今週の刃牙道/第37話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第37話/空手






武蔵の映像を見て興奮を隠し切れず、光成ならなにか知っているにちがいないと屋敷にやってきた愚地独歩。

まさにそこへ、ひと暴れして腹をすかせた武蔵が帰宅。独歩をどう思うかという光成の問いに、武蔵は飯の前でもかまわないというのだった。これは2通りの意味にとらえられた。つまり、空腹の不完全な状態でもこのひとなら弱いから相手してもいいよ、という意味と、空腹でもかまわない、いますぐこのひととたたかいたい、という意味だ。前回、身体の完全不完全という概念じたいが武蔵にはないはずという視点から後者と推測したが、光成はそれを「朝飯前」ととる。語調や表情も含めれば、たぶんじっさいに耳にしたものならそう聞こえるというところだろう。たぶん独歩もそうとらえている。しかし相手は宮本武蔵らしき人物である。モデルのひとりである大山倍達は山篭りに吉川英治の「宮本武蔵」をもっていって毎日拾い読みしていたほど武蔵を尊敬しているので、独歩もそうである可能性はある。そうでなくてもじっさいそれだけの技をもった人物なのだから、敬意をもって接したいところだろう。そういわれて、独歩は申し訳ないという。そんなふうに恋焦がれていた、ほんらい会うことすらかなわない人物がこうしてあらわれ、しかも向こうから「構わない」と、お膳立てをしてくれているのである。夢のようだと。ふたりは目を合わせずはなしをしているのでなにか探りあいのようにも見えるが、独歩の本音でもあるだろう。


ふたりは異国人どうしであるかのようになぜか直接は話さない。光成が通訳でもするみたいにことばを言い換え、相手に伝えるという方法をとっている。それについて、武蔵は「抑えられた」という。これまで佐部やバキにしてきたみたいに、三度、イメージ攻撃をすでに仕掛けていたらしい。しかしそれを初動で抑えられたと。抜きしな、といっているので、こう、腰の刀を抜こうとする手を制圧されたというようなことだろうか。これはバキでもできなかった。日常の緊張感という点では独歩はやはり武術家、バキ以上のものがあるのだろう。


武蔵が目を覚ましてからはじめてのことである、それがうれしいのか、光成は笑いながら、飯のあとがいいかというが、なぜか武蔵は朝飯前にこだわる。


そして三人は使用人たちが普段稽古につかっているという板張りの道場みたいなところに移動する。懐かしい加納の姿も見える。地下闘技場のことを知ったバキがはじめて光成邸にやってきたとき立ちふさがった、相手の構えを真似する人物である。バキは彼を倒してはじめて地下闘技場の正戦士になったのだった。

イメージ斬りのこともあって、じぶんの強い知り合いを自慢したくなったのかもしれない、光成は改めて独歩がどういう人物かを武蔵に示そうと、加納にブロックや木材、ビール瓶などを用意させる。試し割りをして技を披露せよということである。独歩には別に断る理由もない。寸剄のように3枚のコンクリブロックを破砕、並べたビール瓶の首を手刀でとばし、返す裏拳で瓶の腹をそぎ落とす。これは大山倍達もじっさいにできたことらしい。時の極真日本王者、数見肇を育てた廣重師範の証言によれば、すでに全盛を過ぎた総裁が演武で瓶切りに失敗した際、とっさにこれをやってみせたそうである。

飛んできたカラス瓶の破片をキャッチした武蔵はその材質を確認している。

そして、加納が片手でもっている木材を飛び蹴りで寸断する。

改めて紹介する、という流れからか、着地して芝居がかった動作で構えをとった独歩は、「愚地独歩です」と名乗る。

超人レベルの試し割りを見て武蔵はなんというか。




「武と云うよりは舞


舞踊だな


しかし何故石や木を・・・?」




独歩が誰かをそのように形容することはあっても、逆はなかった。本質的には喧嘩屋であるところの独歩もこれは聞き捨てならない。なんだテメエと、神心会もと館長とはおもえぬ表情でキレるのだった。




