『ニコニコ時給800円』海猫沢めろん | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ニコニコ時給800円』海猫沢めろん 集英社文庫






ニコニコ時給800円 (集英社文庫)/集英社
¥562
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「仕事を失い、酒に酔った夜。20歳のリンコは河原で野宿する謎の美青年リュウセイに出会う。楽してお金が欲しいというリンコに、彼が紹介した奇妙な仕事、それはこれまでの労働の概念を変えるものだった。自称ヒキオタニートのリュウセイに振り回されっぱなしのリンコだったが、彼には驚くべき秘密が―。漫画喫茶、アパレルショップ、IT業界など、時給800円で頑張る人々を描く連作短編集」Amazon商品説明より







なんか最近小説を読んでいなかったし、積んである本を見る限り今後もしばらくなさそうなので、なにか適当なものをと衝動買いしてみたものだが、想像以上におもしろくて、じぶんの選書眼もなかなかのものだとひとり満足してしまった。

作者の海猫沢めろんというひとは知らなかったのだが、解説を読むと東浩紀が解説を書いた本もあるようで、ゼロ年代からやや遅れてきた作家としてはそれなりに知られているようである。「海猫沢めろん」という、ラノベ作家とも、純文学作家ともつかない名前の感じもかなり異様で、小説そのものの外形的な肌触りも、既存の区分けのどこに投げ込めばよいのかよくわからない感じが強烈である。純文学作家のペンネームというのは、最近ではふつうに存在している名前であることが大半だ。以前には、有名なところでは二葉亭四迷みたいな作家もいたわけで(落語家的な感じからしてたぶんそういう流儀は物書き以外のところからきているものとおもうが)、あまりそういうことをいっても意味はないかもしれないが、現状、いわゆる純文学作家、つまり芥川賞の候補になりうる作家というのは、たいてい、ふつうに通用する名前と大差ないペンネームをつかっている。それにたいしてラノベ作家というのは、まずだいたい読めない。姓と名がわかれていないような名前もあるし、要するに、逸脱することが志向されている。そこに、現状の純文学作家の名前の普通っぽさと、それがもたらすなにか権威っぽさ、リアリズムっぽさへの批判を読み取ることは、まあつまらない読みではあるけど、できなくはないだろう。そういうことを踏まえてみると、海猫沢めろんという名前の微妙さは言い知れぬものがある。このペンネームそのものは、2004年のデビュー作からとったものらしいが、たとえば谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズの刊行開始が2003年である。ラノベを読んだことのない人間がこれ以上踏み込んでもアレなのでここまでとするが、ひょっとするとこの種類のペンネームのセンスはこの時代のライトノベル作家に普遍的なものであり、現状のラノベ作家の逸脱がそこからさらに深まっているというだけのことかもしれない。しかしそうなると、いわゆる純文学とライトノベルは、距離を縮めずに、溝はいっそう深まっていると見ることもできるかも。最近では新潮文庫がライトノベルのさらに先を行くものを作り出そうと新しいプロジェクトに乗り出しているが、理想としてはすばらしくても、マーケティング的な展望としてはちょっと厳しいものがあるかもしれない。もしかすると、要するに、「純文学作家はライトノベルなんて読まない」「ラノベ作家は純文学なんて読まない」という状況は、むしろ進行しているのかもしれないのだから。まあ、それはそれで、ラノベが様式としてはすっかり確立し、それがなかった時代のオリジネイターたちがゼロから作り出したように苦心せずとも、お手本となるいい作品が山ほどあるという時代がきたということかもしれず、もし純文学がいわれるほど普遍的で人類にとって価値あるものだとすれば、時間がたつにつれ隙間は勝手にうまっていくのかもしれない。




というへんな前振りになったが、海猫沢めろんはべつにライトノベル作家ではない。とおもう。なにしろ初めて読んだ作家なので解説だけでは心もとないのだが、とにかく、既存のジャンルにあてはめることの難しい人物であり、作品であるらしい。オタク文化から出てきた作品ならラノベだろう、というのはいかにも権威的な発想で、思想的に卓越したものがあるから純文学だ、というような考え方もなにか似合わない。そんなことどうでもいいんじゃないかな・・・と、作者も作品もいっている、そんな気がする。だから、遠回りになったが、初めて目にした「海猫沢めろん」という名前から受けたなにか微妙な印象は、正しかったのだ。才能のあるひとでも、なんの権威や制度にもとらわれず、クリアな観点で、じぶんの価値観のみをたよりに物事を見抜いていくというのは難しい。たとえば、優れた哲学、美しい文章を備えて電撃文庫から出版されたライトノベルを、「文学的に優れている」と、わたしたちは評価しないだろうか。





