今週の刃牙道/第139話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第139話/対国家(たいくに)

 

 

 

 

 

 

 

 

生放送のテレビ番組でキャスターの言動にキレてイメージ斬りしてしまった宮本武蔵。烈惨殺にかんしての訴えもあったし、それ以前から武蔵は動画サイトでは人気もののはずである。内海警視総監直々に光成邸を訪れたこともあったが、光成のお金パワーと武蔵の現実の強さで、いままでうやむやにされてきた。しかしさすがにテレビの影響力はバカでかい。じっさいのところ武蔵はなにもしていないも同然である。もしこれで逮捕されてしまうなら、わたしたちはいつでも、逮捕してほしいものの前にいっていきなりぶっ倒れ、切られたと主張しさえすれば、それが可能ということになってしまう。しかしこれにかんしては、イメージの刀が多くのものには見えていたらしいということ、そしてすでに武蔵が有名人であることなどもからんでいる。警察としては、べつに動きたくもないが、かといってなにもしないのも、世間からどういわれるかわかったものではない。もともと武蔵は烈の件もあって、ほんらいであれば逮捕しておくべきものだった。警察も個人個人では千差万別、めんどくさいなあというものもいるだろうし、捕まえたくてしかたないものもいるだろう。ともかく、「世間」が武蔵の存在を知ったことが、警察を間接的に動かしたのである。

最初はいつもどおり内海を経由して穏便に済ませようとしていた気配があるが、武蔵にそのつもりは微塵もない。今度はイメージではなく、ほんものの刀を持ち出して警察の前に立ちふさがったのである。それで内海らは逃げてしまうが、武蔵はさらに歩をすすめる。光成は武蔵を追い、これを止める。敷地内で起こることなら、責任はとる。なんとでもする。しかし門を出てしまえば、じぶんの権力は及ばない。そう光成はいう。ふーん、そういうものなのか・・・。こんな大金持ち、知り合いにいないので、いまいち感覚がつかめないが、内海があんなにかんたんに引っ込むのも、そういう事情があったわけか。

 

 

 

 

 

「武蔵

 

 

おぬしは門の外では生きられぬ」

 

 

 

 

 

 

ここでいう「門」とは、じぶんの庇護下ということだろう。そこにはいろいろな意味が含まれる。門の外を出たならば、光成の権力は通用しない。また、彼は戦国・江戸の人間であるから、現代でそのまま生きて行くのはかなり難しいだろう。光成が保護しているからこそそれは可能なのだ。武蔵的なちから、つまり暴力を発揮させることも、通常の社会では許されない。光成の監視する闘技場であるから、武蔵は刀をふるえる。武蔵が武蔵たろうとしたら、光成の保護は不可欠なのである。

もどってくる武蔵を見て光成がほっと息をつくが、武蔵は説得されて帰ろうとしたわけではない。しゃがみこみ、光成を抱き寄せたのだ。ありがとうと。もちろん、武蔵は門の外に出てやすやすとやられてしまうつもりはこれっぽちもないだろう。若干の悲愴感が気になるが、武蔵にはまだ余裕もある感じがする。だが、それでも、今後どうなるかということはともかくとしても、光成が武蔵を心配してそういうことをいっているのはまちがいない。それを余計なお世話とせず、ありがとうと感謝しているのである。これは本部がもたらした感情だろう。

 

 

 

そしてついに武蔵が外に出る。門の外には、塀に沿うようにたくさんのパトカーがとまっており、たくさんの警官が待機している。テレビで警察の訓練をやっているところがうつされるときよく見かけるさすまたみたいなやつをもっているひともいる。

指揮しているのは捜査一課警部補・大塚平兵衛という小柄な男だ。武蔵の悪魔的闘気を目にして、「スゴ玉」だと、かなり正確に凄みを見抜いているようだ。武蔵は内海がいないのを気にしているが、現場の人間ではないので帰ってもらったそうである。警部補ということで役職的にはそれほどでもないが、大塚は風格的にもかなりベテランで、凶悪犯のあつかいに長けているのかもしれない。

