『Mの女』浦賀和宏 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『Mの女』浦賀和宏 幻冬舎文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミステリ作家の冴子は、友人・亜美から恋人タケルを紹介される。第一印象からタケルに不穏なものを感じていた冴子は、一通のファンレターを契機に、タケルに不審を抱き、彼の過去を探ることに。するとそこには数多くの死が……! そしてその死は着実に冴子と亜美にも近づいていた。逆転に次ぐ逆転。鮮やかに覆っていく真実。これぞミステリの真髄!」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

 

何度か書いていることだが、浦賀和宏は僕にとって島田荘司、村上春樹と並んで重要な作家で、青春時代のあるぶぶんは完全にこのひとの影響によって構成されていた。高校時代はせっせとピアノの練習にはげんでいたが、それは『記憶の果て』の影響だし、関連してよりひろい音楽を聴いていこうとなったのも最初にこの作品でいくつかの示唆を与えられたからだった。考えてみれば、小説作品でありながら、島田荘司が綾辻行人や我孫子武丸を呼び、村上春樹が高橋源一郎や海外文学を、また高橋源一郎が吉本隆明や金子光晴などを呼んだように、文筆の方面では広がりのある枝はなかったようなのだが(『記号を喰う魔女』を読んでカニバリズムについて研究したくらい。ひょっとするとフロイトに抵抗がなかったのはそういう動機もあったのかも)、いずれにせよわたくしの青春時代を彩るたいへん重要な作家という位置づけなのである。

 

 

 

デビュー作『記憶の果て』から続くいくつかの作品は安藤直樹という人物を中心にしたシリーズで、特に『時の鳥籠』『頭蓋骨の中の楽園』はある種三部作、謎があります、名探偵がいます、論理的に解かれますという、よくもわるくも硬化したミステリに慣れ親しんできた僕には驚きの構造で成り立っており、おそらく悟性の面でもかなり影響を受けているとおもわれるのである。いちおうミステリのジャンルに入るとはおもうので、あまりくわしく語れないのが歯がゆいところだが、トリックというトリックはもう出尽くしたといわれて久しいこのジャンルで、この作家にかんしてだけは、そういうのはかんけいないんじゃないかなあといつも感じてきたのだった。

 

 

といいつつも、実をいうと安藤直樹のシリーズが終わって(作品が書かれなくなって)からはあまり追ってこなくて、本書と同じ幻冬舎だと桑原銀次郎というライターを主人公にしたシリーズが人気だが、これも一作しか読んでこなかった。一作完結のものはそれでもときどき手に取り、『地球平面委員会』なんかは一回しか読んでないのに細部まで覚えているし、つい最近だと『緋い猫』はたいへんな傑作で、読むのが遅い僕には珍しく一気に読んでしまった。そして本作もまた同じく、半日で読んでしまった。安藤直樹のころはやはりその構想力というか、世界観を形象する作家的感性にとにかく天才性が感じられたものだが、そこに職業作家的なスキルが備わった感じである。

とはいいつつも、一作完結の、しかも短いおはなしだと作家の構想力というようなはなしにはなりにくくて、おそろしいおもしろさで一気に読んでしまいつつも、どこまでもつかみきれないような作家のパワーには欠けているようにも感じられていた。浦賀和宏ならこのくらいはふつうに書ける、だがもっとおそろしいものがこのひとにはあると、ずっと感じていたのである。ところが、本書を読み終えて、ちょっとわからないぶぶんがあったために、いろいろ調べてみた結果、本書が電子書籍のみ刊行の『メタモルフォーゼの女』というシリーズの導入、あるいは軸のような物語だということが判明したのである。あらすじだけ読んでみたところ、どうやら本作に登場して、はっきり細部が描かれないまま、消化不良に消えていった人物たちが、それぞれの視点で描かれているようである。浦賀和宏の醍醐味はまさにこれなのだ! 僕はスマホ等で電子書籍を携帯できる環境にないので、いまは読めないのが非常に残念だが(パソコンなら読めるけど)、できたら紙媒体で出してもらいたいものだ。ちなみに、本書について調べていてついでにわかったことで、『彼女は存在する』という、これも電子書籍版の小説である。幻冬舎文庫では『彼女・・・』ではじまる作品がいくつか存在する。最初の『彼女は存在しない』のみ単発の作品で、そのあとはすべて桑原銀次郎のシリーズということになっていた。ところが、じつは、これらの作品はぜんぶつながっているようなのである。電脳空間ですべての物語がつながっていくというのは安藤直樹のシリーズを思い起こさせるが、ともあれ、こういうことをどうやら作家じしんも自覚的に行ってきているようである。僕のばあいは桑原銀次郎のシリーズを『彼女の血が溶けてゆく』しか読んでいないので、まだそちらにいくことはできないのだが・・・。

 

 

