今週の闇金ウシジマくん/第413話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第413話/逃亡者くん25

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無事マサルのもっていた「加納の金」を手に入れた丑嶋たちだが、マサルは引き続き丑嶋たちの車に乗せられ、どこかに連れられている。約束通りであれば(あれを“約束”と呼べればというはなしだが)、マサルじしんとしてはじぶんの身はもうどうなってもよく、金はわたすからのどかを支援センターに送る時間だけほしい、ということになっていたので、制限時間つきでもマサルは解放されるはずである。

ただ、金を手に入れる前みたいに、しばって袋をかぶせて後ろに放り込んでおく、という感じではなく、マサルはふつうに後部座席に座っている。前回最後のページで車がとまった拍子にとれていたので、袋もかぶっていない。

 

 

丑嶋がマサルに呼びかけ、レンタカーを返しておけと、車の鍵を投げわたす。そして、丑嶋と柄崎は車をおり、「もう行っていいよ」と、さっさとどこかに行ってしまおうとする。

なにをされるか、のどかのところにはいけるのか、そもそも生きて帰れるのか、かなり緊張していたところだったろうし、予想してない展開にマサルは呆然とする。そして車をおり、「なンなンだよ!!?」と丑嶋に食ってかかる。じぶんでもどうしてそういう行動をしているのか、わかっていないのだろう。だって、捕まっていたから、のどかのところに行けなかったわけだし、死ぬかもしれない危険からもこれで解放されたということなのだ。それなのに、すきを見て逃げるどころか、マサルは「行っていいよ」と去りかけている丑嶋をわざわざ追って、呼び止めているのである。でも、この気持ちはなにかに似ている・・・。立場とか年齢とか体格とか、相手にするには分が悪いようなものに見逃されそうになったとき、黙っていればいいのにじぶんから火に油を注いでしまうことって、ある気がする。

丑嶋はなにも気づかないかのように、「あ、ガソリン代か」と一万円をわたそうとする。

これで終わりかよと、ひとが物足りないときにいうセリフを受け、用事があるんならとっとと行けと、丑嶋はふつうに応じる。それもそうなのだが、マサルは納得がいかない。不思議なやりとりだ。マサルは、ただふつうに応対しているだけの丑嶋を深読みし、あんたにとって自分は取るに足らないということかという。

 

 

マサルは泣きながら叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

「コケにしやがって!!丑嶋ァッ!!!

 

 

 

俺と母ちゃんをコケにしやがって!!!

テメェだけは絶対に許さねェ!!

テメェの生き方だけは絶対認めねェ!!

 

 

 

でも本当は・・・

 

 

 

あんたからもっと・・・

親父や兄貴みたくいろいろ教えてほしかったンだぁ!!!」

 

 

 

 

 

 

ずっとためこんでいたマサルの感情だ。愛沢に二度目につかまったとき、マサルはほぼ同じようなことを考え、復讐を決意した。しかしそれをじっさいにくちに出したのはこれがはじめてだろう。かばんがとれたから、いえるようになったのだ。

マサルは丑嶋から多くを学んだが、それはほとんど「スキルは教わらず目で見てギる(晋平太)」というやつである。丑嶋について、丑嶋の言動を近くで見て、丑嶋の指示を受けて、マサルは一人前の闇金になった。しかしそれは、丑嶋の側から教えようとしてそうなったものではない。結果としてそうなっているという、状況の説明でしかない。少なくともマサルはそう感じていたようである。

ずっと背中を向けていた丑嶋が向き直り、真顔で、というかちょっとこわい顔で、「じゃあ教えてやるよ」という。なにをするかというと、マサルをぶっ飛ばすのである。

ぼこぼこに殴られてマサルの顔がはれ上がる。しかし、どうも右ばっかり殴られて、丑嶋は左手で殴っていたようだ。ハブを殴ったときは右手だったから、とっさに出るのはやはり右手ということだろうし、利き腕が左ということはないとおもうが・・・。それともあれかな、マサルの顔の左側は血が流れているから、それがいやだったとか、そんなことかもしれない。