と、へらへらした雰囲気からころっと態度がかわる。この刑事もなかなかのすごみの持ち主だ。武蔵はふつうに二本帯刀している。銃刀法違反の現行犯である。任意同行という手順を踏む必要はない。

武蔵は空を見上げてから、遠慮なく捕まえたらいいだろうという。

大塚は落ち着いたものだ。刀に依存するのはかまわない。しかしそれは、国家権力を敵にまわすということだ。警察は秩序維持のためにつねに強者でなくてはならない。そのために、個々の警官の実力や装備ももちろん優れてはいるのだろうが、それ以前に、国家権力の具体であるという役回りじたいが、通常は脅威なわけである。警察を敵にするということは、国が国として成立するために整えているルールを敵にするということにほかならないのだ。

武蔵は顔をくしゃっとさせて笑い、続けてすごむ。

 

 

 

 

 

 

「貴様らこそいいのか・・・?

 

 

国が俺に斬られても・・・?」

 

 

 

 

 

狂気というかビッグマウスというか、客観的にはたいそうな発言なのだが、大塚は落ち着きを崩さない。べつにバカにもしない。話し合いが無理だとわかったので、彼はついに指示を出す。大塚が手を挙げると同時に、さすまたをもった数名が近寄り、その背後にすでに銃を抜いた何人かが待機している。刀を抜いたら撃つと。

武蔵が腰を返す。たぶん誰も刀身を見ることさえできなかっただろう。なにかが光ったとおもったら、さすまたの先端が落ちているのである。

武蔵は宣言どおり、戦をはじめるつもりだ。予想以上の武蔵の実力とはじけっぷりに考えを改めた大塚は、射撃の指示を「抜いたら」ではなく「動いたら」に変更するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

こりゃおもった以上にマジな展開だぞ。

作中強者が、集団の警察とぶつかる描写じたいは、これまでもあった。いちばん強烈だったのは、総理大臣襲撃を予告して、100人の機動隊と激突した勇次郎だろう。またスペックの例もある。いずれにしても、これじたいは珍しいことではない。しかし、武蔵の描写は明らかにそれらとは異なっている。武蔵が勇次郎やスペックより劣るとはとうていおもえない。少なくとも必殺性、殺傷力では、刀をもっているのだから、勇次郎以上のものがある可能性さえある。にもかかわらず、どこか悲愴感がある。なにか、踏み出してはいけない領域に、ある種の必然性をともないつつも、ついに踏み出してしまった感じがあるのだ。

その意味はおそらく「国を斬る」のひとことに回収されるだろう。

勇次郎が総理大臣を襲撃したはなしが収録されているコミック、それがどこにあるのか見当もつかないので、ものすごいうろ覚えだが、どうも彼は、じぶんにはそれが「できる」ということを証明しただけで満足のようだった。するかどうかは重要ではないのである。これは、ちょっと前の大統領候補たちとのやりとりとも一貫性がある。勇次郎は、国家に匹敵する腕力をもっているといわれるが、じっさいにそれを行使して国を制圧するようなことには、少なくとも二十歳をすぎてからはあまり興味がない。それがひたすらに潜在的な「可能態」として語られてさえいれば、別に文句はない。彼にはそんなことより、バキや武蔵みたいな強者とたたかったり、あるいはそれに匹敵する危険に臨むほうが重要なのであり、ただただめんどうくさいだけの国家との消耗戦などということには、もはやそれほど食指を動かされないのではないか。ただ、これは朱沢江珠がいっていたことだったか、個人の暴力が国家に匹敵することがありうると、そういうことが世間に知れ渡ることは好ましくない。特に青少年は強い影響を受けて、まともな社会生活を放棄してしまうかもしれない。勇次郎が「可能」なことにはそれだけの意味があるし、勇次郎にもそれだけのカリスマがある。

