今週の刃牙道/第132話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第132話/孤独

 

 

 

 

 

 

 

武蔵を蹴りでダウンさせ、ついに仕留めるかというところで反撃をくらう本部以蔵。着込んでいた鎖帷子により致命傷は避けられたが、防弾チョッキを着て弾丸の貫通は防げても衝撃じたいは受けてしまうように、ダメージは避けられない。本部は手足にも具足をはめていたが、武蔵はここにも刃を通す。じっさいどのような損傷を受けたかは不明である。出血はないが、手足はふつうではない方向に曲がってしまっていて、仮に切断されていなくても骨は粉々になっているにちがいない。

正座してうなだれたようなかっこうになった本部を見て、バキはつい大声を出して試合の中止を求める。まあ、ふつうに見てたら、手足がぐにゃって肩のところも天内みたいな感じになってるわけだから、おわりである。だとしたらこれ以上やらなくていいじゃないかと、ごく当たり前の反応だ。

しかしそのバキの見立ては誤りだった。武蔵はバキの大声を聞いて、客席に知った顔の「少年(ぼん)」がいることに気がつく。ちょうど、蹴りでダウンした武蔵に近寄った本部のような状態だろうか。大勢がほとんど決まって、集中力を欠いてしまっていたところに、バキの叫びが響いたかたちだ。「きてたのか」みたいな感じでバキのほうに笑いかける武蔵なのだが、その瞬間を本部は見逃さない。膝からしたは動かないので蹴りこめはしないから、前に倒れるようにしつつ、畳んでいた膝や股関節を伸ばした感じだろうか。タックルで武蔵の懐に入り込んだのである。

 

 

こんなときにも顔に汗を浮かべたりして焦らないのが武蔵だが、本部は飛びついたまま刀をもった武蔵の手を膝で地面におさえつける。そして、何度も何度も、武蔵の顔の真ん中に頭を打ち付ける。武蔵の鼻からは冗談みたいに鼻血が噴出している。

本部も、これが最後のチャンスだと自覚している。使える技はあとひとつしかない。そしてそのチャンスが巡ってきたと。

からだの位置を武蔵のうしろにかえた本部が、まだ手首までは動く左手を武蔵の首にまわす。しかしそれをかためる右手は鎖骨を断たれているので動かない。そこで、ほとんど唯一、ものを固定できる箇所として、歯をつかったのである。服を噛んでるだけのようにも見えるけど、それだと強い衝撃を受けたときにジャックと同じことになりかねない。いや、それは中を噛んでいても同じか・・・。ともかく本部は、最後の技として、歯をつかった裸締めをつかったのである。

 

 

技としてはあまりにシンプルなせいか、観客席は騒然となる。そして、バキやガイアなどは勝機をみている。

武蔵は自由になった刀を、背後にいる本部の背中につきたてる。これはどうも防具を破って、ふつうに刺さっているっぽい。血も出ている。が、そんなことではもう本部を止めることはできない。両足は動かず、左手は手首から先が効かない。それよりも深刻なのは、最後にもらった方の一撃である。鎖帷子のおかげで切れてはいないが、そのぶん陥没しているはずである。鎖骨は分断され、肺がつぶれている。最後に十全な機能を残しているのはもはや顎だけ。これを少しでもゆるめたら、本部にはもうできることがなくなるのである。なにもできなくなれば、守護ることができなくなる。自身を、仲間を、時代を。

 

 

 

 

(そして何より・・・)

 

 

「アンタをだ

 

 

武蔵さん」

 

 

 

 

刀を握る武蔵の握りが徐々にゆるんでいく。本部の声は聞こえたのだろうか。やがて武蔵は気絶してしまう。本部の勝利なのである。

 

 

 

 

 

(すまない・・・

 

 

今さら・・・

 

 

今頃 追い付いた・・・

 

 

アンタの孤独に

 

今頃追い付いたんだ・・・)

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

これは・・・これは想像もしない驚きの結末だった。武蔵に勝ったよこのひと!バキとか独歩をてきとうにあしらい、烈の命を奪い、勇次郎と引き分け、ピクルをずたずたにしてパピー化させた武蔵に勝ったよ。本部が!

