今週の刃牙道/第61話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第61話/擬態






刀を手にし、ついに攻撃を仕掛けた武蔵だったが、刃は烈の顔面に食い込んだところで止められた。独歩のとき同様、刀を押し込んだだけで引かなかったので、切れなかったのだ。しかしそのような格下あつかいに烈が納得するわけがなく、激昂し、侮辱するのかという烈に武蔵は武士の志を感じ、刀を引くのであった。

烈は例のバキの構えをとっている。原理的なレベルでいえば、バキの構えは「なにものでもない」構えであり、なにについても特化していない柔軟な立ち方である。その状態で動き出した刀にしたがうように、烈のからだが前転する。

烈は刀が顔面に食い込んでも動かず、そこで武蔵が刀を止めたことに激怒していた。なんとなく止めそうな感じがして動かなかった、というふうには見えなかった。つまり、この動きはたしかに消力の原理で、刀に運ばれるままに行われているものなのである。この回転力は、武蔵の振りのちからなのである。

そうして、心中、烈はバキに感謝している。流れからして構えについてのものだとおもうが、構えのなにがそんなに烈を救うのかというのが前回の謎であった。

烈は回転して斬撃を無効にする。そこまではよい。そこからさらに回転を続けて、例の、バキが勇次郎とたたかった二回のどちらでも使用した胴廻し回転蹴りのような技を発生させたのである。烈のかかとが槌のようにして猛烈な勢いで武蔵の顔面に打ち込まれる。たいへんな一撃のはずだ。なぜなら、この回転力じたいは、並の刀ならばらばらになってしまう武蔵の振りが生んだものだからである。

克己、本部、郭、そしてバキそれぞれがこの技に驚愕し、讃える。本部は「羽毛が蹴った」と説明する。なるほど、そういう驚き方か。刀の振りに翻弄された羽がふわりと舞って顔面あたりにぶつかっても、痛いということはない。さて、バキがつかったときはどんな使い方をしていただろう。勇次郎のカカトに対応していたような気がするが・・・。あとで掘り返して過去の描写を見なければ。

羽に重量という矛盾、これが、バキの構えでなければ実現しなかったと、そういう感謝だったようだ。

武蔵のダメージは半端ではない。横たわり、ぴくぴくふるふるして、寝返りをうつのがやっとという感じ。こんなにダメージを受けているひとをバキ世界で久しぶりに見た。

観客はとどめをさせと烈にいう。もちろん烈もそのつもりである。傍目にはもう勝負ありなので、とどめを刺すまでもない。現代の格闘技の感覚でいえば一本とかKOに等しく、勝利を見込んで審判がそう宣言してしまうような状況である。しかし、あえて刺す。それが武蔵の武士道にも叶うはずだと、烈はそう考える。たしかに、実戦的な武士道という意味では、独歩がつねにそうであるように、勝負は最後までやってみないとわからない、したがって見込みの勝利などというものはありえない。ここで烈が帰宅してしまっても、独歩的な意味ではまだ勝負はついてないか、ついたとしてもあとでどうにでも覆すことの可能なものである。しかしどうだろう、いつか見たように、武蔵はむしろその逆をいく人間である。イメージ刀が象徴的だが、明らかにそうとわかる勝負については最後までやらないのが、どちらかといえば武蔵流である。その感覚は現代の競技的なものとは異なり、おそらく勝負をシナリオとしてみたときの見通しがわたしたちとはぜんぜんちがうのだ。つまり、武蔵が「敗れたり」とくちにしたなら、それが虚勢とかそれじたいで相手の動揺を誘うとかいった効果をねらったものでなければ、ことばのそのままの意味で、武蔵には相手の敗れる姿が見えているのである。


烈の一撃はたいしたものだった。しかしとどめをさそうとする烈を、本部は不安そうに見ている。なにかおかしいと感じ取っているのかもしれない。そしてそれは的中する。跳躍し、おそらく踏みつけでもしようとしている烈を、急に起き上がった武蔵が迎え撃ったのである。手には上体にたすきがけされていたひもが握られている。まずそれで首を絞め、一瞬のうちにてやあしまでぐるぐる巻きに縛ってしまったのだ。郭が事態を見抜く。武蔵のダメージはある程度のところまでは擬態だったのだ。