勇次郎の拳も、武蔵の刀に負けず劣らず危険なものだ。ヘルメットをしていても手刀で頭蓋骨を砕かれるし、脚のひと振りで夏草みたいに人間を束にしてなぎ倒す。必殺性ではそう差はないともおもわれる。しかし、勇次郎の大統領襲撃がどこか「明るい」ものであったのに比べて、今回の武蔵の決意はいかにもものさびしい。尺八の調べが聴こえてきそうなほどだ。それは、武蔵のいっていることが比喩ではないからである。彼における勝負とは、特にもといた時代では、真剣勝負を意味する。ピクルと同じく、勝負がはじまるということは、どちらかが死ぬか再起不能になるということなのだ。その同じ文脈で、武蔵は国について語っている。だが、だからといって、武蔵が国家というものを軽んじているというわけではない。そうではなく、これが真剣勝負の文脈であるということは、同時にみずからの生についても覚悟をしなければならないということなのである。

武蔵は国を斬らんとする。それはつまり、みずからも国に斬られる可能性を勝負の文脈に含めたことを意味する。要するにいつも通りの真剣勝負だ。ただ、その相手が概念であるというだけのはなしである。武蔵がどこまで勝負するつもりなのかわからないし、彼の本気度もちょっと不明だが、勇次郎のときとは異なる悲愴感はそうして説明することもできるだろう。

 

 

また、戦というものの本質に立ち返ったとき、今回では光成のはなしもヒントになる。ルソーによれば、戦争とは、相手国の憲法を書き換えようとするもののことだ。ここではこの「憲法」というものを、もっと広く、法律、ルール、常識といったようなものとしてとらえるとよいだろう。光成は、屋敷のなかにいるかぎりでは、武蔵を守ることができるという。そして、屋敷の外では、守ることができないばかりか、武蔵は生きて行くことができないとまでいう。見たように、ここにはいろいろな意味がある。過去のひととしての武蔵が生きていくのが難しいという標準的な意味、剣豪が剣豪としての価値を保持したまま生きていくことはできないという潜在的な意味、いまこの瞬間の屋敷の外は危険なので出て行くと死んでしまうという切迫の意味などである。いずれにしても、武蔵がもし屋敷の外でふつうに生きていこうとしたら、刀を手放し、ひとを斬らないものとなり、仕事を見つけ、現代の常識を身につけなくてはならない。当然のことながらそれは宮本武蔵というものの死を意味してもいる。しかし彼が宮本武蔵のままであろうとしたら、現実のルールがぶつかることになる。現実は帯刀を許さないし、斬りたいからといって斬ることを許さないし、互いに合意であっても死者を出す決闘を許すこともないからである。つまり、どうやっても武蔵は屋敷の外でふつうに存在することができない。宮本武蔵であることをやめるか、さもなくば戦、すなわち「ルール」との勝負に立つか、その二択になるのである。これも武蔵の立ち姿に悲愴感が感じられる理由だろう。武蔵は、じぶんが現世に存在する権利を獲得するために、ルールに対して勝負を挑むほかないのである。ここも勇次郎とは大きく異なっているところだ。勇次郎の拳がどれだけの破壊力を秘めていても、存在しているだけで逮捕の対象になるということはない。ふつうに生きて行くために勇次郎であることをやめる必要もない。ちょっと闘争衝動を我慢すればいいだけのはなしだ。その闘争にしたって、加減をすれば殺さずにすむだろうが、武蔵は刀をつかえばどうやっても相手を再起不能にしてしまうだろう。勇次郎は、じぶんの存在する権利を獲得するために、ルールにたたかいを挑む必要はない。むしろ彼はじぶんから喧嘩を売りにいって、それが制圧可能なものであることを確認して満足しているくらいである。だが武蔵はそうではない。光成の保護がなければ、存在することも許されない。もともとクローンというタブーの技術でよみがえったという問題も内在しているのだ。

 

 

