今週の刃牙道/第141話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第141話/孤高

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12人の警官を苦もなく片付けた宮本武蔵。相手は銃をもっていたが、日本特有のためらいもあってか、けっきょく発砲はされず、おそらくそのためもあって、武蔵もさすまたを切り落とし初動以外では刀を抜かずに、イメージ刀と素手の殴打だけでこれを制圧したのだった。

 

 

その件がふつうにテレビのニュースで報道されている。たたかいの詳細が語られているわけではない・・・。さすがに、刀はもっていたけど厳密には素手で、12人全員イメージでやられました、とまではいっていないが、乱闘の末姿を消したと。いちおう、キャスターは「武蔵と名乗る男」といってはいる。うーん、光成は、どういうつもりなのだろう。まあ、そういうはなしをしたら、そもそも、この事件のきっかけであるテレビ番組出演からしてなんでオッケーしたのかというなってしまうのだが、だいたい、武蔵はクローンで生れた存在じたいがタブーな人間なのである。いや、武蔵がタブーというか、彼が存在しているということが、誰かがタブーを破ったことの結果なわけだ。そしてもちろん、こんなふうに大事になって、武蔵の顔や存在が不特定多数のものに知られてしまうことも、好ましいとはおもえないだろう。屋敷から出て行くことさえ光成はとめていたのだから。ひとつには、じつは光成のちからというのは、わたしたちが想像しているほど大きくはないということなのかもしれない。総理大臣さえアゴでつかうような彼でも、立憲主義のまともな国内で、無法者の存在を認めさせることはできないのだ。光成がそこまでの強者で、ほとんど独裁的にものごとを決めることができるとして、もしそれを認めてしまったら、それはもう近代的な国家とはいいがたいものとなってしまう。できるかどうかということが問題なのではなく、いち市民として、そういうことはやるべきではないと、そんなはなしかもしれない。

そういうことに加えて、詳細は不明だが、テレビ番組への出演を認めたことからしても、武蔵がどれだけ強くてすばらしいかということを周知したいという無意識の欲望が光成にあったとしても不思議はない。だいたい、クローンにかんしては、仮に光成がみずからすすんで「あれはクローンです」と証言したとしても、信じてもらえるかどうか微妙なものである。ほんとうは隠さなきゃいけないけど、でもせっかく復活させたのだし・・・というようなへんな顕示欲があるのかも。

 

 

彼は何者で、どこに向かっているのでしょう、というようなキャスターの発言を受けて、番組を見ていたバキは本部のいっていたことを思い出している。じぶんたち現代のファイターは、勇次郎でさえが、関係性のなかに含まれて、それぞれにつながって生きている。しかし武蔵はどうだろうと。あのはなしについて作中で解説はなかったが、今回バキがたんねんに読み解いてくれている。

 

 

 

 

 

 

(「生きる」とはそう

 

 

誰かとの繋がりのなかで営まれる)

 

 

 

 

 

 

冷静になってみれば、考えなくてもわかるようなことだ。しかし、武蔵の双眸に射すくめられ、他人を拒絶したような無機質な眼差しに魅入られ、孤高の武士道(イズム)、異次元の戦力、精悍な佇まいを前にし、あの「孤高」の孤独を見ようともしていなかったと(以上の形容はほぼ作中のバキの表現)

そのように語るバキのような現代人でさえが、生きていれば孤独を感じることがある。いわんや時代を超えて復活した剣豪においてをや。家族も親戚も友人もいない場所でいきなり目を覚ました宮本武蔵の孤独は、想像を絶するもののはずである。バキはそれをおもい、またそれに気づかなかったじぶんの愚鈍さをおもい、拳を握り締めて悔しがるのだった。

 

 

その武蔵は、夜間、高架下で火をたいて、眠らずにじっとしている。相変わらず、なにを考えているのかはさっぱりわからない。ひとがいないところでもそうなのだから、もう彼のばあいは自然に表情が浮かぶということがないのだろうな。

そこへ片目をつぶされた大塚がやってくる。橋のうえには最新装備の警官が100人待機している。宮本武蔵といえども、勝てるわけがない。「兵法者」なら、なにがみずからを守るのか、賢明な判断をしろと、降伏をすすめるのである。ただ、みたところマシンガンをもっていたりはしてないようだな・・・。でっかい透明な盾と、たぶんあのバットみたいな警棒をもってるだけだろう。

 

 