こうした「すべてはどこかでつながっている」という感覚は安藤直樹のもので、じっさいにそういうセリフがある。ふと考えたのだが、いまその接続の方法を「構想」という言葉で表現したけれど、果たして、浦賀和宏はなにもかもあたまのなかに設計したうえで、ミクロの物語をつむいでいるだけなのだろうか。そういうタイプの才能も世の中にはある。漫画だと尾田栄一郎とかがそうだとおもう。ワンピースの世界は、世界の果てまで作家のあたまのなかに完成されていて、あとは描くだけという状態になっていると、そう感じられるのだ。しかし、僕はここには作家的感性というより、名探偵的感性、つまり批評的な解釈のちからを見て取りたい。安藤直樹が「すべてはどこかでつながっている」として、じっさいに事物の接続を看破してみせるのは、その接続関係が最初から頭に入っているからではない。ただ、彼には確信がある。ある事件を経て、彼はいっさいの表情を失ったロボットのような人間になってしまう。その安藤は、どのように無関係にみえる事物も、どこかで、特別なしかたでつながっていると確信しているのである。「つながっている」という前提があるからその接続の方法を探すのに迷いはなく、こたえをみてから解法を導くように、彼は世界の仕組みを暴いていくのである。だから、まるですべてが見えているかのように傍目にはおもわれるのだ。おもえばこれは、浦賀和宏の構想力に触れるときのわたしたち読者の立場ではないだろうか。ある程度の枠組みはあっても、最初から、たとえば『頭蓋骨の中の楽園』のような構想があって『記憶の果て』が書かれたとは、考えにくいのである。それよりも、「つながるはず」という確信が、作品のなかからヒントを探し出し、二次創作的に新しい物語の層を生み出すのではないかとおもわれるのである。

 

 

考えてみれば桑原銀次郎も、『緋い猫』も本作も、主人公はみんな足で「ヒント」を見つけ出していく。なにもかも最初からわかっているかのような安藤と比べると彼らはいかにも凡人で、ずいぶんあいだをあけて浦賀和宏を読んだものとしてはそれがけっこう意外だったものである。彼らは、非・非凡という意味でぜんぜん名探偵じゃないし、ああでもないこうでもないと考える過程には、ほとんどまとはずれの推理もかなり含まれているのである。これが、作者のスタンスとかぶってみえるのだ。といっても、内田康夫のように、謎をまず用意して、書きながらじぶんでそれを解いていく、という書き方を浦賀和宏がしている、ということではない。謎に対するポリシーということだ。ここでいう「謎」とは、じつは「世界」のことである。思い通りにはいかない、なにを考えているかわからない他者で構築された、まるっきり正体のつかめない「世界」のことである。謎というのが世界と同義であるということも、『頭蓋骨の中の楽園』で安藤が示したことだし、その推理を包み込むわたしたちの認識というものも相対化可能な信号のようなものにすぎないということは『記憶の果て』で学習させてもらった。世界とは巨大な謎であり、謎を解くということは世界の真実に迫るということであり、そのときに、事物の接続は明らかになっていくのである。むろん、形式的にはミステリなので、伏線という意味では、ずいぶん仕掛けもされている。しかし、どちらかというとそうした仕掛けはけっこうわかりやすく配置されている。というのは、名探偵的感性が批評と同質のものだとしたとき、その推理はある意味では決して心理に到達しないからである。事物が接続することはたしかに証明することができる。しかし、それじたいは恣意的なもので、解釈しだいでは別の方法による接続を示してみせることも可能なのだ。だとするなら、彼らが発見するヒントもまた恣意的なものである。それを要請するのは、推論の能力かもしれないし、勘かもしれないし、偶然かもしれないが、たとえば本書でいえば、ひとはじぶんの見たいもの、発見したいと願っているものを無意識に探してしまうぶぶんもあるわけだ。「ヒント」やそれが導くこたえは、決して唯一無二のものにはならない。おもえば、『彼女は存在しない』以降、作者がどんでんがえしの名手として認識されてきたのも、こうした作劇のしかたが背景にあったからかもしれない。ある推理が次々とくつがえるのは、ふつう、その推理がまちがっていたからだと考えられる。わたしたちは、物語が終わることで、どんでんがえしの波がやみ、最後のこれがいちおうの結末だというふうに受け止めて本を閉じる。しかし、じつはそんなことは誰にもわからない。原理的に推理の誤りを指摘するちからは、その推理の外側からやってくる。だが、おはなしが終わってしまっている以上、その外部のちからがありうるのかどうかというのはもうわからない。科学的な反証可能性が、そのじてんで失われてしまうのである。わたしたちがそれを「真相」だと認めるためによすがとするのは、「はなしが終わった」ということだけなのである。どんでんがえしじたいは、ごくありきたりな形容で、作品をスリリングにするための、いってみればスキルである。だが、ここまで徹底的にどんでんがえしにこだわり、じっさいそのような作家として認知されている点には、相手が浦賀和宏であるぶん、なにか深い闇のようなものを感じてしまう。つまり、くりかえされるどんでんがえしは、結末の無二性を損なうか、あるいは保留してしまうのである。