つづく。




独歩の試し割りが舞踊とな。


しかしまあ、武蔵にはそう見えてもしかたないかもしれない。というか、じっさいに演武とか試し割りというのはある意味舞踊なのだろう。パフォーマンスなのである。そうしなければならない理由というのはいくつも考えられる。神心会のモデルであるところの極真空手以前は、まず直接打撃制の空手というものがなかった。一般的な認識として、当時は空手といえばすべて寸止めであり、型が主流だった。そうしたなかで、強さを、その空手を学ぶ意味を証明するために、その破壊力を表現する必要があった、そういう可能性はある。そういう発想は武蔵はないだろう。べつに誰からも認められなくても、そんなことは武蔵の強さにはかんけいない。というか、どんな技をつかうのか相手に知られていないほうが、たたかいにおいては便利なはずだ。しかし、神心会館長であるところの独歩は、使命として、じぶんがどれだけ強いか、神心会がどれだけのものかを、見てわかるように証明しなくてはならない。もし全人生を空手に捧げるのだとしたら、必然的に空手で食えるようにならなくてはならない。そうなると、じぶんのやっていることが邪道扱いのままでは道行きは困難であるし、さらに弟子が増えていくようなことがあれば、規模を大きくしつつ、個々の実力の底上げも含めて組織を発展させなければならない。少なくとも独歩においての試し割り技術はそうした理由から伸びてきたはずである。もちろん、ほかにも理由はたくさんある。同様に範馬勇次郎からまったく反撃をしてこない木材やなんかを破壊してどんな意味があるのかと問われた劉海王は、成長の実感をそこから得ることができるというようなことをいっていた。ブロック三枚を砕く拳の破壊力が、それをできない拳より劣るということは現実的に考えてないはずだからだ。

ともかく、だから、独歩はたとえば「ブロック三枚」を割るためにブロック三枚を割っているわけではない。それは、強さや破壊力のある一面の表現なわけである。劉海王における「成長の実感」という観点からしても、これは表現である。それは、複雑に総体をなす強さのあるぶぶんを切り出し、じぶんがどの程度強くなったのかを、自分や、あるいは昇段の審査員などに向けて表現する行為にほかならないわけだ。

しかしそれが武蔵には理解できない。つまり、強さを、強さ以外のあらわれかたで「表現」するということの動機が理解不能なのである。だから武蔵がいっているのは、べつに独歩じしんが武人ではないということでは(いまのところは)ない。たんに、そういう行為はパフォーマンスにすぎないのであり、というかなんでそんなことをするのかわからないと、そういっているのである。しかし独歩がそれを聞いてじしんのありようじたいを否定されたととらえても不思議はないし、げんに独歩はそうした「表現」でもって自身の成長を実感したり、組織を大きくしてきたりしたわけである。試し割りの存在意義を理解せずにそんなことをいわれたわけで、たとえばラッパーが、ラップはうたもそれなりにできないと上手くなれないということを証明するためにちょっとうたってみたら「そんなのはヒップホップじゃないよね」みたいなことをいわれたみたいな感じだろうか。いやこれはラップのひとつの相でしかないわけだし、ていうかお前にヒップホップのなにがわかるんだよ、みたいな。


武蔵には、強さを「表現」するという概念じたいがない。戦国時代や江戸時代に試し斬りがなかったということはないとおもうが、とにかく武蔵にはない。まず、神心会館長という立場の独歩が試し割りに熟達しなければならなかった理由は、端的に強さを証明するためにひとを破壊するわけにはいかないからである。実戦を経由せず、これだけのことができるんだということを示すのに、なるべくかたそうで、こわれたときのインパクトが強いものが選ばれ、観衆の前で強さが翻訳・表現される。なぜ強さを表現しなければならないか、ひとつには食っていくためであり、あるいは承認願望みたいなものも、特に若いころは微量にかかわっていたかもしれない。いずれにしても、ひとことでいえば「他者に強いとおもわれたい」という動機があったはずである。武蔵に果たしてそれがあるのかないのか不明だが、仮にあったとして、武蔵の時代においてはそれは立ち合いに翻訳されたはずである。どちらが強いか、やってみればわかると。しかし現実には、そうした状況であっても必ず「表現」はどこかに加わっている。ひとがなぜ武蔵を強いと信じるのか。それは強いものに勝利してきたからである。有名な吉岡一門の使い手や、それの復讐戦などにおいて100人近い侍とたたかった結果があるから、彼は「強い」とおもわれてきたのである。わたしたちは、吉岡一門が強いと、100人という人数がふつうではないということを知っている。だから、それに勝利した武蔵はもっと強い。ではなぜ吉岡一門は「強い」のか。当時のことはまるで知らないのでわからないが、武蔵の「強さ」への信憑が強いものに勝ってきたことによっているのだとすれば、吉岡一門についても同様のはずである。仮にそうではないとしたら、吉岡一門がすでに現代の空手の昇段審査のような「表現」を経由しているはずである。そしてもし彼らも武蔵同様、強いものに勝ってきたから強いのだとしたら、その強かった相手も同じしかたで強さを証明したはずである。これは永遠に続く。そのどの段階をとっても、ひとは彼らを「強いといわれている誰かより強い」から強い、というふうにとらえる。その「強いといわれている」というぶぶんがすでに、段位とか、試し割りとか、試合の結果とかの「表現」がもたらした結果なわけである。ただ、しかしこの武蔵においては、「強いといわれている」というぶぶんじたいが無関係なわけである。そこには他者の目線がある。試し割りを見て歓声をあげる観衆の視線がある。「強いとおもわれたい」という願望には必ず「表現」がついてまわる。それが理解できない武蔵には、そういう願望がなかったのかもしれない。