最新の装備といわれてもピンとこないだろうが、「100人」の意味は武蔵にもわかるだろう。最新装備じゃなくても100人は脅威のはずだ。12人では末堂も逮捕できないと前回書いたけど、100人となると作中強者でも突破できるものはかなり限られるはずだ。範馬一族とピクルを除くと、独歩クラスでもかなりあやしいかもしれない。スピードのある烈とかならいけるか・・・?という感じ。13歳のときバキも100人とたたかったことがあった。まだぜんぜん未完成とはいえ、あのときのバキもすでに常人離れした強さだったはずである。しかし、36人だか37人だかあたりで負けてしまった。あのときの相手も武装してはいたが、みんな10代の不良だったはずである。日々訓練を怠らない屈強な警官たちがきっちり防具をつけて100人も押し寄せたら・・・。銃がないとしても、やはり突破できるものは勇次郎やピクルくらいしかおもいつけない。

が、別に武蔵はなにも態度に出さない。というかむしろ用事ができてうれしそうですらある。かたわらにおいていた刀を差し、待っていたといわんばかりに、捕えたらよいと大塚にいうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ国家権力と本格的に衝突する運びとなった。ああいう装備の警官が銃をもっているのか、もっているとしてどういう大きさの銃なのか、というのはわからない。が、ここではそれはたいした問題ではないだろう。極端なことをいえば、銃にかんしては、スナイパーが最強である。あの勇次郎でさえが、最大トーナメントで大暴れしたとき、ハンターたちの一斉射撃に不覚をとっているのである。押切連介の『焔の眼』という漫画に登場する最強者・クロは、スナイパーの殺気を針のように感じ取ってそれをかわすなり弾くなりして、狙撃主のもとに一瞬でたどりつき、これを倒すということをやってのけていた。とぎすまされたファイターの感性であれば、こうしたことができるようになるといわれれば、そんな気もしないでもない。しかし、仮に200メートル離れたところにいるスナイパーに気づいたからといって、その弾丸をかわせるということにはならないし、倒すにしても、弾丸があたらないまま一瞬で200メートルをつめる、ということをやってのけなければならない。だから、ほんとうに武蔵を殺そうとしたら、スナイパーを何人か用意すればよい。だが、この場面で問題になっているのは、とりあえずはまだ、「どうやれば武蔵を殺せるか」ということなのではない。勇次郎が総理官邸を襲ったときも同様に100人の機動隊が登場したはずだが、「100人」というのは、99人でも101人でもないその数字に意味があるわけではなく、要するに「たくさんの人間」ということなのである。

武蔵としては、これは戦である。戦とは、相手国の憲法を書き換えるということだ。つまり、これは日本国の決めているルールと、武蔵の抱えているルールのぶつかりあいである。日本国の法律は、ひとを刀で切り殺すことを認めていないし、刀を常備することも認めていない。さらにいえば、倫理的なレベルでは、クローンというものが認められない。しかしだからといって武蔵は、刀や技術を封印してコンビニでバイトするわけにはいかない。それは宮本武蔵の死を意味する。武蔵は、じぶんをじぶんたらしめているものを保持する権利を得るために、日本とたたかわなければならない。とはいえ、武蔵としては権利の獲得が目的なので、いってみればこれは独立戦争である。日本の国のルール全部を書き換えることがねらいではなく、じぶんにかんして特別のルールを設けよという意志があるのだ。だから、武蔵としては、攻めるというより、じぶんの存在を咎めるものたちを打ち払う、という態度になる。今回の高架下にたたずむ姿は、そういうものを示しているだろう。

対して日本国、ここでは警察のなすべきことは、そういうふるまいを国内では認めていないということを示すことである。一般的な意味における犯罪者もまた、ある意味では固有のルールを内に抱えており、それを国家が認めないというしかたで、逮捕という状況が生じる。だが、これを戦と呼ぶことはない。もしそう呼ぶのだとしたら、内戦のない国というものはこの世からなくなってしまうだろう。武蔵は、わが意を通すというファイターとしての動機と、孤独なものとして存在する権利を獲得するという二重の意味で、法律と対決しなくてはならない。だからこれは戦として解釈しうる。しかし警察にとってみれば、武蔵はただの「超強い犯罪者」でしかない。というか、その文脈に落としこむことが、国家権力としての使命だともいえる。ある無法者を、国の定めたルールに関して、「別のルール」で生きているものか、相対的な「そうではないルール」で生きているものか、どちらととらえるかによって、これは変わってくるかもしれない。武蔵が勇次郎のようなレベルの強さかどうかというのはまだ警察にもわからないし、そのぶぶんの解釈はまだ潜在的なものだろう。だがいまのところは、警察は武蔵を「ルールを破っているもの」ととらえることに集中している。うまくいえないが、警察にとって武蔵は、外国人というよりは非シティズンといったところなのだ。そうすることによって、武蔵は、別の法にしたがっているものではなく、国内の法にしたがわないものとして広く国内に生きるものとしての国民に包摂される。不思議なことに、武蔵をアウトローとしてとらえることがむしろ彼に国内における居場所を提供するのである。

