今週の刃牙道/第68話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第68話/佐々木某






烈の強さの、その量というより質について、関ヶ原というふうに形容した宮本武蔵。

続けて光成は武蔵のライバルとして語り継がれる佐々木小次郎について訪ねる。小次郎と比べて、烈はどうだったのかと。烈は現代でもまあ10本指には入るであろう、最強者のひとりである。武蔵は小次郎とも烈ともたたかった唯一の人物だ。烈に苦戦したというなら、小次郎とくらべてはどうなのかと問うのだ。ひとつには、光成としては小次郎のことをずっと聞きたかったというのがあるだろう。伝わっているはなしで武蔵がいちばん苦労した相手といえば小次郎だろう、で、いま烈にも苦戦したわけである。小次郎の強さを確認するいい機会だと、そんなふうに考えたのかもしれない。


武蔵が考え込んでいる。悩み、迷っているようにみえる。光成はその状況に感激している。宮本武蔵が、佐々木小次郎と烈海王のどちらが強かったのか判定しているその場にいあわせているのだ。現代によみがえったプラトンにマルクスを読ませて、ソクラテスと比べてどっちがあたまいいとおもいます?と問うようなもんだろうか。そう考えると恥ずかしくなってくるな。


と、武蔵がやっとなにかに思い至ったというような表情を見せて、「船島だ」という。船島というのは巌流島の正式な名前だという。光成のいっているのは、船島でたたかった佐々木なんとかいうやつのことだろうと、こういうのである。要するに忘れていたのである。たしかに前回、光成は佐々木小次郎とはいわず、「佐々木某」というふうにいっていた(うろ覚え)。それで当然通るものと、誰のことかわかるものと考えて、もったいぶってそのようにくちにしたわけである。しかし武蔵としては小次郎の印象は薄く、佐々木・・・って誰だっけと、考え込んでしまったわけである。小次郎の流儀さえうろ覚えである。ふーん、巌流島の巌流って、小次郎の流儀のことだったのか。

光成が念のため確認する。小次郎というのは最大の宿敵ではなかったのかと。武蔵のこたえは「普通」である。別に弱くはないけど、特段いうほどでも、というぐらい。

伝わっている以上の強さを見せている武蔵である。ありえないはなしではないが、少しがっかりもする。では、翻って、烈はふつうだったのかとまた光成は問う。要するにこれまでの武蔵のたたかいの歴史において烈の位置はどうなのかということを確認したいのだ。なにか興味本位で強さ比べをしているようでもあるが、そしてかなりのぶぶんそれはあるとおもうが、やはり烈の死をきちんと価値のあるものとして認めたいというぶぶんがあるのだろう。

もちろん普通ではない。合戦そのものにたとえるほどである。そして武蔵は、これまで紹介してもらった3人はどれも決して「普通」ではなかったとも述べる。この3人には佐部は含まれていない。バキ、独歩、烈のことだ。彼らなら戦国時代でもそこそこ名をなしたであろうと。まあ勇次郎が実行してきたことを考えると、独歩のスタイルでは微妙だが、スピードを旨とするバキ、烈はかなりやりそうな気もする。特にバキは、いちどブラックペンタゴンから脱獄しようとしたときの活躍をおもえば、戦果ということであればそうとうのことをしそう。独歩も、かわいそうなくらい徹底的に武蔵にやられてしまったが、しかしそれは相手が武蔵だったからであって、相手が一般人の集合であるなら、かなりのところまではたしかにいけるだろう。

そういうわけで、ピクルが地下闘技場の意味を学習したように、相手を手配するものとしての武蔵の光成への信頼はしっかり築かれている。武蔵はもう次とたたかいたくてしかたがないのだった。