続いて柄崎からもパンチを受ける。柄崎は「次は俺からだ」という。次は俺だとか、俺の番だとかではなく、「俺からだ」といっているのだ。丑嶋社長と同様に、柄崎にもわたしたいものがあり、それがパンチの形になってマサルに届けられているということである。

 

 

ぼこぼこのマサルを中央にして海辺に座る三人。どこにもっていたのか、丑嶋がマンゴーをマサルに渡す。加納の嫁・麻里に送ったものの余りだ。手に入れた加納の金はマンゴーといっしょに麻里に送られた。マンゴーの箱をつかったのか、別の箱にマンゴーといっしょに詰めたのかはわからなかったが、あまっているからには、何個セットとかのマンゴーの箱をつかったのだろう。

 

三人が黙って海のほうを見ながらムシャムシャビチャビチャ、儀式のようにマンゴーを食べている。素手で豪快に食べていたので、指先がべとついてしまったので、丑嶋は海に入って手を洗う。それになぜかマサルもついていく。

いつのまにか柄崎もやってきている。マサルに呼びかけた丑嶋は、「じゃあな」とマサルに別れを告げる。マサルは泣かないではおれないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

マサルは殺されなかった。向かう先やその後の行動について柄崎と議論している様子がないので、このことは前から話し合っていたのかもしれない。「加納の金」についても、柄崎とそれなりに相談しあっていて、それが手に入ったらとりあえずマサルは解放しようと、そんなことをいっていたのかもしれない。

ヤクザくんにおけるあの事件、そして加納の死は、マサルの裏切るが原因のひとつではある。しかし、もし、厳密に原因を掘り返し、そのものに加納の死の責任をとらせようとしたら、実はそれは加納ということになる。そんな危ない仕事をしているということじたいが、そもそも間違いなのである。しかしそんなはなしをしても意味はない。陰謀論につながる、ひとつの結果にはひとつの原因が対応しているというリニアな思考法のことをペニーガム法という。ガムの売っている自動販売機にペニーを入れたら、ガムが出てくる。だから、ペニーがガムに変化したのだと推測する、そういう思考法だ。たしかにまあ、ひどく疲れているときというのは、人間はペニーガム法に陥りやすい。事態の複雑さ、あるいは人間というものの複雑さを受け止める余裕がないときというのは、ペニーガム法で理解しておけば、とりあえずその夜は安眠できるだろう。しかし、物事はそんなにたんじゅんにはできていない。もちろん、「それがなければこれは起きなかった」という意味では、丑嶋にも大きな責任がある。丑嶋がハブを殴らなければ、ハブは出所するなり丑嶋を狙ったりしなかった。しかし、丑嶋的にあそこでハブを殴らないという選択肢はおそらくなかっただろうし、ということは、丑嶋を信頼してカウカウに集う面々も、その意味について理解しているということである。ハブに限らない。ヤクザとのトラブルがいつかは訪れるかもしれないことを、加納はもちろん、カウカウのメンバーは誰もが知っていたはずである。まあ、だからこそ加納は、子どもができてカウカウを離れたわけだが・・・。

マサルが裏切らなくても、ハブは丑嶋を狙ったろうし、最上が加納の住所を伝えている以上、いずれにしても加納の死は免れなかったかもしれない。滑皮が下手に丑嶋を足止めしなかったら、生きているうちに加納は救出されたかもしれない。「原因」をカウントしていけばキリがない。そして、その「原因」は、どれも不確定なものである。

