■『岸和田のカオルちゃん』中場利一 集英社文庫
「岸和田には絶対守らなければならないルールがある。カオルちゃんが来たら道をあけろ、目を合わせるな、小声であっても悪口を言うな。でないとダイヤモンドより硬い頭や鉄球のようなゲンコツが飛んでくる。ご存じチュンバと小鉄の迷コンビもやられ放題。ひと泡吹かせてやりたいが、何せ相手はケーサツもヤクザも恐れをなす世界最強の男。果たして二人の運命や如何に!?抱腹絶倒のシリーズ第四弾」Amazon商品説明より
相方のすすめで『カオルちゃん最強伝説』のDVDを何本か見るうち、すっかりカオルちゃんのファンになってしまっていた。もともと竹内力については、深夜のWOWOWでVシネマを途中から見たことがあるというくらいで(おもえばその作品にも、イサミちゃん役の山口祥行がインテリヤクザ役で出ていた。そういう作品ははじめて見たのだが、けっこうおもしろかった記憶もある。あれ、なんの映画だったのかな)、あまり知らなかったので、このかたの普段の役柄と比較してどうこういえるものではないが、しかしそれにしても、腕っ節はともかくとして、こんな頭のわるい役ばかりということはあるまい。
このカオルちゃんの映画については、いくら竹内力がメジャーな俳優ではあるといっても、どのようにひとにすすめればよいのかわからないところがある。カオルちゃんはヤクザではなく、15歳の高校生なのだが、ひとことで、ほんとうにひとことでいってしまえば暴力映画なのだから。僕じしんからして、たまたまテレビで見てはまってしまったという相方のすすめを聞いても、「ええー・・・竹内力、か・・・。あんまり・・・興味ない、かな・・・」というリアクションだったのだ。というわけで、本作のすすめかたとしては「だまされたとおもってみてごらん」の一択である。だまされたんならもし肌に合わなくてもしかたないじゃないか。でも、ほんとにおもしろい映画なのだ。邦画、といっても後半はビデオでの販売が中心となるVシネマのようだが、日本のシリーズものの作品ではじめて好きになったものかもしれない。
原作は本書ということになるが、一作に一冊が対応するわけではなく、本書からして作者・中場利一の自伝的小説、岸和田少年愚連隊のシリーズ4冊目ということで、映画においても、まず岸和田少年愚連隊のシリーズがあり、そこにちょい役で顔を出していた程度だったカオルちゃんを主人公に展開したら見事にはまったというところのようである。本書ではフルネームは記されていなかったようだが、映画では村山カオルということになっている。超人的な強さを誇る最強の高校生村山カオルと、知性にはやや問題のあるカオルのあずかりしらぬところで自在に動き回る狡猾なイサミちゃん、カオルの親友であると吹聴してまわるハッタリくんなどといった超個性的なキャラクターを中心に、映画では本書にはないオリジナルなエピソードを展開していく。カオルちゃんはヤクザや警察もびびって道をあけるような最強の人物で、竹内力というリアルな俳優をつかいつつなかばアメコミのスーパーヒーローレベルの強さを見せるのである。
で、調べてみるとこのカオルちゃんというのは実在の人物、あるいはそれをモデルにしたキャラクターということのようなのである。そうして本書を手に入れたしだいだ。果たしてほんもののカオルちゃんも、こんな、バキ世界でもやっていけそうな強さだったのかというと、なんともいいがたいが、もちろん本書はノンフィクション小説ではないので、そんなことを問うのはほんとうは野暮かもしれない。けれども、映画を通してよりリアルにカオルちゃんを体験してしまったものとしては、どうしてもそこから離れることができない。個人的には、同時進行で、映画『バロン』にもなった、ミュンヒハウゼン男爵のホラ話『ほらふき男爵の冒険』を読んでいたところで、文体というか、文調の温度にどこか共通するものも見られ、まあ、ほとんどはホラ話なんだろうなとは感じた。