第35話/集結
バキが「型」に返ることを決めたころ、武蔵や新宿・渋谷あたりでおおいにやらかしていた。防犯カメラの映像でその様子がとらえられ、テレビで報道されてしまったのである。武蔵降臨を各自予感しながらもことばにはできない現状、ひとりひとりと武蔵が遭遇していくのも時間がかかるし、こういうときはやはりテレビに限る。そのときに本人が見ていなくても、知り合いがひとりでも見ていれば、教えてくれる可能性は高いし、こんな印象的な映像ならすぐYOUTUBEとかでも出回るだろう。
5人の屈強な警官が武蔵を囲んでいるところから映像ははじまっている。武術的な観点からすればそもそも囲まれないことが重要であるとおもわれるので、武蔵としても警官たちの実力をぜんぜん評価していないということだろう。囲まれたところでものの数ではないのである。
武蔵はイメージ攻撃とおもわれる動きと実際の打撃を混ぜて使用する。やはり、武蔵のイメージ攻撃は実際の攻撃の「かわり」ではなく、攻撃方法のひとつなのだ。両手を広げて刀をふたつ構えているような状態になり、そこへうしろから組み付いてきた警官をかわす。このときにたぶんイメージで腹を切っている。身体的にダメージが表現されなくても、脳がそのように処理してしまったとしたら同じことである。ただ、刀で胴体を斬ったらもうそのものは立ち上がってはこないが、この警官は2,3日もしたらふつうの生活に戻っているはずで、そのあたりがこの方法の問題点でもあり、またふつうに社会生活を営もうとしたら長所でもあるかもしれない。
二人目は組み付くことに成功、背後から首を捕るが、金的を握られてあっさりダウン。3人目は警棒を出して振り切るところまでいった。しかしいつのまにか警棒は武蔵の手に移っており、続けて、実際に打ったのか、それともそれを刀のようにイメージして斬ったのか不明だが、これも痙攣して倒れてしまう。警棒を捨てた武蔵は、残る二名も、なにをしたのか、打撃とイメージ斬りの中間的な攻撃であっさり片付けて去っていく。
男が宮本武蔵と名乗っていることも含めてか、報道している女性は一連の出来事を「時代劇の殺陣」のようだと表現する。これはたぶんけっこう本質を見抜いた表現で、時代劇で主人公に斬られにいくひとたちというのはみんな斬られ上手で、盛大に斬られにつっこんでいってそれでいてそのように見せないところに技術があるだろう。合気道の演武とか約束組手みたいなものである。「時代劇の殺陣のよう」と感じるとき、たぶんわたしたちは斬る側と斬られる側に通して流れている約束のようなものを感じ取っているはずである。なにか大きなもの(時代劇では脚本)に制御されているかのように、滑らかに滞りなくアクションが進む、そういう状況をして、たぶん女性キャスターはそのように表現したとおもうのである。もちろんそれは、じしんの身体をも他者のものとしてあつかうことで、相手の脳のシグナルさえ感知してしまうほどに世界と合一する武蔵がもたらしているものである。
この番組を、みんな見てる。愚地親子は本部の来賓室みたいなところででっかいテレビでそれを見ている。身を乗り出して、そのときの姿勢のまま硬直してかたまっている感じなので、ほんと偶然みたんだろう。ジャックはいま住んでるところなのか、パイプとかコンクリの壁が露出したひどい場所で注射をうちながらこれを目撃。みっちりと薬剤がおかれた台に不自然にテレビが置いてある。ジャックはいかにもテレビを見なさそうな男だが、バキと勇次郎の親子喧嘩みたいなこともあるし、ピクルもそうだ、じぶんがかかわるような大きな事件というのはたいていテレビで報道されるわけだから、必要なものなのかもしれない。ネットとかはできなそうだし。
二度目の骨延長手術をしてさらにでかくなったジャックは、立ち上がると同時に天井にあたまをぶつけているが、それに気づかないほどに、テレビにうつる男の強さに驚愕している。そしてどこの誰だと。愚地親子は30分沈黙したあと、ふたりして直観をわかちあっていた。ホンモノの宮本武蔵だと。格闘技者としては彼らと同格以上とおもわれるジャックがそうならないということは、ふつうに「宮本武蔵」を知らないのかもしれない。彼の場合はこれまでの人生ずっと「範馬勇次郎」がいたから、それ以外の古の強者を知る必要などなかったのかも。
渋川先生は真剣な面持ちで稽古している。果たして達人も、あれが「ホンモノ」だと理解したのかどうかは不明だが、少なくともその強さや技量はしっかり見抜いている。というか、なにか強烈に思い知らされているようである。じぶんが偽者だといわれたも同然だと。感覚としてはカルチャーショックが近いかもしれない。東洋医学の第一人者のもとに西洋の黒船医学がやってきて、目の前で患者をちょちょいと治して見せたみたいな。
