今週の刃牙道/第67話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第67話/関ヶ原






地下闘技場初、武蔵対烈の武器アリ対決は武蔵の勝利で終わった。今週のはなしを見ても、烈についての「死」とか「殺人」とかいう具体的な単語は見られないが、しかし編集が記しているとおもわれる「前号まで」のところにははっきり「烈を死に追い込んだ」と書かれている。ここは、作家と合意して書いているところではないことが多いので、これだけでは断定とまではいかないが、やはり前回の描写からしても「そう考えてほぼまちがいない」というところらしい。改めて考えるとたいへんなことで、じっさいとても悲しい。

そんな烈のたたかいぶりを、武蔵は「関ヶ原なみ」と評した。そうして、武蔵の関ヶ原体験が振り返られる。

関ヶ原の戦い当時、武蔵は17歳だった。彼が復活したとき、遺伝子の表現するままの顔貌とじっさいの顔には差があり、そこを、寒子の召還した魂が正しいものとして修正することとなった。つまり、遺伝子的には武蔵の顔はいまのようではないことになり、これは経験がつくったものだということはいえるとおもう。が、17歳時点の武蔵はすでにいまの顔である。たたかいの経験、たとえばひとを殺した回数だとか、重傷を負った回数だとか、そういうものが彼の顔を変えたのではなく、武蔵が宮本武蔵として完成するきっかけのようなものは、もっと電撃的だったのかもしれない。それか、あるいは、幼いころの環境とか、そうなる土台みたいなものが、彼を遺伝子のままの人格にはしなかったのだ。


こうしたたたかいにはくわしくないので(知識があったとしても戦国無双のものである)、そこには踏み入らないが、とにかく戦場は混沌としている。いまとちがって武蔵には若さが感じられる。挑発的であり(それはいまもか)、どこか落ち着きがなく、血に焦っている。が、それでも段違いな強さではあったようだ。4人に囲まれていた状態から、じぶんは餓鬼である、素人である、そんな俺から逃げるんじゃないと、よくわからない挑発をして相手を逃がすまいとしている。あんまりリアルに空想したことはなかったが、指輪物語の映画とかを通してみてみると、個人から見た多対多のたたかいというのはけっきょく目の前の相手とのたたかいである。だから、関ヶ原の戦いに武蔵が参加していても、なにもその場にいる全員を相手にしているわけではないのだ。だから、戦場のあちこちで同じように小さなたたかいが起こっており、とりあえずいま武蔵に注目しているのは、1コマ目で首をとばされた男含め4人ということなのだ。

たぶん技術的にはいまより未熟なんだろうけど、とにかくすさまじい膂力と胆力で、槍みたいな長い武器をもっている相手にも強く踏み込み、武器や鎧ごとぶった切ってしまう。原哲夫の前田慶次みたいな迫力である。

板垣恵介の描く武蔵らしいというところか、武蔵はこのときからふつうに素手の攻撃もしている。刀でなぎはらいつつ拳を顔面に打ち込み、倒れたところ喉を踏みつける、なんていう荒々しいが手順を踏んだ攻撃もしている。相手もみんな職業軍人だとはおもうけど、なんというか人間としてのパワーがちがう感じだ。

残ったひとりを「逃げるなよ」と、なにか楽しむような笑みを浮かべつつ追い詰める武蔵だが、どこからか矢がとんできて相手の顔にささる。武蔵も二発せなかに受けてしまうが、そんなにダメージはなさそう。ともかく、飛来する矢の雨を発見して武蔵はすばやく残った相手をひっつかんで盾にしてしまう。

戦場の局面は流動的である。そばにいたべつのものが次々と襲い掛かってくる。槍の一撃が太ももを貫通、瞬殺するも矢は次から次へと飛んでくる。もはやその矢が味方の放ったものなのか敵のものなのかさえよくわからない。それくらいごちゃごちゃとしているのだ。

ふつうに考えて重傷だが、武蔵の闘志は少しも衰えない。武蔵もどちらかの軍勢に属しているはずである。だから、たたかっているのは、属していないほうの軍隊である。が、武蔵の認識はちがう。負けてたまるか、来やがれ関ヶ原、というものなのだ。


武蔵は烈をその関ヶ原なみだとする。上下、前後、左右、少しの油断も許されない。武器だって、当時はすでに鉄砲がある。なにが飛び出すかぜんぜんわからない。いまならそれもまた楽しかったかもしれないが、当時のじぶんにはそういう戦いだったと。つまり、17歳当時の、まだまだ未熟なじぶんが体験したような戦場、これほどのものだったと、烈を評しているのである。

そればかりか、武蔵は「惚れてしまった」という。武蔵がいちばん驚愕していたのは、例の拳を犠牲にして刀を捕ったあれである。あの烈のとっさの行動にはたくさんの情報が含まれていた。刀を固定してしまう握力、それを支える肉体をつくった部位鍛錬、そしてそんなことをおもいつく発想力と豪胆さ、それらに惚れ、またおそれてしまったという。武蔵は非常に静かな目をしている。まったくの本音とみていいだろう。うそをつく理由もない。