バキは本部以蔵の道場を訪れている。入門を申し出ているようだ。誰にでも開放されている道場なのだから、断る理由もないけど、なぜいまどき古流武術なんかを?と本部が訊ねる。これは微妙な問いかけである。ふつうに考えて、バキと本部では強さの差がありすぎる。烈との件があり、案外本部って強いのかも、ということがみんなに共有されたとしても、本部があっさり一回戦負けしてしまったトーナメントで優勝し、本部が何度やっても勝てない勇次郎に、不思議なかたちではあれ、最強の座を譲らせた人物である。これは、主観的な感想ではなく、客観的な事実だろう。芥川賞作家が街のおじさんがやってるような文章教室に顔を出したら、おじさんはなんと反応するだろう。「なぜあなたのような文章の達人がこんな講座を・・・?」と返すのがふつうではないだろうか。本部の返答にやや違和感が残るのは、そこにバキという個性と、それがこれまでもたらしてきた経歴が感じられないからだろう。「いまどき古流武術なんて」という感想そのものは、客観的なものではある。しかしそれは、「古流武術」に対して両者が同じ目線であるときだけなりたつ言説である。当然前提となるべき、社会的合意といってもいい客観的事実、つまりバキの「最強の少年」という経歴をすっとばして、古流武術について語るのである。ここには、古流武術に対するある種の信頼とともに、すでにバキへのとがった意識のようなものが見える。まずじぶんより強いとみてまちがいない少年に対しての敬意なり警戒なりがないのだ。となると、本部はそうはおもっていないことになる。


武蔵の件は互いに了承済みである。武蔵より強くなりたいから、ヒントになるかとおもって、バキは本部を訊ねているわけだ。それを、なにしにきた、と返しているわけである。バキは返答に窮して、適当なことをいうのだが、本部は「駄目だ」とあっさり断る。で、はなしが妙な方向にいく。銃で脅してでも烈をとめるべきだった、守護れなかったと。バキたちには無理だ、逆立ちしても勝てないとも。バキが古流武術を習いたいのは、武蔵に勝ちたいからである。しかし、あんたらでは勝てない、だから教えないといっているのである。守護れるのは俺だけだと。

本部ははっきり、じぶんが君らを守護るといっている。しかしそれは聞き捨てならない。バキは表情をかえて、「誰を?」と問い直したのである。




つづく。





また本部のしゅごるしゅごらないでもめるのか。そこでもめるのって、要するに本部の強さに信頼がないってことだよな。勇次郎がそう言い出したら、仮に気に入らないとしても誰もとめないだろう。少しくらい本部を好きに泳がせてあげてもいいんじゃ・・・。


しかしたしかに、本部の強さというのはよくわからないぶぶんがある。烈のときに少し見たけど、強さランキングをつけることのできない、流動的な最強戦線ということを象徴するような人物である。だって、彼は横綱に負ける程度であるのに、勇次郎の背中に鬼を出させたことがあるのだ。さらに、童貞を捨てる前のバキを倒した柳を、武器をつかって圧倒したこともある。「本部が強くてなにが悪い」なのである。そういう流動性を、本部じしんがいちばん理解しているのかもしれない。バキが「最強」であるというのはある意味暫定的なことで、「ある面では」という但し書きが必要な形容でもあるかもしれない。たしかに、トーナメントの結果だけ見れば、本部より強い金竜山を倒した猪狩にバキは勝っている。ふつうに考えてはなしにならない。が、闘争というのは量的には調べることができない。その意味では、ファイターというのはいつでも対等なのである。どちらが強いのかたたかってその結果を調べても、それが有効なのはその瞬間の勝負においてだけであり、翌日にはまた別の結果がやってくるのかもしれない。そういうことを体験としてよく知っている本部は、バキほどの使い手に対しても対等であり、「バキが古流武術を学ぶ」という事態についても、「なぜあなたほどのものが」という、これまでの結果を固定させて算出された経歴を経由したものではなく、対等に「なぜこんな古臭いものを」というふうに語るのだ。