そしてもうひとり・・・。長髪だが、勇次郎でも鎬紅葉でもなく、本部以蔵である。山篭りしていたはずだが、弟子が武蔵の情報をもっていって戻ってきたか、それともたまたまもどっていたときに知ったか、どちらかだとおもわれるが(なにしろいつでも山篭りしてそうな面貌なので)、その稽古への衝動の原因がはっきりしたと、いままでのものにはなかった考え方をしている。少なくとも独歩とジャックは欠伸に悩まされていたのだが、いまのところそこへはつなげていない。その意味では、本部にはかなり広く状況が見渡せている。稽古への衝動は、身体が「備えておけ」と命じた結果だったわけである。しかし「なにに」かははっきりとはわからず、親子喧嘩が終わって絶対が消失したことで、じぶんの強さの位置を把握することが困難になり、いっそう稽古の方向性がぼやけて欠伸が出ていたと、そういうふうに当ブログでは推測したが、いまこうしてテレビのなかに目的物がはっきり像を結んだわけである。本部の結論としては、強い、まさかあれ程とはおもわなかった、バキも独歩も、渋川先生も勇次郎でさえも、「俺が守護(まも)らねばならぬ」というものなのであった。
つづく。
本部がなにをいっているのか、ミステリーではあるが、じっさいのところ本部というのは花山ばりに強さの位置がよくわからない人物である。というのは、強さを不等号で位置づけることの難しい作品でありつつも、最大トーナメントの勝ち負けについては多くのひとがかなりの敬意を払って価値を見出してしまうからだ。花山はともかく、本部は結果を出せなかった。しかも「解説役」として名高い、つまり知識が大きな特徴であるところの彼が、横綱の小指の強さを知らず、あるいは見誤って指捕りをしてしまい、それで負けているのである。ふつうに力負けしたんならここまで本部の評価が落ちることもなかっただろう。だってもう現役というには年がいきすぎているわけだし。
けれども、当初の本部はなんというか「勇次郎を超えるとなったとき最後に超えなきゃならないひと」みたいな感じがけっこうあった。その位置も、独歩や斗場、鎬兄弟なんかが出てきて微妙になってしまったが、それでも、勇次郎との決闘では彼に鬼の背中を出させているのである。これはたいへんなことである。
そこからしばらく描写がなく、もう引退したんじゃないかとすらおもわれたとき、あの柳戦である。柳もまた強さのようわからんキャラだったが、決して弱くはない、若いころの渋川の目を奪ったような相当な強者である。これを、武器をつかって圧倒した。本部の柔術は戦場格闘技だから武具全般のあつかいに長けている、対して柳は、ふつうに素手でやったらぜんぜん強いのに、毒手とか武器とか卑劣な手にたよるから技がにごる、というようなはなしであった。しかしそれはどうも奇妙である。柳だってべつに素手の格闘技に全人生をささげた独歩のようなタイプではないわけで、それどころか卑劣さが戦略の基本事項みたいな男なわけである。つまり、ひとことでいって、柳だって武具全般に長けているはずなのだし、しかもおそらく本部以上にそれを実戦でつかってきたにちがいないのである。だから、あれはもしかするとたんに本部が柳の強さに敬意を表していただけなのかもしれない。じっさい、技量で本部が柳を上回っていたのである。素手だけでやったらそりゃ勝てないけど、武器をつかっていいなら本部のほうが強かったのである。それだけなのではないだろうか。
そう考えると、本部が強くてなにが悪いというはなしになるわけである。しかしそれとこれとは別だろう。「守護(まも)る」とはいったいどういうことなのか。このことばからは、一種の責任感のようなものが感じられる。俺がやらなくては、俺以外の誰がやるのか、そんなふうに感じているようなのである。その責任感じたいは、べつに本部であっても不思議はない。子供が、父親の出張中にお母さんを守護(まも)るのは僕の仕事だと決意するのはよくあることである。ただよくわからないのはなぜ本部がそれを「自分の仕事だ」と感じたのかということである。ひとがある事案を「自分の仕事だ」と感じるとき、彼は「他にやるひとがいないから」とか「それをできそうなのがいまのところ自分だけだから」とか、そんなふうなことを感じているだろう。つまり本部は、ほかならぬじぶんが「守護(まも)らねば」、それをできるものはほかに誰もいないと、そう考えていることになる。もちろん、本部だって自分の立ち位置は理解しているはずである。独歩あたりにはまだライバル心はあるとおもうが、少なくともここにあがったバキや勇次郎より「もしかするとじぶんのほうが強いかも」とはさすがに考えていないだろう。つまり、そういう次元のことを彼はいっているのではない。本部の前には日本刀がおかれていることであるし、単純に刀に精通しているものがじぶんしかいないと、そういうことかもしれない。彼もまた、あれが宮本武蔵であるということを感じ取っている。とするなら、刀をつねにそばにおいて、手や足のように使用して戦場を渡り歩いてきた人物なわけで、それは現世には存在しない。だから、じぶんの仕事だと。現実には、もしほんとうにあの武蔵が本部の予想通りバキや勇次郎でも危ういとしたら、武器をもったところで本部にはどうしようもない。しかしたぶん、そういうことではないのである。