それでも、彼が存在する権利は、光成の保護下であれば、それなりに担保されていたはずである。しかし今回、武蔵はみずからそこを出る。これはおそらく本部のもたらした価値観である。長くなるので省略するが、本部は武蔵を倒すことで、イメージとしての宮本武蔵、わたしたちが「“あの”宮本武蔵」というようなときの武蔵を打ち倒した。バキたちは、武蔵を見ているようで見ていなかった。彼らが、肖像画や五輪書などから脳内に構築していたイメージがまずあり、、それをリアルに再現するものとして、武蔵をとらえていた。つまり、目の前の武蔵が二次的なものだったのである。だから実力を見誤った。むしろ本体はその向こうにあったわけだから。本部はそれを打ち払い、武蔵の本体を露出させた。彼が孤独と呼んだものは、要するに武蔵という個人を誰も見ていないという状況のことだ。バキや勇次郎の強さを、わたしたちは同時代人として語るだろう。同時代のファイターたちは、花山や独歩や渋川の強さの質を、みずからの肉体と地続きの、体温の通ったものとして感じ取り、語るはずだ。しかし武蔵はそうではない。彼の技術は現代とは断絶しており、誰もその真価を引き出すことはできなかった。ただひとり本部だけが、おそらく戦国から地続きの技術を経由して、武蔵に肉体を与えることに成功した。バキたちは、本部を手掛かりにしてようやく、武蔵の実体をつかむことができるようになったのである。なにが書いてあるのか、いまでは失われた言語で欠かれたヒエログリフ的な石板があるとする。ある程度のあてずっぽの研究と、ヒエログリフが実質絵であることから、わたしたちは漠然とその内容を推測してきた。そして、長い年月を経て、その推測は定説となる。わたしたちは疑うことなく、その石板をそのように読む。が、ここにはるかむかしから伝わるその言語を継承し続けてきたものがあらわれた。それが本部なのである。本部は、みんなが読んでいると思い込んでいるその内容は、実はぜんぜん別のものだといっている。それを翻訳することができるのは現在では彼ひとり。わたしたちは、本部の言語活動による翻訳をよすがにしてはじめて、そこに書かれていたことを知ることになるのである。

 

 

この「イメージとしての宮本武蔵」からの解放は、バキたちに悟りを与えたにちがいないが、同時に、現代に生きる武蔵にも変化を加えたのだ。武蔵じしんが、富と名誉を求めるぶん、イメージが先行していることについてはそれほど異存なかった可能性がある。本部はじぶんが武蔵に寄り添うことで武蔵の孤独を解消した。だがそれは同時に、富と名誉を求める限りでは意識されることのなかった孤独を武蔵に悟らせたということである可能性もあるのだ。武蔵は武芸者なので、文学的な意味での孤独はたいして問題にしないかもしれない。彼が問題にするとすれば、さきほどからいっている「イメージとしての宮本武蔵」だろう。本部が悟らせる結果となった「孤独」を、武蔵はある種の束縛として受け取ったのではないか。「宮本武蔵」でいる限りでは、光成のもとにいればよい。そもそも、彼が「宮本武蔵」でなければ光成がよみがえらせることもなかったのだし、それは理にかなっている。しかしそのままでは誰も彼の実力を正確には見抜かないし、いい勝負になることさえほとんどない。ここからは、「宮本武蔵」というスターではなく武蔵個人として生を確立しなくてはならない。だとすれば、法が認めても認めなくても、彼は屋敷の外に出なくてはならない。「帯刀したひとりの男」として帯刀の許されない場所に出て、個人のちからで解決しなくてはならないのだ。そうでなければ、彼は「宮本武蔵」であることを免れないだろう。国家のルールを書き換えようという試みは、彼自身が存在の権利を獲得し、現実と地続きの肉体を宮本武蔵の名のもとに手に入れようとするためのものなのだ。彼は光成に「ありがとう」という。存在することのできない武蔵がこうしてふつうに立っていられるのは、どうあれ光成の保護があったからである。これは、彼がいまで光成の保護を受けてきた、守られてきたことを認めたことを意味している。だがそれではもういられない。「宮本武蔵」ではなく、生身の武蔵として、これからは生きていかなくてはならない。だから彼はこれをすすんで認め、感謝し、一歩踏み出したのである。