武蔵が当たり前にラスボスで、主人公と反対側に立っている最終目標だとしたら、当然本格的な主人公戦がはじまるまで負けることはないだろうし、よりによって本部が、勝利どころか善戦することなんて、ふつうに考えたらありないのである。

もしこれで本当に勝利なのだとしたら、はなしの展開もいろいろ変わってくるだろう。武蔵は、いまのままでは天下無双ではなくなってしまう。次にまた本部と試合をしたら、隠し技がきかないぶん、武蔵が勝つ可能性は高くなるはずだ。そうして本部を殺せば、再び天下無双の武蔵はよみがえるかもしれない。しかし、おそらくそういう問題ではない。本部が、というか、誰に負けたのかが重要なのではない。負けたことそれじたいが、天下無双という称号に傷をつけるのである。これを覆そうとしたら、武蔵はより本質的に、新しい強さを求めなければならないのではないか? ひょっとするとここで、謎のまま放置された無刀が生きてくるのかもしれない。

バキ世界では勝敗の判定についてはいろいろな価値観があるが、さすがに気絶してしまったとなると、武蔵も反論できないだろう。まあ、ジャックみたいに、気絶しながら攻撃をするような男もいるが、あれはおそらくジャックにおいてさえも例外中の例外な出来事ではないかともおもう。背後から武蔵をつけねらっていたガイアがいくら「いつでも殺せた」とかいっても、げんに殺してはいないわけで、そうしたときに武蔵がどう反応したかはわからない。しかし気絶というのは、基本的には反応できないことを意味しているわけである。「やってみないとわからない」が通用しないのが、気絶という状態なのである。

 

 

そして今回は、本部の「守護」のほんとうの意味が明かされることとなった。何週か前本部は、葉隠れの一節を踏まえたうえで、現代の武は、そしてそこで燃焼されるところの命は、わが身の安全や善良な隣人を守るためにあるのだと語った。これは本部の主観ではある。だいぶぶんのファイターはこれに納得してくれるとはおもうけど、他人なんかどうでもいい、じぶんはじぶんのために戦っているのだ、と主張するファイターがいても、誰も責めないだろう。

つまり、「守護」とは、本部にとっての武だった。ふつう、なにかを守ろうとするとき、わたしたちは外敵というものを必要とする。ごく単純に、素体のようなものをふたつあたまに思い浮かべて、ノーマルな状態の二者がたたかいはじめたとする。いっぽうのパンチに、もういっぽうは気づかず、もろに受けてしまう。このとき、「攻撃」は自存しているといえるだろう。もし相手の攻撃に気づいてガードすることができれば、そこには「守護」も発生する。けれども、なんの関係もない、互いの存在に気づいてさえいないこの二者のいっぽうが、急になにかを思い立って顔面を守るように十字受けをしたとき、これは果たして「守護」といえるだろうか。もし彼が空手の稽古中だったら、いえるかいえないかといえば、いえるかもしれない。しかしごくふつうに考えて、これは守護ではなく、ただ両手を前方でペケ字型に交差させているだけなのである。「守護」は、外敵からの攻撃がなければ存在することのできない、相対的で受動的なありようなのである。

けれども、本部はそれをじぶんの考える武の本質として想定する。おもえば本部は、武蔵が登場する以前から、守護者としての仕事はまっとうしていたともいえるのかもしれない。なぜなら、本部が対応すべき「外敵」は、これまでのバキ史上武蔵以外には存在しなかった。それ以外の強者、たとえばピクルは、バキたちの領域であった。本部の任務が「守護」であるとしても、彼以上の適任者が大勢いるなかで、わざわざ苦手なタイプの相手を選んで進み出ることはない。彼氏の「彼女の守護者」としての価値は彼女が外敵に襲われたときに発現するのであり、彼女の友達が襲われたときには、発現させてもそれは別にかまわないけど、それは彼固有の「彼女の守護者」としての価値ではない。守護者は、「外敵」がじっさいにあらわれるまで、「守護」というふるまいをとれないばかりか、じぶんが守護者だったのだということを自覚することさえできないのではないだろうか。

本部が武蔵の登場で守護守護言い出したことには理由がある。勇次郎も指摘したとおり、本部の身につけてきた技術は、現代ではなんの役にも立たなかった。それが、その使用にあたいする相手(といってもそれはどうやら量的なものではないようである)の出現により、日の目をみたのである。それは武蔵の側についても同様であり、武蔵の本当の価値を理解するものは、原理的には誰もいない。勇次郎でさえが、想像力でそれを補っているのであって、アーティストどうしが「産みの苦しみ」について共感しあいながらも、小説家と即興音楽家ではその質が異なっているのである。武蔵もまた、本部が存在してくれたことにより、戦国の技術をフルに解放した「宮本武蔵」という価値を満たすことになるのだ。

そのようにして、武蔵と本部は互いにその存在を規定しあっていた。左右の概念がそれぞれ自立することはないように、武蔵があらわれた瞬間、本部の真の価値も漲っていったのである。そしてそこに加わるのが、守護者としての自覚である。以上の考えを踏まえると、本部はそれよりずっと以前から「守護者」であったことはまちがいない。しかしそれは、本部がたたかうべき「外敵」の存在しない世界であったために、発現することがなかった。今回はじめて、本部は、自分の役目が守護であることを悟る。と同時に、武の本質が守護であることも悟ったにちがいない。それはとっくに本部のなかに潜在していたものなのだが、それのあらわれる状況というものが、これまではなかったのである。

 

 