けれどもそれは、ここからここまでが本当で、ここからはウソ、というようなものではないのである。僕の直観としてはたぶん、じっさいにカオルちゃんのような超人は存在したのである。顔を見るとヤクザも警察もびびってきびすを返し、商店街には「カオルライン」が弾かれて何人も彼の進行を妨げることは許されず、邪魔をするものは老人だってぶっ飛ばすようなむちゃくちゃな男だったはずである。それを、作者が小説家としてのセンスで小説に翻訳したのだと、そういうところなのではないだろうか。げんにカオルちゃんに拳骨でたんこぶをつくられ、場合によっては再起不能にされたかもしれない不良たちは、本書を読んで、じっさいにはそんな場面を知らなくても、「カオルならありえるはなしや」と必ず頷くにちがいないのである。ただ、高校生というのは映画の創作だけど。
映画と原作のちがいとしてはもっとも大きいのは、やはりカオルじしんのキャラクターである。しかしこれは創作上の変更というより、竹内力の個性が大きいかもしれない。映画のカオルちゃんは、もちろん好んでかかわりあいにはなりたくないが、それでもなにか愛嬌がある。竹内力ってあんな見た目だけど、瞳はきれいなのね。だから、なるべくなら別の世界で生きたいけど、もし地元のヤクザにたかられて困っていたりして、しかもじぶんがカオルちゃんの学校のもので、加えてイサミちゃんやらなんやらあたまの働くものがうまく動いてくれたら、カオルちゃんはすっかりのせられて、番長なんだから子分は守らなきゃならないとなぜか思い込んで、たぶん事務所に乗り込んでくれるとおもうのね。で、たぶん、すべてが終わったあと、こっちを向いて、「誰やワレ」っていうとおもうのね。竹内力のカオルちゃんにはそういうところがある。すごいバカで、すぐ利用されるけど、貸し借りみたいな概念は弱く、それでなにかを要求してくることがなくて、とにかくめちゃくちゃに強い。もちろんときにはカタギや女を殴ることもあるけど、それが「バカゆえ」という感じなのだ。しかし原作のカオルちゃんはそうではない。もう、最低最悪の男である。喧嘩においては映画のように一発殴って5メートルくらいとばして終わりではなく、耳をちぎったり目玉をつぶしたり指の骨を全部折ったりしてもう徹底的にやるのだ。そして、意外にも金についてうるさい。作中ではハッタリくんなんかと比較して、第一に金というわけではないというふうに記されているが、それでも、恐喝まがいのことをして日々生きていることはまちがいない。それで金を手に入れてはいるが、それが目的ではなく、そうやって強さを誇示することが楽しい、というところだろうか。
そういうわけで当初は、ほんとにこれは最悪の男じゃないか、これなら竹内力のカオルちゃんのほうが巨大な犬みたいでぜんぜんいい・・・とおもったのである。しかし終わりが近づくにつれて、その感覚も徐々に変化していった。そんな生活をしているので、カオルちゃんは年中服役をしている。20人の機動隊を倒してしまうほどだから逮捕といっても簡単ではないし、そうなってもまあいろいろあってすぐ出てくるんだけど、とにかく捕まることもある。そうした場面で、どことなく「さびしい」のである。それは作中の(ハッタリくん以外の)人物についても同様である。みんなそれぞれ悪いことして金を稼いでいるので、カオルちゃんははっきりいって邪魔なはずである。殴られるとものすごい痛いし、主人公と小鉄のコンビなんかはおもしろ半分のゲームで生死の境をさまよったりしているのだ。けど、いないとさびしい。とりわけ祭りのときはカオルがいないとはじまらないみたいなところがあるみたい。それというのも、カオルちゃんの強さゆえである。さらさらっと、なんでもないかのようにひとびとは大怪我をし、盗みをしているが、冷静にふりかえるとこの街はおそろしい街である。作者によってこんなにちがうものかと驚くが、起きている現象は闇金ウシジマくんも顔負けの無法地帯である。