気になるのは「守護る」というのが具体的になにをすることを指すのかということである。本部は稽古中の烈を訪れ、武蔵とやるなら俺を超えていけ、と立ちはだかった。武蔵からみんなを守るいちばんの方法は、武蔵じしんを倒してしまうことである。が、たぶんそれはできないという確信が本部にはある。だから、挑もうとするものを、武蔵的な方法でもって邪魔する。そういうことではないだろうか。「守護る」というのはつまり、挑もうとするものがいたらそこにいって邪魔をする、ということだったのである。そして、だとするなら、本部のバキについての守護は、実はすでにはじまっているのである。入門したいというバキを見て、本部はすぐ彼が武蔵に挑もうとしていることを悟ったはずである。だとしたら邪魔しなくてはならない。それが、この現代において武器全般に長ける唯一のものとしての使命である、という確信が本部にはある。理屈ではないし、強さ比べでもないのである。もっとも武蔵側の人間であるじぶんがしなければならない仕事だと、そのように感じているのだ。だから、バキに挑戦的な口調ではあっても、別に勝てる見込みがあると感じているとか、そういうことではないのだ。これは本部の「仕事」なのである。


いつか考えたことで、烈の敗因のひとつには、あまりにも志が立派過ぎて、死や重傷をおそれていなかった、ということがあったとおもう。拳に刀を食い込ませて捕るなんていう発想は、そうでなければできない。しかしそれは同時に、烈のなかに「致命傷を受けても反撃くらいできるはず」という仮説を育んでもしまった。そうした背景が微妙な距離感を変えてしまった可能性はある。

死や重傷を恐れ続けていては、たたかうことはできないし、当然勝つこともできない。勝負もはじまらない。そうした恐怖心を維持しつつ、そしてそれをむしろ活かしつつ、勝負に勝つ。そう考えると、まずはやはり刀に対応する防御法を体系的に研究したほうがいいかもしれない。としたら、まずは刀を振ってみることである。たぶんこうした発想でバキは本部のもとを訪れたのではないだろうか。刀それじたいに特化した道場はまだあるだろうが、それではたりない。それ以外では中国拳法にも可能性はありそうだが、その結晶ともいえる郭と烈のタッグが負けてしまったわけである。

武蔵の攻撃に対応するには「全般」に長けなくてはならない。そう考えるとじっさい本部の戦場でもいかせる柔術は有効だろうし、だとしたらたしかに、武蔵にいちばん近いのは本部かもしれないのだ。


佐々木小次郎はいわれているほど強くはなかった。武蔵の印象にもあまり残っていなかった。これはありそうなはなしである。しかしそうなるとひっかかるのは、例の「敗れたり」である。とどめをささなかった烈に、二度とないチャンスを逃したとしてそう告げたのである。これには観客もうけて、武蔵も「伝わっているのか」と戸惑っていた。僕は別に戦国にくわしいわけではないのでおとなしくググッてみるが、やはり「敗れたり」といえば佐々木小次郎戦でまちがいない。鞘を捨てた小次郎に対して、それは刀を納める気がないということだろう、小次郎敗れたりと。しかし武蔵はこのたたかいを覚えていなかった。「伝わっているのか」と戸惑うからには、じぶんが以前に少なくとも一回はこのことばをいったことは記憶している。が、小次郎戦のことは覚えていない。もちろん、小次郎のことは忘れていたけど、じぶんの鮮やかな戦略のことは覚えていたという可能性はある。例の、遅刻してじらし、いらつかせ、「敗れたり」で動揺を誘う、というやつである。しかしそうだとしても、これを「伝わっている」と解釈するためには、武蔵のなかでくりかえしこのことが検証されていなければならないような気がする。となると、武蔵はこの戦法をけっこうつかっていたのかもしれない。あれを、僕は、凡人からは全貌を見ることすらかなわない「闘争のシナリオ」が表出したものとして受け取り、じっさいそういう面はあったとおもうが、それ以上に、武蔵はこれを、あるいはこれの変形を多用していたのである。多用して有効なままでいられるのは、目撃者がいないときだけである。だから、誰も見ているものがいないタイマンのときにけっこうつかっていたのではないか。で、小次郎戦にはなぜか見ているものがいたような記憶がある。ここでうっかりつかってしまい、広まった。武蔵としては小次郎戦を覚えていないので、広がり、伝わっていることじたいが驚きであったと、そういうことかもしれない。





刃牙道(7): 少年チャンピオン・コミックス/秋田書店
¥463
Amazon.co.jp

刃牙道 6 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
¥463
Amazon.co.jp

宮本武蔵 全8冊 吉川英治歴史時代文庫/講談社
¥6,040
Amazon.co.jp