独歩の場合は経営者的なぶぶんもあったろうから問題のレベルが異なりすぎるかもしれないが、しかし劉海王における「成長の実感」も武蔵は「表現」から得なかったのだろうか。武蔵は青竹を一振りでばらばらにできるが、それは「青竹をばらばらにするために」やったことではない。それはただの結果である。しかし、生まれたときからそれができるわけではなく、それが可能になったある瞬間というものが武蔵にもあったはずである。刀を分解するあれでもいい、素振りをしていてそれが達成されたときがあったはずだ。そのとき、彼は「成長の実感」を覚えなかったのだろうか。まあ、試し割りを理解できないわけだから、覚えなかったのだろう。なぜか。この段階ではまだ不明だが、これまでできなかったことができるようになっていながら特に「おれ強くなったなー」と感じないでいられるための心理状態として、ひとつには飢餓感のようなものが感じられる。試し割りは、いってみれば、すでに達成されたある段階に毎度もどっていくことかもしれない。いままでできなかったことに今回はじめて挑戦する、ということももちろんあるが、少なくとも今回独歩が光成に依頼されてなした試し割りはパフォーマンスであり、すでにずいぶん前になしえていたことだ。しかし武蔵においてはそういうことはない。「成長の実感」とは、一種の充足感である。そこには、これまで時間をかけて積み上げてきたものが無駄ではなくじゅうぶん有効だったということが証明され、満足するとともに、同様にこれからも積み上げていくためのモチベーションを賦活する機能があると考えられる。できることからやってまず自信を回復する、なんてことは、受験生とか就活生とかでも日常的にやっていることだろう。ところが、武蔵はそこで充足することができない。充足が即怠慢につながるわけではなく、むしろその後の成長につながっていくこともあるにもかかわらず、そうならない。というのは、おそらく、そもそも彼の鍛錬には「無駄」という概念じたいがないからかもしれない。「成長の実感」は、これまでの努力が無駄ではなかったと信じるためにむしろわたしたちは求めるのではないか。その実感とともにわたしたちが「無駄ではなかった」と感じるのであれば、それまでは「無駄かもしれない」という疑念がわずかでも潜在していたことになる。「成長の実感」が急に訪れて、事後的に「ああ、無駄ではなかったんだな」と感じるのではなく、無駄かもしれないという疑念があるから、わたしたちはある種の段階を求め、そこに到達したときにカタルシスを覚えるのである。というか、覚えたいと願っているのである。

以上のことから、鍛錬に「無駄」を感じない、効率などということを考慮しないものであれば、「成長の実感」はやってこないことになり、それがない以上、傍目にはある種の達成であっても、彼にはアナログな生のすすみの、ある瞬間を抽出したものにすぎないのである。しかしそんなことは可能なのか。「無駄かもしれない」という疑念をいっさい抱えぬまま、兵法者だからという理由で毎日何本もの竹を割り続けることなどできるのか。そこにはなにか人生と一体化したような鍛錬観が感じられる。鍛錬そのものが存在目的であり、そこに向かい続けることじたいが目的であると。鍛錬への飢餓感である。


またずいぶんへんなところに飛躍して、しかも突っ走りすぎてしまった。独歩が試し割りに優れているのには理由があり、それが舞踊だからといって彼が舞踊家ということにはならない。そのあたりが来週以降のポイントになるかもしれないが、なんかあっさり負けてしまいそうだな・・・。





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