『犬を殺すのは誰か』太田匡彦 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『犬を殺すのは誰か ペット流通の闇』太田匡彦 朝日文庫

 

 

 

 

 

 

 

「売れ残った子犬を冷蔵庫に入れて殺すペットショップ。違法業者たちがはびこるオークション販売。そして「飽きてしまった」という身勝手な飼い主たち。ペットブームの水面下に潜む「犬ビジネスの闇」に厳然と迫る。動物愛護法改正の舞台裏を大幅加筆」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

日曜の朝、9時半くらいかな、テレビ朝日で『ペットの王国 ワンだランド』という番組がやっている。関根勤と篠田麻里子が司会というかスタジオに犬を抱えた状態で座っていて、なんらかの取材や企画映像を見てコメントする感じのもの。僕の記憶では当初はふたりだったのが、ゲストでよく出演していたキスマイの横尾くんがいつのまにかレギュラーになっていて、ときどきその彼や篠田麻里子がどこかに出かけてなにかを体験してきたりして、いろいろな動物やそれにまつわる出来事を紹介したりしている。僕は毎週日曜は終日仕事なので、ちょうど出勤の忙しい時間帯なんだけど、てきとうにかけて歯磨きしたりしながら眺めている。犬や猫に限らない動物の映像がいっぱいで、キリンの健康診断はすごくたいへんだとか、ダチョウは笑っちゃうくらいあたまが悪いとか、おもしろいはなしも聞けるので、最初の数分しか見れないのだけど、毎週楽しみにしている。

もうけっこう前なんだけど、この番組に本書の著者である太田匡彦がゲストとして登場していたのである。その日のテーマは犬の引き取り業者で、なにしろ数分しか見ていないので細かいところはわからないし忘れたが、ペットショップの売れ残りとかを引き取って金をとるのはいいが、ぜんぜんまともに管理もしていない悪徳業者がモザイクをかけられて取材されている感じだった(ように記憶している。本書の内容とごっちゃになってるかも)。200匹からのワンちゃんが、乱暴に積まれたケージに押し込められ、糞の処理もなにもないのでケージの底も見えないような状態だった。散歩なんかしてるわけもないし、ろくに見てもいないだろうから、ストレスから犬の状態はひどいものになっており、みんなとにかく吼えまくっている。それで近所から苦情がくるのである。

 

 

 

くどいようだがほんの数分しか見なかったので、その後の番組の展開は不明だが、はっきりいって衝撃的な映像だった。ショックを受けて、しばらくはその映像を思い出すだけで息がつまってしまうほどだった。本書は番組冒頭で太田氏の著作として紹介されていたもので、だから出勤した僕はすぐにじぶんでそれを注文して、こうして読んでみたわけである。

僕は子どものころにウサギを飼育したことがあるきりで、犬や猫を飼ったことはなく、わが国にあらわれては消える悪しきペットブームみたいなものの原因の一端をあるいは担ってしまっているかもしれない、ただかわいいかわいいと施設や映像でそれらを無責任に愛でるだけの者だが、それなりにじぶんは良識の側に立っていると、確信していたというほどのものでもないが、淡く信じていた。けれども、ペットショップで犬や猫が売られるというその事実が示すほとんど論理的必然に気づくことはなかったのだから、考えてみればのんびりしたものである。順を追って考えれば、そういう状況があるにちがいないことは推測できたはずである。少なくともウシジマくんや刃牙道の作品構造をほどくよりはずっとかんたんな推測である。けれども、そこに至ることはなかった。無論、僕はこれほどの悪徳に与するものではないのだが、かといって、それを助長する消費者的目線、すなわち「商品としての動物」という視点が、動物への共感をしているつもりのなかに深く内面化されてしまっているのであれば、それはどちらでも同じことである。

 

 