それを聞いて光成は礼をいう。烈もじぶんも救われると。まあ厳密にいえば救われるのは光成で、烈はきちんとこれまでの鍛錬が評価されて報われるというところだろう。光成としては、武器をもった宮本武蔵に挑む、という無謀を許可したじぶんは愚か者なんじゃないか、という考えがあったから、烈が表面の現象だけでは理解できない活躍をしていたということが知れれば、救われるのである。


そこではなしは変わる。光成もずっと気になっていたことではあるのだろう。烈は、武蔵の好敵手として有名な佐々木小次郎と比べてどうだったのかと。武蔵は考え込んでしまうのだった。




つづく。




どこかで佐々木小次郎は創作だというのを読んだ気がするのだが、このはなしではいちおう存在していることになるのだろうか。しばらく悩んだ武蔵が「誰だっけそれ」とか「そんなやついたっけ」とか言い出したらどうしよう。


戦国無双における佐々木小次郎は、なにか別の世界を見ているような、無邪気な人斬りとして描かれていたが、じっさいの(という表現は意味があるのかわからないが)いわゆる佐々木小次郎というのはどういう人物なのだろう。おもえば「敗れたり」のセリフもあったのだし、あのたたかいは伝承のままじっさい行われたとみてもいいのだろう。しかし、とはいえ、なぜ光成はここでいきなり小次郎のはなしを持ち出したのだろう・・・。「会わせたいひとがおるんじゃ」とかいう展開にならないだろうな。いやべつになってもいいけど、そういうことをくりかえしていると、なにか烈の死が軽くなってしまうようで、どこかもやもやする。それで烈が説得力をもって蘇生したとしても、それもまたなんかちがう。

佐々木小次郎についてはよく知らない、というかまったくなにも知らないので、そこのところの深入りは避けるが、やはり武蔵はこうした形容、または比喩を通して強さを見ることのできる人物のようだ。前回長々とわかりにくい説明をしたけれども、これはたぶん、勇次郎の支配していた量的な戦闘力による強さ議論から脱したものである。ひとことでいえば、勇次郎が絶対者である世界では、「既知」の量が強さを決めるのである。長年にわたって分析してきたことなのでくりかえさないが、そういう描写はこれまで無数に行われてきた。ところが、親子喧嘩を終えたことで世界は変わった。勇次郎が負けを認めたことじたいが重要なのではない。極端なはなし、その後もやはり勇次郎が負けることはなかったとしても、絶対者が負けることがあるという背理がいちどでも成立したことが重要なのである。絶対性というものが、原理的なものではなく経験的なものに移り変わったのである。

そこにおいて現時点最強戦線をかきまわす存在である武蔵はどういう立場になるか。武蔵の強さは量に換算できないし、彼も相手をそうしない。武蔵がそうであるというより、世界がそのように変化したのである。

そうしたなかで、武蔵は烈の強さを「関ヶ原」と評した。それは、量的な程度の評価ではなく、今週語られたように、「比喩」であった。油断ならず予測もできないさまはまるで関ヶ原(での体験)だったと、そういっているのである。これもまた「既知」ではないのだろうかという問いは成立可能である。しかし、武蔵は勇次郎敗北の後に、物語を続けて展開させるきっかけとして登場した人物であるので、そうではないと考えたほうが自然だろう。勇次郎の敗北で、世界の強さのありかたは変わった。量的な評価が通用しなくなった。そこに、武蔵があらわれた。ファイターたちは鍛錬しつつ退屈を覚えるという経験で、そのことを伝えているとおもう。つまり、退屈の感覚は、勇次郎を失った結果、宇宙空間で定点を見失ったような状態がもたらしたものであり、じぶんの位置がわからない、どれだけその鍛錬によってじっさい鍛えられているのがはかることができない、そういう感覚によるものだとおもわれるのだが、それと同時的に、武蔵到来の予感がやってきているのである。それが鍛錬を持続させている。つまり、絶対者喪失と武蔵到来は同時に起こっているのだということを、彼らは教えてくれているのだ。

そうしたわけで、武蔵の比喩表現はたんなる「既知」の表明とはちがうのではないかと、このように推測したわけである。ではなんなのかというところの僕の仮説は、ひとまず、バキにも見られた「なんでもないところから強くなるヒントを見つけ出す能力」である。バキの場合は、全知であるところの父が見落としている知、端的にいえばゴキブリのようなものさえも師匠としてヒントを探すことで、あのように強くなっていった。この、じぶん以外は皆師匠である、というスタンスは、そもそも宮本武蔵のものなのだ。関ヶ原の戦いは出来事であり、烈海王は人物であるが、武蔵はそれを同列に語ることができる。たんに事象を量に換算するだけでは、これはできない。武蔵は、両者において似ているものをすくいだす能力があるのである。これはたぶん、戦場で臨機応変に対応しなければならないこととも無関係ではないだろう。出来事でも人物でも、表層の形状や質量のみにこだわらず、その本質を見抜くことができるちから、これが武蔵には備わっているのであり、おそらく彼の強さの不思議な質とも無関係ではないのだろう。


しかしここで佐々木小次郎を持ち出されて、武蔵はなにをおもっただろう。なんか武蔵は「やってみなければわからない」とかいいそうな気がするのだが、ふつうに考え込んで悩んでいる。そして、武蔵がどういうこたえをしても、「で、それがなに?」という感じは残ってしまうだろう。となるとやはり「実は会わせたいひとがおるんじゃ」となるのではないかとおもえてしまうのだが・・・。




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