そうしたところに、さらに新しい発想が付け加わる。以上の議論からすると、本部は「武蔵の」登場により守護者として覚醒したことになり、「外敵」は武蔵ということになる。が、その武蔵じしんも守護るべき対象であったことに、本部は気がついたのである。ふたしかではあるが、本部の言い方からするとどうやら、「武蔵の孤独」に追いつくことができた、そのおかげで、武蔵も守護の対象なのだと気づいたと、こういうことのように読める。そうだとすると、これはどういうことになるだろう。

そもそも、武蔵の孤独とはなんだろうか。これは2種類考えられる。勇次郎も感じていたとおもわれる、天下無双、並ぶもののいないものとしての孤独、そして、光成の意志で勝手に現世に復活させられ、みんなが拳を向けてくるなか、宮本武蔵という像を保ち続けなければならないエトランジェ的孤独、このふたつである。いまのところはどちらともとれるのだが、本部の言い方には「共感」の手つきが感じられる。つまり、本部の感じ取っている武蔵の孤独は、本部にもあるものなのではないかとおもわれるのである。

ただ、このふたつの解釈は、実はそこのぶぶんで同じことを指している。それは、みんなの考える「宮本武蔵」というイメージに縛られている、ということである。並ぶ強さのものがいない勇次郎もまた、孤独を感じていた。勇次郎や武蔵の見ている景色は、ほかの誰も見たことのないものであり、理解を絶している。しかし、極論をいえば、それなら、「宮本武蔵」であることをやめてしまえばどうだろう。武を捨て、こちらから積極的に他者に働きかけることができれば、表面的にでも孤独を埋めることはできるかもしれない。しかしそんなことをまわりの強者たちが許すはずがない。武を捨てた武蔵は「ちょっと弱くなった宮本武蔵」でしかなく、それは相手からすればチャンスでしかない。弱っていようとなんだろうと、武蔵を倒すことができれば、じぶんの評価は大きくなるにちがいないからだ。「宮本武蔵」を「宮本武蔵」以外の価値でとらえることなど不可能なのである。

そしてそれは現世にきて、外形的には異邦人としての孤独を感じているとしても、同じことである。そもそもなぜ彼が復活させられたかといえば、「宮本武蔵」だからである。彼が「宮元武蔵」であったら、復活はなかった。そうして歩き出した彼を、彼個人として認識するものすべてが、“あの”「宮本武蔵」として捉え、距離をとり、場合によっては拳を握ることになる。

「宮本武蔵」に無自覚に振り回される武蔵は、結果としてつねに孤独を味わうことになる。誰も、イメージのなかの「宮本武蔵」以外とは会話をしていないのだし、それは彼自身もそうなのである。ただ、武蔵にとって孤独が苦しみであったかというと、そういうことはないんではないかとおもわれる。あんなに現金で俗っぽい人間なのである。むしろ、そうしたイメージをコントロールすることこそ、その生の目的にしていた可能性さえある。が、本部がいっているのはおそらくそういうことではない。武蔵が孤独であるというのは、先行するイメージに縛られているということである。その結果どうなるかというと、傾向としては自己破壊的になる。より強いものを求め、津々浦々渡り歩けば、危険な目にもあう。ただ武蔵が現実的に強すぎるから破壊に至らないだけなのであり、武蔵にとっての「外敵」が絶えることはないのである。

 

 

武蔵の誕生とともに守護者として覚醒した本部は、武蔵とは真逆の孤独を感じていたはずだ。要は、わたしたちがイメージする「本部以蔵」は、横綱に負ける男なのだ。以前までのバキたちが会話していたのは、本部ではなくこの「本部以蔵」だった。イメージに振り回されるという点で、本部と武蔵の孤独は、x軸を境にして対称なのである。しかし、今回武蔵に勝利するという達成を経て、この誤解は解消されたはずである。それが「追い付いた」という意味だろう。この瞬間、本部の孤独は翻り、武蔵の孤独と重なり合った。表現としてはあのようになっているが、おそらく本部が孤独についてシンパシーを感じたのは、勝利が確定した瞬間ではなかったろうか。

 

 

かくして、孤独ゆえに、イメージが先行するゆえに「外敵」の絶えない武蔵も、本部の守護の対象となる。しかし、では武蔵と勇次郎がたたかいはじめたとき、本部はどうすればいいのかということになるが、はなしはそういうことではない。じつは、武蔵にかんしても、本部が向き合う相手は変わらない。つまり、イメージとしての「宮本武蔵」である。武蔵にかんしていえば、本部は、イメージとしての「宮本武蔵」から武蔵を守護らなければならないと、こういうことをいっているのである。では、それはどのように達成されるかというと、いうまでもなく、武蔵を倒すことによってである。敗北をすれば、天下無双の宮本武蔵という像はわずかでも縮小する。みんなが抱える無敗の武士のイメージを壊すことによって、本部は武蔵を「宮本武蔵」から解放したのである。

 

 

 

 




 

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