丑嶋ははっきり、マサルからはケジメをとる、ということをいっていた。しかしおもえばこれは、加納の死というより、マサルの裏切りそれじたいについてだったのではないか。マサルが裏切ることにより、ハブはより行動しやすくなり、加納の拉致など、ことを順調にすすめる助けになってしまった。このことについて、特に柄崎などはそうとう怒りの感情があるだろう。が、それと同時に、じぶんたちはこうした事態になることをある程度覚悟したうえで、後ろ盾のない闇金をしていたということも自覚しているはずである。なにしろ「自己責任」ですから。だから、加納もまたそのことを理解しているということを、柄崎も理解しているにちがいない。ただ、どうやって知ったのか、マサルが加納の金をもっているらしいということがわかって、それだけは回収し、ある程度拷問もしたし、あとはもうどうでもいいと、そんなところなのではないだろうか。

 

 

レンタカーは、てっきり迷彩服のドライバーが運転していたものそのものかとおもっていたが、いま見返してみたら、どうも車がちがうようなので、ふつうに丑嶋が借りたものなのかもしれない。免許証とかどうしたのかな?偽のものが用意されているか、あるいは別に指名手配されているわけではないので、平気でホンモノを出したとかだろうか。なにしろ僕は免許がないのでその手のことはわからない。しかしまあ、ふつうに、ほんとうにマサルは解放されたと見ていいだろう。

しかしマサルは、まるでそれでは物足りないとでもいうかのように、丑嶋を呼び止める。この感情、マサルのふるまいを駆動するものは、一般的な意味での「なめられたくない」というものかもしれない。マサルの裏切りと加納の死をまっすぐ接続させることは、いま見たように、あまり理性的ではない。しかし、ひとの判断というものはつねに論理的に定まるわけではないのだし、この件を「すべてマサルに責任がある」と、誰かが、たとえば丑嶋が判断したとしても、それもしかたないかな、となってしまう程度には、マサルは深く事件にかかわっている。マサルのなかにもそういうおもいがある。だからこそ、じぶんはこのあとどうなるのだろうとおもってビクビクするだし、「自分はどうなってもいいからのどかだけは」というようなセリフも出てくる。

そうしたところで、金は取り返したからもういいよと、いきなり放り出されたわけである。これを、マサルは、丑嶋にとってのじぶんの価値の大きさがあらわれたものだと解釈する。報復、ケジメという観点からしても、まるでマサルにはその価値がないかのように、丑嶋はマサルを解放したのである。あれだけ、ほとんどアウトロー生命を賭けて裏切ったのに、丑嶋はそれを大したものとはとらえていないと、そのように感じられたのである。その感情は、ひとことでいえば「なめられている」ということになるが、アウトローがそれを口にするときは基本的に死活問題で、じぶんの暴力の質を低く見積もられないために、アウトローたちはなめられないよう、気をつかわなくてはいけない。しかしマサルの反応は、その「なめた」丑嶋の行動についてのものではない。ハブは丑嶋に殴られ、くわえておそらくしばらくのあいだ刑務所にいてこれを挽回できなかったために、男を落とした。ここでハブを「なめている」のは、「みんな」である。「なめられたら終わり」とアウトローがいうとき、じぶんを侮る相手との関係性だけが問題なのではない。それを見たり聞いたりして、勝手に解釈されていく、その結果が、問題なのだ。ハブにとっては、丑嶋になめられ、殴られるとともに、主語の想定できない、いってみれば「みんな」になめられることで、ヤクザとして後戻りのできない状況になってしまった。しかし、今回、マサルを侮るのは丑嶋だけで、しかもそのことがアウトロー的にどうこうという状況にはまだ到底なりそうもない。もし仮に、マサルが今後もアウトローとして生きていこうとしたとしても、ここで解放された件がそれほど深くマサルの暴力性に影響するともおもわれない。だって、つかまってたのがただ解放されただけだから。それにもかかわらずマサルが食いつくのは、むろん、「なめる」の主体が丑嶋だからである。“丑嶋に”なめられることが気に入らない。

 

 

