『コロノスのオイディプス』ソポクレス | すっぴんマスター

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■『コロノスのオイディプス』ソポクレス 高津春繁訳 岩波文庫






ソポクレス コロノスのオイディプス (岩波文庫)/岩波書店
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「『オイディプス王』で我が目をつぶしたオイディプスの、その後の放浪の旅と父子の葛藤、神との和解を描く。人知人力をもってはいかんともしがたい運命、そしてそれを知りながらも屈服せずに我が道を歩むオイディプス。この悲劇は、運命の底知れぬ恐ろしさと、それに対する人間の強さというものを考えさせずにはおかない」Amazon商品説明より








ともとフロイトから大きな影響を受けているというのに加えて、宝塚で8月に上演が予定されており、また最近NHKの人気番組・100分de名著でも取り上げられたという状況が重なり、いい機会ととらえて続けてオイディプスの続編である『コロノスのオイディプス』を読んだ。

オイディプス王じたいは非常に有名なはなしだ。書評 も書いたしその番組のテキストについての記事 もあるが、知らず父を殺し母と結婚してしまった王のおはなしである。舞台は古代のギリシアなので、まず現代と異なるところとしては「神託」というものがある。これが具体的にはどのように受け取られるものかというとよくわからないが、映画などではクスリでラリっているような処女がなにか喃語のようなものをくちにし、欲深い神官が都合よく言い換える、みたいな描写はよく見かける。医学の発達で精神の病、「狂人」というものが見出されるまでは、そうしたひとびとは神に近い存在として考えられていた、というはなしもどこかで読んだことがある。「狂っている」という状況認識も、「ことば」なのである。それまでは「あたまのおかしいひと」というのは、わたしたちの認識世界には文字通り存在しなかったのだ(「あたまのわるいひと」はいたとおもうけど)

具体的な景色はどうあれ、まず前提として神託がある。神託は人間たちの認識に先立つ指示のようなものであると同時に、たんなるガイドラインにとどまらない、現実に結びつく予言のようなものでもあった。「お前は息子に殺される」という神託があれば、それはまずまちがいなくそうなるし、彼らとしても信じない理由はなかったのである。

だから、古代ギリシアの世界においては、生きとし生ける人間たちの世界のその外側に、まるでその世界のシナリオを描いているかのような神々の世界があったのだ。彼らは、悪巧みの延長であれ、善意からであれ、それを受ければ、それが起こらないようにふるまうのが常態である。果たして予言を覆すことは可能なのか、あるいは、神託は常に選択肢を与えるような形式になっていて、努力次第ではどうにかなるものなのか、それはよくわからないのだが、ともかく彼らはそれを受け入れて、抗うなり警戒するなりする。オイディプスの父・ライオスは、じぶんが息子に殺されるという神託を受け、家来のひとりに小さなオイディプスを捨ててくるよう命じる。しかし、いろいろな善意が働き、オイディプスは死ぬことなく拾われ、やがて成長し、異国の旅行者のような気分で、知らず故郷に向かうことになる。オイディプスを育てたふたりの両親はじぶんたちが実の親ではないことを彼に伝えていなかったのだ。

そうした道で、小さな原因でオイディプスは父のライオスを知らず殺してしまう。故郷のテーバイはスフィンクスによって呪われていたが、そうしてたまたま訪れたオイディプスはなぞなぞを解いてこれを破り、じぶんが殺したせいでそうなっているとは知らず、空位となっていたテーバイの王座についたと、こういうことである。当然、その妃となるのはライオスの妻、オイディプスの実母ということになり、こうしてすべての文学においてもっとも重要な要素と考えられる「父殺し」と「近親相姦」があっさり成り立ったわけである。

『オイディプス王』でオイディプスはまた神託を受けて、ライオス殺しの犯人を捜すことになる。これが、近代ミステリばりにスリリングでとにかくおもしろいのだが、なんやかんやで、それがじぶんだということを彼は知る。オイディプスは運命の残酷さに耐え切れず、みずから両目をつぶしてテーバイを去っていく。ここまでが『オイディプス王』のおはなしで、『コロノスのオイディプス』はそのあとのおはなしだ。故郷では甥にして義弟のクレオンやふたりの息子による王座をめぐる争いが起きており、それぞれに受けた神託から、去ってしまった父を求めるようになっている。アンティゴネというよくできた娘に支えられ、アンティゴネの妹になるイスメネという娘は国と父とを往復するような役割をしており、父親のためによく尽くしているが、ふたりの息子が去っていく父を当時は止めようともしなかったことをオイディプスはひどく根に持っている。彼らはクレオン、長男のポリュネイケスの順にオイディプスのもとを訪れ、娘をさらってまでどうにか連れて行こうとするが、コロノスにたどりついて正体を打ち明け、すでに親交していたテセウスのちからを借りて、彼はこれを追い払う。そして、やがて、彼自身がどこかの段階でやはり神託として受け止めていた死に方を通し、彼はコロノスの平和を守る存在に変わったのだった。