 

 

『Mの女』が『メタモルフォーゼの女』とどのような関係にあるか、またどのような順序で執筆されたのか、読んでいないのでわからないが、本書の結末(特に“ある人物”が登場して以降)には、どんでんがえしが生むスリルと、それが着地したときのカタルシスを相対化するような、やはりなにかこの作家の底知れないものが感じられる。ここまで本書についての具体的なはなしをぜんぜんしていないことにいま気がついたので、以下、結末には触れずにストーリー的なものを書いておこう。主人公は西野冴子という作家だ。あるとき、亜美という、微妙に仲良くないクラスメートが連絡をとってきたところから物語ははじまる。亜美はしばらくしてからタケルという恋人を紹介するのだが、冴子はあまりよい印象をもたない。そこに、ある主婦の読者からファンレターが届く。ファンレターというか、内容としては推理作家の冴子への相談ということで、となりの部屋に住んでいた南城萌という女の子が自殺したのだけど、どうも不審である、ストーカーに悩まされていた彼女は、ひょっとするとひょっとするのではないかと、こんなはなしだ。そして、そのストーカーの男の名前がタケルであり、亜美の彼氏と見た目もそっくりなのである。続けて、おそらく主婦から相談をしてみろといわれたらしき白石唯という、南城萌の友人からも手紙が届く。手紙には『鈴木家殺人事件の真実』というノンフィクションの本が添えられていた。実に唐突なプレゼントで、冴子も最初はなにがなにやらわからないのだが、どうもこの一家が皆殺しにされた鈴木家の唯一の生き残りである、当時9歳だったTというのが、タケルのようなのである。また、従弟の奥さんが誰かに突き飛ばされて流産するという事件が起き、これについても調べてみると、タケルは従弟夫婦とも関係があり、従弟はタケルがやったんじゃないかと疑っている。なぜこれほどまでにタケルのまわりでひとが死ぬのか、というかそれ以前に、なぜこれほどまでに冴子の人生に、それもそれぞれ別個の場所にタケルが登場するのか、わけがわからなくなってくるわけである。そして畳み掛けるのが冴子に相談をもちかけたものたちの反応である。最初にファンレターを送ってきた主婦も、流産した妻の旦那である従弟も、まるでそれをなかったことしてくれといわんばかりに、冷たい反応になっていくのである・・・。

じっさいのところ、いちばん最後のぶぶんにかんしては、本書ではほとんど明かされない。これが、どうも『メタモルフォーゼの女』のシリーズに該当する箇所のようで、主婦や従弟がそれぞれの短編の主人公になっているみたいだ。しかし、こんなふうにストーリーを箇条書きしてみても、とてもあのスリルが伝わるとはおもえない。はなしの複雑さとしては、僕の読んだなかでは医療を題材にした『彼女の血が溶けてゆく』に近いものもある。しかしその複雑さは、実のところ主人公じしんが呼び込んでいるものだ。謎をかたまりとして受け止めた主人公は、「ヒント」を探しながら、ああでもないこうでもないと、あるときは無意味な、冗長な推理も含めてあたまを働かせ、掘り下げるというより粘土をぺたぺたくっつけて即興で作品作りをしていくみたいに、複雑な全体をみずから生み出していくのだ。そしてすっきり全体が調和したと確信できたそのときに、だまし絵的に図像が反転し、別の姿が浮かび上がってくるのがどんでんがえしなわけだが、くどいようだが今作ではおそらく『メタモルフォーゼの女』も踏まえてこれらの反転という動作じたいを相対化しているようなところがある。本作への真の評価はたぶん『メタモルフォーゼの女』を読まなければすることができないのだ。

 

 

 

僕にとって浦賀和宏は特別な作家だが、手軽な娯楽小説としても一級なので、ためらいなくおすすめすることができる。僕としては安藤直樹のシリーズがいちばん好きだけど、これは実質『記憶の果て』『時の鳥籠』『頭蓋骨の中の楽園』の、最初の三作以外手に入らない。というか、そもそもそれ以降は文庫化されていないのである。桑原銀次郎のシリーズもまちがいなくおもしろいが、なかなか複雑なので、ミステリを読みなれている必要があるかもしれない。『緋い猫』もかなりのおもしろさだったが、以上の観点からいうと、単発作品ということでけっこう異色作である(映画的な作品ともいえるかも)。というわけで、『Mの女』が現状いちばんすすめやすい(「安藤裕子」的な要素が含まれているのも好ましい)。これを読んでもし気に入ることがあれば、『メタモルフォーゼの女』なり『記憶の果て』なり『緋い猫』なり『彼女は存在しない』なりに進めばよい。