僕は書店員であるから、ものを売って生活しているので、逆にいえばその視点には慣れ親しんでいるともいえる。取次が設定する場合とこちらから指定するばあいと、いろいろなシステムがあるし、書店によって異なるものではあるが、基本的には入ってきたものを展開して、売ることのくりかえしである。雑誌も書籍も日曜祝日以外毎日数え切れないくらい新しいものが出る。僕の担当するコミックだと、月にだいたい、書籍コミックと雑誌コミック合わせて1000種類くらいのものが発売される。うちは小さい店なので、ぜんぶはとてもおけないが、それでも大量に入ってくるときは入ってくる。それらは、売れればよいが、次から次へと発売される「次の新刊」に押されて、やがては既刊棚にうつることになるのであり、常備している人気作以外は、さらに月日がたって実績を生めなければ、返品することになる。個人的にはこの世に存在するすべての本を面陳したいという気持ちはあるにはあるが、そんなことはもちろん不可能であるので、ある程度は割り切って返品することになる。

いちおう入れてはみたがまったく売れない新刊、読んでみたらあまりにもおもしろかったのでどっさり注文したが微動だにしない既刊、こうしたものは、物理的事情から返品されることになる。では、ペットショップにおいて、売れ残った動物たちはどこにいってしまうのだろう。小売業をしていながらこうしたことにあたまが廻らなかったのだからのんびりしているというのである。

とりわけ日本では、生まれたばかりの小さな動物が好まれる。じっさいペットショップにいけば小さな犬や猫はたくさん展示されているし、ちょっとでも成長しているとあれとおもうくらい、幼い子たちばかりが売りに出されている印象がある。しかし、それらすべてがちゃんともらわれるわけではない。2012年の動物愛護法改正のとき、ペット業界と改正を主導していた民主党はもめにもめたが、そのときの業界側の言い分というのはだいたいこの「商品としての動物」視点のものだった。要するに、日本では幼い動物が好まれる傾向がある、育ってしまっては売れない、欧米の常識をもってきても、それは日本の常識ではないのだし、参考にならないと、こういうことである。しかし、どこからいえばいいのか、この言い分は異論をはさみたくなるものである。だいいち、幼い犬が好まれるのは、ほんとうに日本独自の傾向なのだろうか。欧米人だって、小さな犬や猫をみてキャーキャーならないわけではないだろう。しかし、それとこれとは別ではないだろうか。それじゃだめだというはなしではないのだろうか。

 

 

細かい数値による議論は本書を見てもらうとして、漠然としたはなしをすると、日本では一日に200匹くらいの犬がひとの手によって殺処分されているという。本書のもととなった単行本は2010年に出たものなので、あるいは状況はマシになっているのかもしれないが(そう願いたい)、ともかく当時のデータとしてそういうものがあった。それぞれの事情で動物を飼えなくなった飼い主や、売れなくなった「不稼動在庫」を抱えたペットショップやブリーダーが、返品でもするように保健所にこれを持ち込むのである。殺処分の光景は本書でも取材されている。とても直視できないこの様子を、太田氏は丹念に冷静に記述している。見上げたジャーナリスト魂だとおもう。