丑嶋に相手にされない、子どもあつかいされることで、マサルはいままでの感情を吐き出す。とりあえず母親のことや、丑嶋の生き方を認めないとかそういうことをじっさいに口にしたのは、これがはじめてのことだ。しかし、丑嶋への復讐を決意した場面で、マサルはこれをすでにあたまのなかで考えている。生き方云々も、逃亡者くんに入ってからくりかえし考えていた。これをマサルがいえるようになったのは、あたまからカバンが、袋がとれたからである。マサルは、袋をかぶっているときだけ、素の表情になる。押し隠している本心があらわになるのが、袋のなかだけなのだ。丑嶋がマサルの人生を「袋かぶりっぱなし」といっていたのは、要するにそういうことである。本心を隠して、芝居をして、ずっと仮面をかぶっているのがお前の人生だと、丑嶋じしんが意識しているかどうかはわからないが、そのセリフは示していた。なぜマサルは袋をかぶっていたのか。それは、復讐の機会を待っていたからである。まず自分自身が、丑嶋から技術を盗んで成長しなければならないし、丑嶋は鉄壁のガードでヤクザもよせつけない男であるから、それまで本心を気づかれ、カウカウをやめさせられてはいけない。ヤクザくんを経て、マサルの裏切りが実現し、本心を隠す必要はなくなった。しかしだからといって、何故マサルが丑嶋をねらうのか、というところまで話す義務はない。重要なのは裏切ったという事実だけであって、動機がなんであろうと、そのことに変化はないからだ。ではなぜマサルは、本心をすべてさらけだしたか。それは、丑嶋に知ってもらいたいからである。どうしてあなたは、じぶんを子どもあつかいし、コケにして、なめくさるのか。裏切りの、復讐の動機を追及しようとしないのか。マサルはそういっているのである。

マサルがそこまで変化したのは、彼が大人になったからである。2回くらい書いたのでくわしくはくりかえさないが、ここでいう「大人」というのは、超自我として父親をとりこんだということだ。外部の、社会の末端として、第三者的に母親への愛を邪魔するものとしての父、ひとははじめこれを排除しようとする。これをエディプス・コンプレックスという。しかし父親は強大で、去勢不安から、多くのひとはこれをあきらめ、むしろその第三者的ポジションをじぶんのなかに取り込んで成長してしまおうとする。ヤクザくんのマサルは、父を排除しようとしている状態だ。しかしこれが失敗したことで、マサルが父親を受け入れる準備は完了した。そこに、丑嶋の信じる信じないの例の告白である。このことで、マサルにとって強大な父である丑嶋は内面化され、良心を司る超自我としてとりこまれた。それが示されていたのが、前回の、罠を前にしたマサルの葛藤である。マサルはいまでも丑嶋への憎しみをなくしたわけではないのだが、しかし、「それは正しいことなのか」と、じぶんではなく、外部にものさしを探すことで、これを解消する。憎しみというかわだかまりが消えていないにもかかわらずこれを我慢したことに、マサルの大人化が見て取れるのである。

そして、超自我の理論とは少し異なるだろうが、これはマサルのなかに丑嶋がいると見ても差し支えない事態だろう。丑嶋の「いままで信じてた」的発言がこれの端緒となる。子どもというのは、親の気持ちのわからないもののことをいう。親がなぜあれほどいろいろとくちうるさいのか、子どもには理解できない。親より向こうの外部を、まだよく知らないからである。大人になってから、「ああ、あれはこういうことだったのか」と理解する、というのはよくあることで、だからこそ大人は、関係のない子どもでも、「お母さんのいうことはききなさい」などというわけだが、もちろんこれも子どもには伝わらない。しかし、いい続けるほかない。そういうものなのだとおもう。

 

 

そうして、マサルは、丑嶋がなにを考えているのかを、おぼろげながら理解することができるようになった。だからこそ、マサルは本音を吐露する。いわなければ伝わらないことを、くちにする。というのは、自分自身が、丑嶋の告白を受けるまで、丑嶋がそんなふうに考えていたとは少しもおもっていなかったからなである。