本作はお仕事小説である。全部で5つの短編小説が収録されており、それぞれ主人公も業界も異なるが、微妙に、以前のはなしの人物が展開にかかわってきたりする。そして、登場人物の名前はすべてカタカナだ。このふたつのこと、他業種が人を介して淡くつながっていることと、人物名がやや漂白された印象のカタカナになっていることは、わたしたち読者に「これはあなたの物語ですよ」ということを知らせてくる。ちょうど、闇金ウシジマくんのエピソードごとの副題が「ヤンキーくん」とか「ホストくん」とかになっているのと同じ方法だ。もちろん、僕はホストではないので、「ホストくん」は「わたし」ではないわけだが、そういう現実的な職業の分類のおはなしではなく、そこにいたのはわたしかもしれないという小説的仮説がもたらされているわけである。スターシステム的なものもそう見ると似ている。こうして、前話の人物がわずかに顔を見せるということが続くのであれば、読者の生活に彼らが登場する可能性もあるのである。



そして、タイトルにもあるように、「時給800円」というのが一冊を通したキーワードになっている。これはべつに810円でも790円でもいいんだけど、要するに低賃金ということだ。そしてまた「時給」ということもけっこう重要だろう。不安で貧乏で先が見えない世の中、生きにくいからといって死ぬわけにもいかず、どう納得して、どういう理論づけをして生きていけばいいか・・・?解説の山内マリコさんは「折り合い」という言葉をつかっているが、つまり、生きること、働くということとどうやって折り合いをつけていけばよいのか。「よいのか」って、別にそういう問いがまずたてられて、各自こたえを探す、みたいな重いおはなしではなく、それぞれの折り合いのつけかたが業種ごとの特殊なかたちをとりつつ描かれているわけです。

そもそも、低賃金労働に対する不満とか不安とひとことでいっても、その表出のしかたは様々だ。こんなに一生懸命働いているのにこれしかもらえないとか、べつに働きたくないけどもっと金はほしいなとか、あいつはあんなにさぼってるのに同じ給料かよとか、いろんなかたちをとって個人的に不満が出てくる。だから、それについての折り合いもどうしても個人的なものになる。「こう考えればお金や生活や将来の不安・不満はいっさい消えてなくなる」という一般的な解はない。たとえば、ぜんぜん稼ぎはなくて重労働でも、まあこんなもんだろうと気楽に考えてすでに幸福のなかにいるひともいれば、同じ条件でも毎日眠れない夜をすごしているひともいるわけである。そんなひとに「べつに大丈夫でしょー」などといっても無意味なわけである。解決策は、「折り合い」は、じぶんで見つけなくてはならない。そこから、そもそもそういった状況を引き起こす社会が悪いのだ、という方向に転じてもいいのだけど、それもまたひとそれぞれである。だから小説なのだ。村上春樹がいうところの「仮説の堆積」であるところの小説の出番なのだ。



漫画喫茶、アパレル、パチンコ、農業、オンラインゲーム・・・という具合に色とりどりの業種が描かれているが、そこにもし一本通ったメッセージを見るとするなら、「ある価値観を一定のものとみなすな」ということになるかもしれない。と書くとポストモダン思想があたまをもたげ始めて、たびたび書いてきたように、価値観の多様性を認めることは同時に他者を拒むことにもつながっていくので、またそこに戻るのかよという感じになりかねないが、たぶんそこはもう少しちがう。というのは、このメッセージが、作者が最初に仕掛けているものというよりは、人物たちがお仕事を通して発見する種類のものだからだ。つまり、「じぶんの価値観のあるべき場所を確保するために他者の価値観の居場所を(本当はぜんぜん認めていなくても)とりあえず保留しよう」というものではなく、「他者の価値観を認めていくことでじぶんのありようを外化し、点検してみよう」ということなのだ。お仕事というのは、いろんなひとがかかわっているものである。いろんな価値観が交差し、衝突し、生々しく溶け合っている。そういうなかで、いろんなことにひとは気づいていく。その発見が、全体を見たときのそのメッセージになっているわけである。そしてそのメッセージというのは、低賃金労働に対する不安や不満をあるいは作り出しているかもしれない価値観や視点、これにこだわりすぎないことに注意をうながすものである。これはなかなかおもしろい構造で、つまり登場人物たちは、じぶんとは相容れない性格や野望を抱えたものと触れることで、他者が息づいていることを肌身に感じ取り、その状況を読んだ読者が、主人公を含めた様々に異なる人々がそれぞれの価値観で生き続ける様を目にして、そうしたメッセージを感じ取ることになるのだ。なかで最終話だけは、この、主人公が発見するメッセージと読者が感じ取るメッセージが一致している。つまり、端的に、「こんな生き方があるのか」というものだ。このはなしに登場するリュウセイという男の生き方はいかにもフィクション的だが、たぶん彼の発するメッセージを正しく読者が受信するために、それまでの4話が必要だったのだろう。そして、このメッセージは、最初に見たように、海猫沢めろんという作家じたいの存在のしかたにもかかわっているようにおもえる。




もちろん、それはただ考え方が変わるだけなので、根本的な解決にはならないわけだけども、けっきょくのところ人生というものはどうやって、どのように幸福を感じるかというところに尽きるわけである。幸福について語るとどうしてもトートロジーになる。つまり、生きる原動力のようなもののことを幸福と呼ぶのであり、それがなんなのかと問いをすすめても、生きる原動力だよとしかならないのである。幸福については普遍化できない。だから、低賃金それじたいは、もしかすると不安感の原因そのものではなくて、貧乏なものは不幸であるという通念そのものが問題なのかもしれない。