ペットを捨てる飼い主や、飼育をおろそかにするブリーダーなどにも直接取材をして、いろいろ腹の立つ描写も多いが、問題をひとつにまとめるとすると、やはりあまりにも幼すぎる犬が流通しているというところになるようである。どういうことかというと、欧米ではなかば常識であり、法制化もされていることのようなのだが、犬を販売するにあたって「8週齢」という基準が、ごく当たり前の基本事項としてある。8週というと56日だが、そのくらいの期間、実の親兄弟のもとで遊び、またブリーダーと生活をして人間になれないと、成犬してから問題行動を起こすことが多くなるのだという。それが飼い主の遺棄につながる。また、そもそもその「小さくてかわいい」ということを餌に衝動買いをさせるという商法じたいが、思考法としてまちがっている。なかば空文化しているところもあるようだが、愛護法改正案には夜8時以降のペットショップの営業禁止なども盛り込まれていたのだが、これは要するに、繁華街などで酔っ払ったあたまで衝動買いするようなことを減らそうという目的だ。動物を飼うというのがいったいどういうことなのか、ほんとうにあなたはこの先、10年か20年かわからないが、この犬や猫とともに生活をして、かわいがっていく自信、あるいは覚悟があるのか、そういう問いかけが、夜の繁華街ではとても成り立つとは考えられないわけである。もちろん、「小さくてかわいい」ことによって飼うことを決意する場合も同様である。ペットはお金で買えるので、そういう思考法に陥りやすい。しかし、動物はぬいぐるみではない。かわいいぬいぐるみを衝動買いして、あるとき飽きてしまっても問題はないが、動物はそうはいかない。むろん、生まれたばかりの犬や猫は、それはもう、とてつもなくかわいい。しかしそれが「飼う」ことと直結してはならない。目的化してはならない。「小さくてかわいい」から飼うのだとしたら、成長とともにかわいさは減退し、「飼う」ことの意欲も損なわれることになる。論理的にそうなる。それは、法改正に反対した業界側が、その発言ではしなくも露呈していることである。大きくなってしまえば売れなくなる、だとしたら、小さいまま買わせたその犬は、飼い主のもとで大きくなったとき、本来であれば買わなかったような存在になっていることになるからである。「大きくなれば売れなくなる、だから小さいうちに売る」というありようは、そのまま、飼い主が動物を遺棄することの変形でしかないのである。

 

 

ペットショップで動物を買うとき、わたしたちはお金を払うことになる。命の値段などという扇情的な表現もあるが、この動作が、わたしたちに「商品としての動物」という形式を内面化させてしまっている可能性はある。しかし、動物を売るひと、それを育てて届けるブリーダーなど、ペットの流通についてお金がかかることもまたまちがいない。殺処分ゼロを国をあげて目指すドイツほどに、動物の命に対する考えが一般化されればよいが、それと比べると日本の状況は信じられないくらいひどいわけである。いったいなにが問題なのか、根本的なところをつきつめると、「わたしたちはペットを買うとき、誰に(なにに)お金を払っているのか」というところになるのではないかとおもわれる。もちろん、8週齢の制限や営業時間の規制などは急ぎ必要なことであり、そこからはじめていかないことには、げんにいま存在している動物たちを救うことはできないのだが、やはりそれは応急処置を出ないようにも感じる。根本的に考え方が、たとえばドイツと日本ではあまりにちがいすぎる。それは、くどいようだが「商品としての動物」というみかたが内面化されているせいではないかと考えられるのである。事実動物が商品であるなら、僕がジャンプコミックを返品するようにすればよいし、読み手として飽きたら捨てればよい。しかし動物はジャンプコミックではない。たしかにわたしたちはお金を払って動物を買ってはいるが、それはじっさいには、支払われたお金と等価の存在ではないのである。「値段」は、ある意味便宜的なものだ。人件費や施設維持など、流通システムが成り立つのに必要だから支払われている、いわば税金みたいなものなのである。わたしたちは、レジスターを通して店員とのコミュニケーションにおいて、お金と犬を「交換」しているのではない。命を預かるにあたって、それを維持してきたシステムにお金を払うのである。そういう意味では、病院や学校など、社会が当たり前に成立するために必要な文化的インフラのようなものにペットショップがなっていけば、わたしたちに深く内面化してしまっているこの発想もやがては消えていくかもしれない。わたしたちは学校において、教師が授ける知識にお金を払っているわけではない。だいたい、その内容を知らない以上、まだ教育を受けていないものはそのものについて値段をつけることができないし、つけられていたとしても、それが正しいかどうかの判定はできない。それは教育が商売ではないからである。医療も同じことだ。わたしたちは専門家でなければ医師のいうことを信じるほかないのだし、細々と指示を出したり、診療代金を吟味してから治療を受けるかどうかを決めることもない。同様にして、犬や猫が人間の生活には欠かせない要素であるということが文化的インフラレベルで定着すれば、こちらの消費者的発想も消えていくのではないだろうか。別にペットなんかいらないよ、というひともたくさんいるだろう。それはそれで個人の問題である。しかし少なくとも動物と暮らしている、またこれから暮らそうかと考えているひとにおいては、そうした認識が必要なのではないかとおもわれるのである。