つづく。





烈が縄抜け自慢してるときのハマーみたいに小さくまとめられてしまった。たぶん最初にひっかけた首の結びも生きているので、動けないばかりかふつうに呼吸も難しい状況だろう。武蔵の逆転である。

武蔵のダメージは擬態だったようだが、とはいえ、さすがにあんな蹴りをまともに喰らってノーダメージということはないだろう。がくがくふるふるはほんものだったはずだ。が、だからといって反撃できないということはないというところだろうか。回復しつつ、そのままダメージを隠すことなくあらわし、相手を攻撃させて、カウンターで縛法と。そんな戦法については考えたこともなかったが、ふつうに向かい合っているふたりのいっぽうが紐をもって、さあ縛るぞと意気込んでも、かなり難しいかもしれない。相手が踏み込んできたところにひょいっと紐をだして膝なり首なり重要なところをひっかけてしまい、あれよあれよという間に結んでしまうというのが正しいところだろう。攻撃として縛法を用いるとしたら、カウンターがいちばんなのだ。だから武蔵は擬態、というより、ダメージを隠さなかったのだ。


ということで、今回は互いにカウンターの高等技術を見せ合う展開となった。烈は消力で武蔵の刀を無効にする。それだけならバキの構えをとることもなかった。しかし、ただ防御するだけではなく、そこから攻撃につなげようとしたとき、つまり回避の動作がそのまま攻撃になるような構えを考えた結果、バキの構えが出てきたのかもしれない。カウンターというのは、それじたい独立して、自律して機能する攻撃ではない。相手が攻撃してくるのにあわせて発動する、相対的な攻撃である。つまり、相手とともにつくりだすひとつの作品なのである。烈としては、げんにバキが同様の動きで蹴りを放っていたということが大きかったとおもうが、こう見るとたしかにバキの構えはカウンターにふさわしい。バキの構えにはさまざまな他者が宿っている。その意味では、バキじしんの核となるような技術や思想のようなものはそこにはない。勇次郎越えということを考えたとき、バキの行う闘争はどれも、勇次郎がすでに通過し、既知としてあつかうものをじぶんも知ろうとするというところに収束していったはずだ。バキにおいては、闘争というのは端的に学習だったのである。相手がどんな技をつかってこようと、ちからでねじふせる、空手で打ち倒す、というような、勇次郎を含めた他のファイターがもっている信念のようなものがバキにはなく、バキはそこから成長とじぶんにとっての未知を見つけ出すただそれだけのためにたたかってきたのである。そうしたスタイルが、構えにも宿っている。バキの構えの輪郭は、だから相手が存在してはじめて縁取りをはっきりとさせる。そのスタイルが「何でもない」ということが、その個々のたたかいにおける固有のありかたを導く基盤となっているのである。これは、たしかに相手の出方によって変化し、相手とともに創作することになるカウンターには向いている。

そして今回は武蔵もカウンターのような動きを見せることになった。あるいは紐に重しでもついていたり、そういう技術でもあるのならはなしは別だが、ごく当たり前に想像して、縛法は相手が向かってくるのを抱き込むようにしないと成立しないようにおもう。たんに捕まえたものを縛っておく技術としてならともかく、流動的なたたかいのなかで攻撃ないし防御として使おうとしたら、それしかないんじゃないか。しかしこれが烈のものと同様に相手との創作物かというと、なにかちがうような気もする。烈のカウンターは、武蔵の強烈な振りがなければ成立しない。しかし武蔵の捕縛は、烈の馬力がなくても可能だろう。このカウンターは、相手の個性を求めない、形而上学的な運動のみを取り出して制圧することの可能な、不思議な技なのである。その意味ではバキのようにたたかいを相手とともに共作していくようなものでもない。烈の回転蹴りは、武蔵の振りと同時に誕生するものだが、武蔵の縛法は烈の跳躍以前からくっきりとした技法としてすでに存在しているのである。こうした「上位者」の感覚が、あるいは武蔵のシナリオを見る眼力にもつながっていくかもしれない。経験の差か、あるいは独特の思想によるものか、わたしたちには見えにくいなんらかの武蔵独自の闘争観がそこにはあるようである。




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