場合は多い。スイートシーク以降の安室奈美恵も、バラード以外はたいていそうなっている。ここでよっちゃんがいっているのは、要するに、ヒップホップの父祖のような存在であるクール・ハークのようなオリジネイターにはなれないということだ。これも、「0を1に」にかんけいする発言である。クール・ハークは1を発見した人物だ。しかしじぶんたちはそうなれないと。

その意味ではよっちゃんと竹本はよく似ている。ただ、そのことをよっちゃんは割り切っている。テーマパークの張りぼてみたいな街に住むのがじぶんたちであり、そこには歴史も愛着もない。ただ消費だけが価値を決める割り箸文化。今後やってくるであろう、老人がちからをもった世界で、弱者である若者は、ひたすらじぶんの欲望に忠実に、自分勝手に生きていかなければいけない、そうやって、じぶんの欲望じたいをルールにする立場を目指さないと、搾りかすのような人生しかやってこない。だが竹本にはそれがもうすでにむなしい。次の世代のため、また身近な他人のためになにかをして、喜んでもらいたい。近くで寝ているホームレスのそばに、竹本は万券をおいていく。よっちゃんはこれを「洗濯をエビアンでするよう」だと表現する。これは、かつて、というかこの先の未来に、竹本が誠愛の家の面々に金を貸すよう丑嶋にいったとき、丑嶋が竹本にいった「便所をエビアンで流すくらい」という形容と響きあっている。丑嶋やよっちゃんのような現実的なものからは、竹本の行動はいつも同じように見えるのだ。


 

と、ここで、ついでのように竹本は、じぶんとよっちゃんは会社を辞めなければならないとはなしだす。監査をお願いしている先生によると、薬物がらみのパーティーを開いたりヤクザに金払ったりしているじぶんたちがいると、コンプラ的に上場できなくなると。あんまり突然そんなことをいうから、よっちゃんは外に出された金魚みたいにくちをぱくぱくさせて呼吸困難に陥っている。経理とか面倒なことは、じつは竹本の父親が行っていたので、社長の竹本はどうこういえる立場にはないようだ。よっちゃん的には、じぶんたちでつくったブランドが乗っ取られている、という感じのようだが、竹本のはなしでは、熊倉との件があるだけによっちゃんはじたばたしないほうがよさそうだ。

といっても、竹本はよっちゃんを見捨てるわけではない。退職金をつかってよっちゃんに出資するという。ヤクザとは縁を切って、新しいブランドを立ち上げるのだ。服にかんしてはともかく、経営者としてはたしかに才能がありそうだ。竹本は新木にも出資するつもりだ。というわけで呼吸困難から持ち直したよっちゃんは、いい奴すぎる竹本を逆に心配するのだった。




 

 

 

 

つづく




 

 

 

 

セリフの多い回だった。竹本が出てくるといつもこうなんだよな・・・。


 

長い休載が入ったのでずいぶん前のことのような気がするが、振り返ってみるとこの前に竹本が描かれたのは十代の小百合が登場したときで、あれは獅子谷と熊倉が顔を合わせた回だ。だから、コミックで読むとこれらの描写はけっこう近くなるものとおもわれる。例のなんにもない部屋で歯磨きをしていたときだ。竹本は「タクシー代」こみで小百合の面倒をいろいろ見ていたが、これでそれができなくなる。来週は丑嶋との別れが描かれるらしいから、おそらくその、小百合がどうやってパスされたかも描かれるにちがいない。

この時代の竹本は、ヤクザが目をつけるような大きな会社を経営していて、しかもかなりいい部屋に住んでいるのだが、そこにはまったく家具というものがなかった。歯磨き回のときに『幽霊学入門』を参考にして考えたことだが、家具は家主の「私」を象徴するものである。世界最初の探偵小説である「モルグ街の殺人」はエドガー・アラン・ポーによるものだが、同時に怪奇小説家でもあった。このふたつのジャンルの同居は、ベンヤミンの分析を踏まえると、「家具」を通して実現している。とりわけポーが舞台としたヴィクトリア朝のインテリアでは、モノの氾濫とその蒐集、多様な文化の流入などによって、家主の個性が強くインテリアに映し出されることになる。家主の代用品としての家具は、探偵小説の世界では証拠や推理のヒントとなり、怪奇小説では「そこに存在しないはずの誰か」、つまり幽霊を示唆することになる。こうしたことを踏まえると、竹本の部屋になにもないということは、彼における「私」というものが不在しているということが示されていると考えられるのである。