数ヶ月前に岩波文庫で『オイディプス王』を読むまで、僕はこのはなしを読んだことはなかったのだが、その筋じたいは熟知していた。そのときの書評にも書いたが、それはじつに神話的なありかただったとおもう。とはいえ、どこでこれを最初に知ったかというと、おそらくフロイトのエディプス(オイディプス)・コンプレックスだろう。よく思い返してみてもやはりエディプス・コンプレックスそれじたいを検証した論文を読んだ記憶はないので、ふつうにその他の評論で引かれているのを見て調べたとか、光文社の新訳についてる中山元とかの長い解説で学んだとか、そういうことだとおもう。人間が幼児期に異性の親に愛情を抱き、同性の親を憎むというあの仮説である。フロイトが先にこうした症状のパターンを発見しており、そののちに神話を知ったのか、あるいは逆なのか、わからないわけだが、神話というものの定義上、後者ではないかとはおもわれる。神話的表現は、個人の創作とは異なっている。もちろん、構造主義的に厳密なことをいえば、個人の創作もまた、時代をうつす鏡でもあるかもしれない。テキストは書かれた瞬間に作者の手を離れ、誰のものでもなくなり、あらゆる意味を孕むようになる。わたしたちは、親や教師や友人や恋人や小説家や漫画家やテレビタレントやハリウッドスター(の吹き替え)からことばを学び、それを借用して言語を運用する。「わたしじしんのことば」というものは存在しないのであり、そうしたことばによって編まれるテクストというのはテクスチャー(織地)なのだ。しかし、個人の創作がさまざまな声を含む可能性があることに対して、神話的表現は、最初からさまざまな声で輪郭が形成されることで姿をあらわしていく。たとえば「桃太郎」という昔話の正典、「これが正しい物語の声音だ」といえるようなオリジナルを、わたしたちはもっていない。母親や、祖母や、うたのおねえさんや、幼稚園の先生や、永岡書店のあの正方形の本の語るさまざまな声が、それぞれに微妙にずれた「桃太郎」を語ることで、神話は立体的な神話的宇宙を完成させていく。ソポクレスの『オイディプス王』はやはりいちばん有名だろうけれど、その当時からして、いくつもの『オイディプス王』があったのである。そうしたひとつの物語についての若干異なった表現が積み重なっていくことで、つかみがたい「世界」が語られていく。おそらくこの「世界」というのは、「神々の手による」世界ということだ。神々の姿や行い、そしてもちろんそれによってつくられた世界の全貌は、定義からして語りつくすことができない。こういうものですよ、と説明することができない。だから神話なのである。これはレヴィ=ストロースとそれを援用した中沢新一の受け売りだが、なにか物語を語るときに、わたしたちは手持ちのことばで一生懸命それをかたちにしようと努める。その「ありあわせのものでどうにかする」という手つきはレヴィ=ストロースが想定した人類最古の思考法、ブリコラージュそのものである。ブリコラージュするひとのことをブリコルールというが、多くのブリコルールとしての神話の語り手が、言葉をつくして「仮の世界」を構築していくのだ。そして、神話的表現というのはそれじたいのことをいうのではなく、その現象のことをいうのだとおもう。それぞれの神話の発現が残す若干の違和感、これが重なっていくことで、なにか和音のようなものを作り出し、立体感を呼び起こし、神々の世界へと接続していくのである。こうしてみてみると、人間の普遍的な無意識について研究したフロイトが神話を参照したというのは非常に興味深いのである。「説明しつくすことのできない神々の世界」というのは、まさしく「無意識」のことだからである。


ギリシア神話そのものにそういう性格があるというはなしだが、ソポクレスはオイディプスをはじめとした登場人物を非常に人間的に描いてもいる。それであるから、以上のことから考えると、エディプス・コンプレックスとのちに形容されるようになる症状はすでに神話的思考のうちに確認されていたのであり、フロイトはその点と点を結びつけたのだ、と考えることができるわけだが、しかし読んだ感触としては、人間オイディプスが無意識に直面してしまう物語とも見れるわけである。神々の世界を無意識界だとすれば、神託やそれを授けるものは分析医ということになるだろうか。しかし無意識を正確につかみとることは誰にもできないので、やはり神託や神官のようなものとしか表現できないかもしれない。ともかく、オイディプスは、無意識に隠されていたじぶんの本性のようなものにそのとき直面したはずである。とりわけ彼は意志のひとだった。誠実と知性と勇気で、世界を、人生を切り開いていくような強者なのである。意識至上者とでもいえばいいだろうか。それが、抗えぬ残酷な運命と対峙することになる。それは、「神々の世界」が上に立ってシナリオを書くような世界の、その運命の流れの強さに直面することであると同時に、彼自身のなかにある、「意識」では書き換えることのできない本性のようなものを目の当たりにすることにほかならなかったわけである。


けっこう乱暴な仮説を重ねてきたが、さらに暴走すると、オイディプスが目をつぶしたのはロゴスの否定と見ることができる。ここでいうロゴスとは、言語と知性によって再構成された、人間の支配する論理的な世界、目に見える自明の世界のことだ。つまり、強い意識で世界を構築してきたこれまでのありかたの否定なのである。それからコロノスにたどりつくまでかなり時間がたっているようなので、それまでにどのような経験をしてきたかは不明である。人間の世界で生きるにはロゴスが不可欠だ。だから、コロノスにたどりつくまでのあいだ、娘のアンティゴネがその役割をつとめることになる。やがてオイディプスは、なにかこう、神々に赦されたかのようにして、そちらの世界の住人になる。コロノスの平和を守るというのはそういうことだろう。それはつまり、意識から離れ、フロイトが看破した無意識の世界に沈潜するということにほかならない。オイディプスが死ぬところは王のテセウス以外誰も見ていないし、その場所に向かうときにはついにアンティゴネの手を借りずにたどりつくことになるが、それもそのはずだ。アンティゴネはオイディプスを「人間の世界」につなぎとめる最後の存在だったのだ。


ただ、なぜ彼がクレオンや息子たちを退けることでそれが達成されたのかというと、よくわからない。特に息子を拒む場面は、無理もないとはいえ、いささか言いすぎというかやりすぎのような感じもないではない。そのあたりは、つづく『アンティゴネー』を読めばなにかわかるかもしれない。





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