マサルは内面化された丑嶋と交感し、自分自身を知ってもらいたいと強く願う。それが、いう必要のない本音をマサルにいわせたのだ。加えて、「親父や兄貴みたく」というのは、マサルの自己分析である。だって、兄に教えてもらうみたいにいろいろ教えてもらう、という状況と復讐心を隠しながら技術を盗む、という状況は共存できないから。そういう欲望があったとしても、マサルはそれをずっと、みずから抑圧してきた。これから殺そうという人間に、親や兄貴のような親しみを覚えてはならないからである。おそらく順序は逆で、最初は復讐心だけが強くあったことだろう。しかし、マサルが気づかないうちに、丑嶋の告白が示していたものは、マサルには伝わっていたのである。だからこそ、マサルは、まるで「そうしなければならない」と言い聞かせるように、丑嶋への復讐心をみずから呼び起こしていた。うっかりすると兄や親父みたいにおもえてしまうからだ。だから、盛田の件などを通じ、殺してもよいかどうかをくりかえし、じぶんのなかで確認していたのである。おもえばマサルのかぶっていた袋はひとつではなかったのである。そういう、子どもっぽい欲望を抑圧して、ふつうはわざわざ呼び起こさなくても勝手にわいてくる復讐心を鼓舞し、しかもそれを悟られないようにしていたのだから。

 

 

あきらめの感情と丑嶋の内面化で、マサルはようやく丑嶋と本心で対することができるようになった。それは、仮にネガティブなものであったとしても、じぶんを知ってもらいたいという感情であり、つまりこんなじぶんを受け止めてくれということでもある。それを受けて、丑嶋はなにをおもったのだろう。マサルは「いろいろ教えてほしかった」といい、丑嶋は「じゃあ教えてやる」と応じて殴っている。つまりこれは、丑嶋はなにを教えたのだろうということである。ひとついえることは、この行動はアウトロー的な意味での報復とか、今後の活動を考慮したうえでのかけひきとかではないということだ。本人がいっているからといってそれを錦の御旗にするのもどうかとおもうが、丑嶋はこれを一種の教育として行っているわけである。続いて柄崎もこれを行う。しかも柄崎はこれを「俺からだ」というのである。つまり、この「教育」は、「贈り物」なのである。マサルがもっていないもの、マサルに欠けているもの、これを、丑嶋と柄崎は、おそらく父と兄として、マサルに贈ったのだ。それはいったいなんだろうか。金貸しらしく、ふるまいを貨幣に換算して、行いには責任がともなうということを「おしおき」として伝えたのだろうか、それとも、マサルが知りたがっている「丑嶋の考えていること」、つまり加納の件で丑嶋が抱えているものを、拳にかためたのだろうか。紋切型の言い方になるが、丑嶋は拳を通して、社会の末端である父として社会の厳しさ、行動にともなう責任を教え、同時に加納の件についてのみずからの感情も開示することで、マサルを大人として認めたのである。ただ、現実の父と子がそうであるように、やはり両者は対等ではない。マサルは言葉でそれを伝え、丑嶋はただ拳をふるうだけである。子どもはいつも親に対して遅れている。親は、いつも子どもにとって「理解できないもの」を原理的に抱えている。だから「解釈」をするのは常に子どものほうなのだ。

 

 

いずれにせよ、この一方的な殴り合いで、裏切りの件はチャラになった。マンゴーがそれを示している。このマンゴーは、麻里のもとに加納の金を送るために箱から抜き取られたものである。だから、箱の中ではという条件つきではあるが、加納の金をもとの場所に戻すにあたって、それが変化したもの、あるいはそれが残していった足跡ともいえるわけである。丑嶋の手元にそれがあるということは、きちんと金が正しい場所に戻されたということの証明でもあるのだ。そして、重要なことは、それをみんなで食べて飲み込む(納得する)ということである。殴り合ったあと海辺で並んでマンゴーって、ちょっと定型的だけど、これは一種の儀式なので、定型的でなければならないのだ。これは、加納の金がもとの場所に戻り、三人の気持ちの整理もついたということを、その物理的結果であるマンゴーを食べて取り込むことで、互いに確認する儀式なのだ。