『人間不平等起源論』ルソー | すっぴんマスター

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■『人間不平等起源論』ジャン=ジャック・ルソー著/中山元訳 光文社古典新訳文庫

 

 

 

 
 
 
 
 
 
「わたしたちは、フランス革命を導いたルソーの代表作である本書と『社会契約論』に繰り返し立ち戻ることで、国民がほんとうの意味で自由で平等であるとはどういうことなのか、どうすれば国民が真の主権を維持できるのかを、自分の問題として問い直すことができるはずである」Amazon商品説明より
 
 
 
 
 

 

 

僕の立憲主義についての学習も、いろいろ寄り道しながらついにルソーにたどりついたぞ。そういう意味でいえば、ルソーといえばやはり社会契約論なのだけど、どうもその前にこれを読んでおいたほうがよさそうなので、どちらも僕ではフロイトの訳で馴染み深い中山元訳出ているので、順番に読んでいくことにした。

 

 

いまでは権威的な響きさえあるルソーという名前だが、じっさいはかなり変わった人物で、仕事にかんしてはフランス大使の秘書をやったり、あるいはオペラ、音楽を書いたりしていて(成功はしなかった)、なにか落ち着かないようなところがあるようである。多才といえばそうなのだが、天才肌のひとによくあるように、じぶんの才能がどこにあるのか自覚していないようなところがあったのだ。一般的によく知られている論文でもっとも古いものは本書になるだろうが、じつはそれ以前にも「学問芸術論」という懸賞論文を書いているし、以前から政治に関心もあったようではある。「人間不平等起源論」もまた懸賞論文で、「メルキュール・ド・フランス」誌で公募していた「人間の不平等の起源はどのようなものか、それは自然法(ロワ・ナチュレル)のもとで認可されるものか」という問題に応えたものだ。これがいわば前段となって国家成立にいたる道筋を解明し、「社会契約論」へとつながっていくようである。

 

 

フランス革命を好んで描く宝塚なんか見ているとルソーの影響力がどのようなものだったかよくわかるし、現在まで続く人民主権論を最終的なかたちとして提出したのはルソーであるとおもわれるのだが、それ以前にもロックとかホッブズみたいなひとたちは存在したわけである。本書を読んでもっとも意外だったのはこのひとたちにかんするルソーの考えだ。僕はてっきり、ホッブズが自然状態というものを仮想し、それを踏まえたうえでルソーが社会契約論を展開したのだとおもっていた。しかしぜんぜんそうではないのである。というか、ルソーの考える自然状態、つまり契約のなされていない、原初の状態の人間関係というものは、ホッブズのものとは正反対なのである。ホッブズに限らず、ルソーは当時の論者たちをある点でことごとく批判している。それは、原初の状態を想像するにあたって、現在の、契約後の人間社会が抱えている概念だとか条件をことばとして持ち込んでしまっているという洞察である。ホッブズはホッブズで、これもまた非常に論理的な、というか理屈っぽい人物であったが、まだ身体的というか、体温の感じられる距離感だった。ルソーはそうした学者的な論理性に加えて、メタ的な思考法がかなり自在にできる人物だったのである。

自然状態にもいくつか仮説があって、ルソーはそのどれをもこうした点から否定していくが、たとえばホッブズにかんしていうと、自然状態とは万人の万人による闘争が行われている状態である。法のない世界において、限りある資源をめぐってひとは必ず普遍闘争の状態に陥る。強いものが弱いものから奪い、強いものは警戒をゆるめることのできない激しい緊張感のなか身を守り、世界はひどくすさんだものとなる。『リヴァイアサン』でホッブズはこの状況を「競争」「不信」「誇り」の三つの要素で説明する。こうした世界で、身を守るため、またじぶんじしんや愛するものの生活を保持するために奪うことは、法がない世界においては自然権として認められるものである。善も悪もないのだから、誰もそれが悪いことだとは考えようがない。けれども、奪うものは、奪われることについてもある程度覚悟しなければならない。そういう世界は、総体としては損ばかりの社会である。むしろ自然権のいちぶを合議体や最強者のような、ある種の恐怖で人民を威圧するものに預け、統一的に暮らしていくことで安全を図ったほうが、結果としてはみんなが得をするのではないかと。だから、契約が必要なのだ、というのがホッブズの論旨なのである。しかし、ルソーはこの真逆をいく。そもそも、ルソーからすれば、ホッブズが想定した三つの要素が、契約後の世界にしか存在しないものであり、自然状態では考えられないものなのである。だいたい彼らは言語さえもっていないのだから、決まりごとについて互いに合意することができないし、所有という感覚もなかった。そうなると「奪う/奪われる」という状況認識さえあやしいはずなのである。おもえばホッブズは、社会を構成する原子としての人間を考え抜くことから、国家という「リヴァイアサン」を再構築していったのだが、この解体・構築の発想の出発点がすでに現在の国家だったわけである。合理的に、慎重に考えをすすめていったぶん、ルソーのようなある種の想像力に駆動された飛躍はなされていないのである。

ではルソーの考える自然状態はどういうものかというと、それは自己保存と憐れみの情が導いた平和な世界である。ルソーはそれを考えるにあたって、いまでいう人類学みたいに未開社会にあたったり、動物に育てられた子どもの例をあげたりしているが、そういう状況証拠的なものも含めて、やはりルソーのもっとも説得的な点は、その想像力に支えられた力強い文章だろう。言語をもたない原初の認識は、他者以前の世界があいまいに溶け合った乳児のものに近いだろうが、それはフロイトやソシュールが登場して構造主義誕生の準備が整うまでは当たり前の発想ではなかったはずで、そうしたところにもルソーがいったいいつの時代の人物なのかよくわからなくさせる感じがある。しかしその大洋的世界のなかにも、自己を保存しようとする欲求と、他人が苦しむ姿を見たがらない憐れみの情があったことはまちがいないと、さまざまな方法を駆使して、ルソーは力説するのである。所有もなく、だから奪い合いもない、また家族がないから言語ももたず、自尊心なんてものとも程遠いこの素朴な人間たちは、決して普遍闘争などというややこしい状況にはならなかったはずなのである。

ここまでくれば、「社会契約論」を著したルソーのいいたいことがほんとうはなんだったのか、ちょっとずつ見えてくる。要するに、ひとびとのあいだに不平等をもたらし、生きることを苦しいことに変えてしまったのは、そして人民の自由をとことんまで奪い、なんなら新たな自然状態を生み出したのは、むしろ国家のほうなのである。けれども、解説でも書かれているように、だから自然の生活にもどろう、というふうにはなしが展開されるわけではない。それでは「社会契約論」は書かれない。自然の生活に戻れないことはルソーもよくわかっていた。かといって苦しさに耐えなければならないということではない、よりよい社会を築くことは不可能ではないはずである。そうした探究が、「社会契約論」に実っているのである。

 

 

本書では考察が中断されているが、言語の成り立ちにかんする記述が非常にスリリングで、これはどうやら「言語起源論」という本に引き継がれているようなので、とりあえずこちらも手に入れた(ちょうど岩波文庫から新訳が出たばかりだった)。なのでまずこちらを読み、そののちに、当初の目標であった社会契約論にとりかかろうとおもう。