■『翻訳と日本の近代』丸山真男/加藤周一 岩波新書
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「日本の近代化にあたって,社会と文化に大きな影響を与えた〈翻訳〉.何を,どのように訳したのか.また,それを可能とした条件は何であり,その功罪とは何か.活発な言論活動を続ける評論家の問いに答えて,政治思想史研究の第一人者が存分に語る.日本近代思想大系『翻訳の思想』(1991年刊)編集過程でなされた貴重な記録」Amazon商品説明より
どこかで見かけた(たぶん水村美苗だとおもうけど)本書を岩波のショタレのなかから発見して読んでみたぞ。
有名な政治思想家の丸山真男だが、僕はこのひとをはじめて読む。実をいうと『日本の思想』という、本書と同じく岩波新書から出ている本をもっているのだが、難しくて途中で挫折・中断してしまっている。政治思想というものじたいにあまり馴染みがないということもあって、普段しないような思考法と言葉遣いで、ひどく消耗してしまうのだった。
本書成立の背景には、岩波書店が出した日本近代思想大系というものがある。そのうちのひとつである『翻訳の思想』の編集を担当したのが本書の加藤周一と丸山真男だった。これの作業において最後に解説を残すのみというところで、丸山真男が体調を崩してしまったため、執筆じたいは加藤周一が行うことになり、それにあたって加藤周一が丸山真男にいろいろ質問する、という場面が設けられたのである。だから、本書は対談形式ではあるけれど、厳密には問答である、と、編集部による冒頭の文章にはある。たしかに、基本的には加藤周一が質問して、博覧強記の丸山真男が脱線しつつも延々としゃべりつづける、という感じではあるのだけど、読み進めればむしろ一周して対談ということでもよろしいのではないかという感じもしてくる。ふたりの意見はいつもまったくいっしょということではないし、加藤周一がかなり食い下がる場面もあっておもしろい。丸山真男は悪いひとではないようで、こうしたところでも嫌な雰囲気になったりしないし、きちんと互いに尊重しあっている感じも好ましい。内容的にも僕には興味深いものだったし、非常に知的でスリリングな対談だった。
なにが書いてあるのかというと、けっきょくはインテリのふたりのおしゃべりなので、くっきりと示しだすことは難しいが、ひとことでいえば、明治維新において西洋の脅威に接した日本がどういう行動をとって、またなぜそうなっていったのかということである。西洋の概念を取り入れ、思考法をつかって、思弁するなり行動するなりしようとするとき、当時の日本人たちはそのままではいけないことを痛感して、手当たり次第、がむしゃらに「翻訳」をしていった。明治維新が欧化にほかならず、近代化というのが西洋にしたがって変容していくことなのだとして、いずれにしてもそのころの日本にはそれしかなかった。つまり、翻訳にかんして、なにをどのようにしていったかを追及すれば、おのずと維新の真の姿というものが浮かび上がってくるのである。
このことにかんしてはおもしろいはなしがかなりあって、まず前提として、本書でいえば荻生徂徠など、維新のずっと以前から知的な蓄積があって、外部を取り入れる土台のようなものができていた。丸山真男は荻生徂徠がかなりお気に入りのようで、よくまあそんなにというほどいろいろとおもしろいはなしが出てくる。それまでは外国といえばオランダや中国で、特に中国は、ずっと以前から日本のそばでその威容をふるっていたあこがれの存在であった。しかしこれがアヘン戦争でイギリスに敗北する。これを受けて日本はたいへんに焦ったわけである。侵略されるとも考えたかもしれない。中国は、中華思想といって、世界の中心が中国にあって、それがはなつ光が世界を照射し、中央から遠ざかるにしたがってアナログに関係性を失っていく、華夷秩序という枠組みで世界をとらえている。だから、国土の端っこくらいはむしろ野蛮人どもにくれてやる、くらいの感覚だったようだが、神の国という発想で、土地を代々受け継いで神聖なものとしてとらえる日本はより事態を重くとらえた。翻訳にかんして、文化的にはいままでずっとリードしてきた中国より日本のほうが多くのものを得ることができたのは、そして引いてはすばやい近代化を達成できたのは、こういう、ものの考え方のちがいがあったのである。また、よくいわれることだが、当時のアメリカは南北戦争をしていて、現実には侵略どころではなかった、という、日本にとっては幸運な事情もあった。そのすきに日本は大急ぎで翻訳をして、よくもわるくも西洋化していったのである。維新のころの近代化の速度、またじっさいにいまでも目にすることのできる、福沢諭吉など当時の知識人たちのなしたことを知り、その絶大な知性に触れると感動してしまうが、それはじっさい奇跡的な成り立ちだったのである。