なぜそういうことになっているか、ひとつにはむろん現状のむなしさがある。スコット・フィッツジェラルド的な、大恐慌直前のアメリカみたいな狂騒と、そこに感じられるうろのような空洞が、竹本にじしんの行動の意味づけを難しくさせているのだ。それが必然のように感じられないのは、よっちゃんのような合理的思考が正しく見抜くように、ひとびとのある種の蒙昧さが、かんたんにコントロールされるすきをつくっていて、獅子谷が野球選手を引き合いにしてごくかんたんなことであるかのようにすらすらと脅迫の手順を語ってみせたように、そこにつけこむようにむだな消費をつくりだしていく過程に使命感を覚えることができないからだ。このことにかんしては、今回よっちゃんがくわしく仕組みを説明してくれた。竹本がうんざりしているのは、ひとことでいえば「私利私欲の世界」である。だが、よっちゃんにいわせればそこには必然性がある。じぶんたちは「オリジナル」にはなれない。張りぼての世界で、歴史や愛着などの「背景」なしに、その場その場の思いつきで生きていくほかない。やってくる未来は老人が支配していて、若者はさらにチャンスを奪われる。歴史も愛もないから、動機もない。ただ、金や女や物などに対する欲望だけがそこにある。もしそれを満たそうとしたら、それに忠実に、そして欲望を追求することそれじたいがルールになるような環境をじぶんで作っていかなければならない。しかし、そもそも、欲望を満たすことはそんなに大事なことだろうか。それも、必要のないものをつくって、多くのひとにそれを必要だとおもわせて、膨大な消費を生んで、その余ったお金で、わけのわからないひとたちを集めてわいわいすることが、そんなに大事なことなのだろうか。竹本のむなしさはこういうふうに育まれていったのではないかとおもわれる。ともかく、この世界は「私利私欲」を原動力にして動いている。そして、竹本はそれにうんざりしている。結果おとずれるのが家具の消失であり、のちの聖人的ふるまいに通じる公人化である。公人であろうとするとき、竹本の内側からは私的なもののいっさいが消え去ってしまう。なぜなら、公人でありたいと望むその欲望は、彼の身体や精神から出発するものではなく、彼が想定している社会とか、少なくとも「私」を含むその枠組みの外側にあるものから発生するものだからだ。竹本は周囲が引くほど、公的なふるまいを徹底して、しかもそれをときどき他人にも要求する。それは、彼じしんの望みではない。彼にはもはやなにかを望む主体というものがないからである。それはただ、そうすべきであるという、究極の一般意志のようなものとして竹本に認識されている、なんらかの指標なのである。


 

とはいえ、サンバービィの件は、竹本が落ちぶれ、また聖人化するきっかけにはなったとはおもうが、その片鱗は中学生のころからあった。たとえば、ことあるごとに話題にしてきた、例の「僕もひとを好きになってみよう」という発言である。今回もそれとほとんど同じやりとりを新木としていたが、母親が好きだという丑嶋に対し、好きという感覚がわからないなどといい、またそれをうらやましがり、そのように望んだのである。通常、ひとはそうなろうとしてひとを好きにはならない。というか、そう呼ばない。しかし、竹本のばあいはまず言葉が先にくる。まず世界があり、そこに存在するもろもろに名前をつけていくことで言葉が発生した、という創世記的な言語観を「言語名称目録観」という。これをソシュールという言語学者が否定した。目の前にあるお花は、「お花」と呼ばれる前からお花だったのではなく、わたしたちが「お花」と名づけたときにはじめて、茫漠とした海のような世界のなかで「非お花」から差異化・分節され、一定の面積を保持した「価値」をもつことになったのである。竹本が言葉で、テキストで世界を把握していると書くと、そういう、ソシュール的な言語観が浮かぶが、これはそれとも異なっているようである。「お花」という言葉を受け取って、通常の言語のなかで理解しようとしたら、彼はやはり「お花」をすでに経験している必要があるだろう。ところが、彼はそれがなんだかわからない。経験したことがないから、見当もつかない。ただ、それがどうやら快いものであるらしいということは、丑嶋や新木を見ていてわかる。そしてさらにいえば、彼はそれを肯定したいと考えている。丑嶋との会話がありながら、何年かたったあとに新木とも似たような会話をしているところをみると、どうやら竹本はけっきょく「好き」というのがどういう感情なのかということを、まだつかめていないようだ。竹本にとって「好き」という感情が言葉である、ということは、たんにそう名づける感情が手元にないということではなく、分節しようにも対象が見つからないから、読めない外国語のように保留しておくほかないものだ、ということなのだ。

いずれにしても、竹本において「好き」という感情は肯定され、守られるべきものとして理解されているようである。これはおそらく、「好き」という感情の本質よりも、それがもたらしている幸福感とポジティブな印象それじたいが原因ではないかとおもわれる。がつがつした私利私欲ではなく、もっとシンプルに、純粋に、愛をともなって発生する感情、それが「好き」であって、竹本じしんはそれを理解できなくても、それが正しいということは、彼にはわかったのである。じつに不思議なことだが、作中随一の愛の体現者のような彼は、実は愛という無償の感情じたいを理解してはいないのである。ただそれが正しいことだということはわかっている。そして、彼はそれを守りたい。これが彼が聖人化した最初の原因ではないかとおもわれるのである。たんに愛に殉じるということなら、わたしたちはふつう、じぶんの愛するものに殉じる、という意味にとらえるだろう。しかし竹本はそうではない。愛それじたいを、彼は経験することができない。しかし肯定はする。だから、ひとびとの愛が活発化するような世界を目指したい。竹本のばあいは、「愛という言葉に殉じる」のである。


 

「0から1へ」のくだりも、こうした理解でとらえてもかまわないだろう。もともと「好き」をできないほどの彼は、さらに、うつろな狂騒と意味のない膨大な消費を目の前にして、いよいよその感覚を強くしていったはずである。現在の達成はすべて親の援助によるもので、じぶんのちからで行われたものではない。彼は、ひょっとすると、新木の「好き」のような原動力がないから、じぶんは0からなにかを生むことができないのだと解釈しているのかもしれない。いずれにしても、のちの彼は、ゼロどころかマイナスの場所にいるひとたちが「1」にたどりつけるよう、文字通り命をかけることになる。じぶんは「1」を生むことはできない。しかしそのことは肯定している。だから、彼は、ひとが「1」を生めるよう、サポートする側にまわっていったのである。





闇金ウシジマくん 41 (ビッグコミックス)/小学館
¥価格不明
Amazon.co.jp

闇金ウシジマくん(40) (ビッグコミックス)/小学館
¥価格不明
Amazon.co.jp

闇金ウシジマくん(1) (ビッグコミックス)/小学館
¥価格不明
Amazon.co.jp