その原因のひとつにカオルがあるかもしれないことは否定できない。おかげで警察も、そうした悪事を一手に管理するヤクザも機能していないわけだから。と同時に、さらさらっとした筆致で書かせる程度に無法地帯がぎりぎりのところにとどまっているのは、カオルがいるからともおもえる。フロイトでいうと父性の発展した超自我というところになるとおもうが、わたしたちはいつでもおもうままに行動しているわけではない。気づかないうちに、人間集団としての社会に与する一員として、それをして大丈夫かどうかを検査している。そういう審級のことを超自我という。そこにはまず父親の表情があり、もっと大人にあれば、教師や知り合いのおじさんや警察、さらにはヤクザの顔なども混じってくることだろう。わたしたちの行動に外部から一種の秩序をほどこすもの、たぶん岸和田ではそれがカオルちゃんだったのである。すべての街の人間がたったひとりの人間の顔を浮かべるというのは、カオルちゃんの超暴力なしではなしえないことである。わたしたちはふつうに生きていて、つまり警察や教師に邪魔されないレベルに常識的に生きていて、仮に生きにくさを感じたとしても、その行動を外部から調整する「父」や「教師」や「警察」を「あんなものなくなればいいのにな」とはおもわない。超自我なしの奔放不羈な生きかたなどもはや思い描くこともできないからである。岸和田の住人にとってカオルはそういう次元の存在であり、いなくなったら、いったいどうやって生きたらいいか、どうやって悪いことをすればいいか、よくわからなくなってしまうのである。
カオルの強さは抵抗するのもばかばかしくなるほどのもので、それによってふつう喧嘩に負けたときのようにプライドが傷つけられたりということはほとんどない。災厄のようなものなのである。誰もが、それこそ「法」であるべきところの警察やヤクザでさえもが「カオルが相手ならしかたない」とあきらめてしまうような存在なのだ。そうして、たぶんひとは「カオルありきの」生活を編みなおすようになったのである。だから、カオルが「カオルライン」を歩いて商店街を独り占めしても、「ひとりの人間にあんな勝手は許されない」とひとびとは感じないのである。超自我形成期の赤ん坊が父親について「こんなわけのわからない男にわたしの人生を左右されるのは我慢ならない」と感じることがないように。
そういう神話的な強さをくりかえし見るうち、僕のうちにもおそらくそういうものが育まれていったのだろう。カオルのいない街や、カオルのモデルとなったひとの死について書かれたあとがきを読んだときの納得のいかないさびしさはきっとそれなのである。最終的にくだす決断を左右するもっとも上部にある審級、それがカオルなのだから、ひとことでいえば、なにか人生に張りがなくなってしまうのである。祭りには欠かせないというのも示唆的だ。少なくともフィクションとして描き出されるレベルでは、カオルは神仏のたぐいに近いのである。
さて映画だが、最初から順番に見てもおもしろいが、僕が最初に見たのは「番長足球」というサッカーのはなしだった。全国総番になったはずが定時制は治めていなかったと気づいたカオルがとりあえず手近の学校に乗り込んで番長をはたきおとすが、彼がサッカー部の部長かなんかで、これではサッカーの試合ができないとなり、しかもそれがサッカー部存続にかかわる大事な試合で、番長なら舎弟を救うべきだ、みたいないつもの感じで祭り上げられてカオルちゃんがサッカーに挑戦するというはなしである。カオルちゃんの次に恐れられていたというイサミちゃんも大活躍である。カオルちゃんに惚れてしまうスケ番役の中村愛美もすごくかわいい。あんまりおもしろくてDVDを買ってしまったほどである。まだすべてみたわけではないので(なにかもったいない感じがしてしまう)、残り数作も楽しみにしている。
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