 

 

大塚の認識などについてはよくわからないが、ここへきてスナイパーなどの身もふたもない手段ではなく、「100人」という方法が採られているのは、国家権力側の不安が見て取れるものかもしれない。つまり、警察は、治安を維持する存在として、武蔵を法の枠内で捕えたい。要するに、国家はこの件を決して「戦」にするわけにはいかないわけである。なぜなら、「戦」は、国内の生活を安定させる法を相対化するものであり、それが行われるということじたいが、国民にとっては不安なことだからである。定義上、そうした法はある種の絶対性をもつことで有効に機能することができる。「戦」は、それがおこってしまうことじたいが、国民の視点を相対化してしまうのであり、国家としては好ましくないのである。だから、あるいは集団の無意識において、武蔵の強さがちょっとシャレにならないものかもしれない、ということに気づいている可能性はあっても、彼らはそれを決して認めない。なんとしても、外部から国を相対化するものではなく、「超強い犯罪者」としてこれを捕えなければならないのである。そのために、彼らは通常暴漢などを制圧するときのような方法を拡大したようなやりかたでこれに臨むことになる。たとえば、外国のテロ集団みたいなのがどこかに立てこもって何人も殺している、みたいなことになったら、彼らはもっとちがう手段に出る。だが武蔵はまだその段階としてはとらえられていない。その結果、彼らは通常の逮捕の方法を倍化・拡大するしかたで、100人集めたのである。

 

 

 

武蔵の孤独にかんしては、いろいろ考察をすすめてきたが、ようやく作中で、しかもかなりわかりやすい説明がなされることになった。この孤独についての理解は、本部が武蔵になにをなしたのかということにつながっていくだろう。あの、武蔵を絞め落とした場面での述懐である。本部は、武蔵から知人たちを守護るとともに、武蔵をも守護ることとなった。そしてそのはなしの流れで、いまさら武蔵の孤独に追いついたと、こう述べているのである。はなしの流れからして、本部の闘争は武蔵の孤独を癒す一助となったはずなのである。それはどういうことなのかというと、バキが今回強く実感していた、生の営みにおけるひととひととのつながりということだ。武蔵にはそれがなかった。なにしろ400年も眠っていた古代人のような存在なのである。だが、その技術をずっと受け継いできた人間がひとりだけいた。むろん本部である。だから、バキたちは本部を通じて、武蔵にコミットすることができる。それまでのバキたちは「イメージとしての宮本武蔵」を見ていた。五輪書や肖像画などを通して知っている武蔵を、実際の武蔵の動きで確認していただけなのである。だから彼の実力を見誤ってきた。本部は闘争を通じ、そのイメージを破壊してほんものの武蔵の実力を引き出すとともに、みずからを媒体として武蔵の孤独を目に見えるものとし、実物の存在として地に足つけさせたのである。

そうした展開があって、いまの武蔵の行動がある。いまでも宮本武蔵というものは有名なようではあるが、どうも彼らの見ているものはじぶんじしんそのものではないらしい。そういうことを武蔵も感じ取ったかもしれない。彼は、いまのこの生身、文字通り光成という個人から授かることになった偶然の生を正しく生きるために、存在の権利を獲得しなくてはならない。コメントでも指摘をいただいたことだが、彼の動機である富と名声という点からしても、彼はいまのこの生身でそれを獲得したいと考えたことだろう。だからこその「戦」なのである。そしてそれはいま、「超強い犯罪者」として生じつつある。ただ、このたたかいには際限がないだろう。とりわけ、今回は勇次郎のときとちがって、ふつうに報道されてしまっている。国からしてみれば、国を保持するためには、落としどころを見つけてなかったことにする、ということができないのである。彼らはぜったいに、なんとしても武蔵を倒さなければならない。ひょっとしてそのためもあって、妙なところでアメリカ大統領候補たちの描写がはさまれたのかもしれない。大統領を経由して勇次郎の一声があれば、このたたかいをとめることはできるにちがいない。それとも、犯罪者ということになれば、ハンターとしてオリバが出てくるなんてこともあるかもしれないから、そっちのほうの流れで勇次郎や大統領が出てくるかな?独立戦争なんて観点からすればゲバルとも相性がよい。なんにしてもあんまり極端なはなしになる前に誰かとめてくれないと・・・。