渋川先生は、武蔵のふるまいを通して、まるでじぶんが偽者であると告げられたような気分になっている。長い人生をかけて、信じ、きわめてきた道、それを否定するかのようなものを武蔵の動きから感じ取ったのである。たんに強いだけではこうはならない。勇次郎やバキを見て達人がそのように感じているのを見たことはない。僕としてもこれはちょっと意外というか、相手と合一する武蔵のたたかいかたというのは合気道っぽいかもしれない、などと考えていたので、不思議な感じがする。
本部も渋川も、これだけではその真意を汲み取ることは難しいのだが、渋川先生にかんしては、相手と合気道的に合一することはあっても、それを取り込むことはない、ということがあるかもしれない。渋川流ではおそらく、他者的な成分をいちど身の内に含みつつも、それを外に弾き出すことで攻撃に転じる。護身を極めた達人の到達したところは、危険なもの、危険な場所には、行こうとしてもたどりつけない、というものであった。危険を、不快を、つまり他者を拒み、はじき出し、自己のもとあった状態を保持しようとする。たぶんそういう思想が根底にある。護身術とは一般的にそういうものだからだ。しかし武蔵は、相手と合一し、身の内に他者を含みながら、それを弾き出さない。というか、弾き出す外部がない。時代劇の殺陣の比喩を借りれば、武蔵の武とはその殺陣の脚本であり、武蔵という保持すべき自己もそこにはない。そうでなければ、バキの脳のシグナルをバキじしんより先につかみとるなんてことはできない。「わたし」と「他人」に二項対立で闘争をとらえている以上、それはなせない。「わたし」から「他人」を排除し、遠ざける、それを護身であるとするなら、達人はそれを極めている。けれども武蔵では「わたし」と「他人」という区分がない。「わたし」を主語にして出発する以上、「他人」にかんして「わたし」は必ず一歩出遅れる。「他人」の脳までじぶんのもののように感じ取るためには、これが一体とならなければならない。しかし「わたし」の内に「他人」をとりこむことはできない。「わたし」の神経作用で「他人」の痛みや決意を知ることはできない。だから武蔵は、そもそも前提がちがう。全身を覆うこの皮膚の向こう側が「他人」で内側が「わたし」、なのではなく、くりかえしの稽古で練磨するこの肉体もまた「他人」であり、相手との「殺陣」を成り立たせるひとつの要素であると。そしてその先、相手との合一が果たされたとき、彼は相手の脳さえもまるでじぶんのもののようにつかみとってしまう。おもえば特に心得のないとおもわれるふつうの警官までイメージ攻撃でダメージを受けているのもそういうことだろう。「わたし」と「他人」が厳然と分かたれていて、その「わたし」がイメージを発信したのであれば、その相手となる「他人」のほうに準備がなければそれを受け取ることはできない。そうではなく、相手との合一を果たし、わたしもあなたもみんなひとつの「殺陣」の登場人物であるかのような筋書きをたてることで、好むと好まざるとにかかわらず、警官たちもバキが脳を捕捉されたように、つかみとられてしまうのである。
本部にかんしては、たんにじぶんが武具のあつかいに長けているからという理由で調子にのっているだけという可能性もある。しかしあるいは、本部もこうした、渋川先生が感じたような、これまでの登場人物にはなかったたたかいかたを感じ取っている可能性もまたある。勇次郎であっても「わたし」と「相手」の二項対立は揺るがなかった。ただ、強大な「わたし」で「相手」をおしつぶすだけである。本部だけがその二項対立から自由である、はずはないとおもうが、どうもそういう確信が彼にはあるんではないかという気がする。戦場格闘技という流儀がそもそもそういうことを孕んでいる、というようなこともあるかもしれない。本部が真剣を持ち出して武蔵の前に立ったらどうなるか・・・。いままでの本部だったら相手にもされない可能性もあるが、この流れだとそうでもなさそう。そうしたら武蔵も本気を出すだろうなあ・・・。
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