あまり翻訳翻訳といってもあるいはなんのことかわからないというひともいるかもしれない。僕も、加賀野井秀一の新書や柳父章の本を読むまではそんなことを意識したことはなかったのだが、今日、わたしたちのつかっている日本語というのは、そのほとんどが、明治維新のその短い期間に、福沢諭吉、西周、中江兆民、箕作麟祥といったひとたちが海外のことば(概念)を、仏教の古いことばを転用したり造語したりして翻訳したものなのである。個人とか、社会とか、自由とか、哲学とか、理念とか、極端なことをいえば二字熟語はだいたいそうとさえいってしまってもそれほどまちがいではないかもしれない。たとえばsocietyという英語が指し示すものは、かつての日本にはなかった。いちばん近いものは「世間」かとおもわれたが、もう少しマクロ的である。本書によれば(135頁)それが「社会」になっていったのは明治10年ということで、それまでは「会社」といっていたこともあるそうだ。Individualも福沢諭吉などは当初「独一個人」などと訳していたが、短くなって「個人」となった。「個人」も「社会」も、それまでは存在しない言葉だった。それはつまり、そういう概念がかつてはなかったことを意味する。もう見えている世界がぜんぜんちがったのである。柳父章はこうした翻訳語がカセット効果をもたらすと示した。カセットとは宝石箱ということで、明確に意味を知らなくてもなんとなくで使用することができてしまうということである。柳父章はそこに否定的な意味をあまり持たせていなかったような記憶もあるが、僕が最初にこの手の問題に興味をもった加賀野井秀一というひとの本では、これを日本語の、そして日本人の問題点として取り上げていた。当時僕は冷泉彰彦から山本七平までを踏まえて、カセット効果がいわゆる「空気」を醸成するものだととらえていたが、翻訳語がよく意味のわからないまま使えてしまうという状況が生じるのは、日本語が機能として言語学的には膠着語という分類にあったことによるものである。日本語は、ある程度のテンプレートを身につけてさえしまえば、固体の単語を放り込むだけで文章を成立させてしまうことができる。○○は××である、という鋳型が使いこなせれば、このぶぶんによく知らない外来語を埋め込んでも、文章としては成立してしまう。そしてカセット効果により、ここに放り込まれたよくわからない言葉は宝石を内に秘めているかのような輝きをもつことになる。結果としてはそれが権威的になる。よく会社や学校にいないだろうか、ほんとうにそれ意味わかってつかってるの?といいたくなるようなカタカナの外来語をやたらと使いたがる上司や教師というものが。それは外来語のカセット効果がもたらす権威を利用しているのである。コンプライアンスとかインセンティブとか、発音をそのままカタカナに表記したようなものよりはまだ誠実であるとはいえ、翻訳語もその点では似たようなものである。個人とか社会という概念は日本にはなかった。生れたときからそれに接してきているわたしたちにとっても、日本社会にそうした概念が歴史的に根付いているわけではないのだから同じことである。だから、現実には、どこかこうした言葉に対して、わかったつもりでいるぶぶんがかなりある。日本人なら誰だって理念と概念と観念のちがいを説明するのは難しいのである。
とはいえ、明治維新にかんしていえば、本書のはなしを踏まえると、よくもわるくも膠着語としての日本語は非常に有効に働いたわけである。日本は一刻もはやく西洋に追いつかなければならなかった。歴史的にはどうだか知らないが、アヘン戦争での中国の敗北を受けてそういう危機感が強くあった。膠着語としての日本語は、だいたいでありながら、また今日の目線からするとちょっとそれはどうなんだろうというような翻訳でありながら、文章として成立することができたのである。
いまはとりあえず、その挫折した丸山真男の本を(どこかに埋まっているとおもうが)最初から読み直さないといけないなあという感じだし、福沢諭吉はもともと好きだけど、それより荻生徂徠や本居宣長など江戸時代の学者にかんする本ももっと読まないとだめだなあと痛感した。そして、本書を読んでしまうとやはり、これが生れた原因であるその『翻訳の思想』が読みたくなってくる。が、これはどうも中古でなければ手に入らないっぽい。どうせすぐぼろぼろになるから、問題はないので、アマゾンで買っちゃおうかなあ、高いけど・・・。
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