『呪いの時代』内田樹 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『呪いの時代』内田樹  新潮文庫







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「「私には言いたいこと、言わねばならぬことがある」―哲学者レヴィナスの言葉を反芻するように、内田樹は「呪詛の時代」と真正面から向き合い、生き抜く叡智を語り続ける。アイデンティティーの崩壊、政治の危機、対米戦略、ネット社会の病理そして未曾有の震災…。注目の思想家・武道家が、身体に即して問い他者への祝福を鍵に現代を論じる、今を生きる人びとへの贈り物」Amazon商品説明より



最近読んできた内田樹の本はほとんどブログのコンピ本だったが、これは「新潮45」に不定期で連載されていたものをまとめてさらに加筆したもの。連載開始は2008年で、そろそろ1冊の単行本になるかなというあたりで東日本大震災が起こり、そのぶんが加わっているらしい。見たところ明記はされていないが、明らかに語調が異なるので、第Ⅱ部「未曾有の震災の後に」というのがそのままそれなのだろう。


内田樹のばあいは、以前書いたように、「これ1冊を読んでおけばとりあえずよい」というような名作がない。というともしかするとすごく失礼かもしれないが、でも実感としてはそんなところなのだ。『下流志向』はかなり話題になったし、『日本辺境論』や『私家版・ユダヤ文化論』なんかは賞もとっていて、1冊のまとまりという点でも独立しているし、また3冊目が待たれるレヴィナス論も、普段とはやや異なった硬質な肌触りでたいへんな知的興奮を呼ぶ作品ではあるのだけど、なんというか、毎度のことながらうまくいえないけど、内田樹の思想をなす一本の幹のようなものがあって、それがかたちを変えていろんな話題、いろんな媒体として排出されているような感じがあって、じっさいのところ、いまもし内田樹に興味をもたれたかたが目の前にいて、おすすめの1冊はといわれたら、そりゃユダヤ論やレヴィナス論をすすめる可能性はあるけれども、たぶん「どれでもいっしょです」と応えるんじゃないか・・・と書くとやはりちがうのだが、でもほんとにそうなのだ。そのことについては、森田真夫というひとの解説を読んで少しすっきりした。武道家でもある内田樹のことばには、ひとことでいって「身体による裏づけ」があったのだ。著作権の問題ではつねに「リンクフリー」で、自由に引用してよい、なんなら著者の名前だけ変えて出版してくれたってかまわない、というかなりラディカルな態度を崩さない内田樹でありながら、だからといってそれは「著者が誰であってもかまわない」ような自律したテクストを編んでいるということにはならず、このひとの書くもののおもしろさそれじたいが、このひとと分離できない身体性によって裏付けられているのだ。


熱心な内田樹の読者であれば、本書に書かれていることは(筆者じしんがいつもしている言い回しであるが)ほとんどが「いつもの話」であるにちがいない。僕の実感としてもそうである。しかし、それはたぶん、イコール「前も同じ話しを読んだ」ということとはちがうんではないかとおもう。ある話題について、その件にかんする内田樹の見解をあるいは読んだことがなくても、たぶんわたしたちは「ああ、いつもの話だ」と感じてしまう、そしておもしろいのは、それによって退屈だ、読み飛ばそうとならないということである。もちろん、わたしたちはおもしろい映画や漫画は何度でも見るし、時間を無駄にしているとも感じない(いや、ひとによるかもしれませんが)。しかしこれはたぶんそういう現象ではない。つまり、くりかえすように、この件の肝は、実際には目にしたことがない内田樹の見解も「読んだことがある」と感じて、なおかつ知的興奮を覚えて啓蒙されてしまうということだ。

いったいこの感じはどこからくるのか。これについても、解説が示してくれたように、身体性による裏づけということで説明がつくようにおもう。わたしたちはつねに、内田樹の見解それじたいではなく、そこに至る道程、思考のダイナミズムを読んでいたのである。書評ブログを巡回していると、ああこのひとは内田樹に影響を受けているなと感じることがある。そんなことをいっている僕自身が、いやになるほど内田樹の影響を受けている(褒め言葉としていただいたが、内田樹みたいだというコメントを頂戴したことも)。解説の森田真夫も、無知なものでこのかたがどういうかたか存じ上げないけれども、どこからともなく「内田樹の文体」が聞こえてきてうまく解説を書き出せない、というようなことを書いている。それもそのはずである。ちょうど武道で師範の動きを神経作用を通して真似していくように、わたしたちはその著書で内田樹の思考履歴をたどってきているのである。似てきて当たり前なのである。このひとの本の書評を記すにあたっていつもなにを書けばいいのかわからないという感じがあるのもそのせいかもしれない。その必要は別にないのだが、やはりある程度全体がまとまって見えてきて、しかもそれが多少、読んでないひとにも伝わるように書かないと、一般的な意味での書評が成り立つのは難しい(そんなもの必要ないという気持ちもありますが)。まとめるのが難しいのは僕の技量もあるとはおもうが、それ以上に、たぶん読んでいる最中もっとも注意が払われていたのが、文体、つまりダイナミズムだったわけなのだ。小説家ではこういうことは起こりやすい。村上春樹が好きなんだなという作家はプロでもすぐわかる。もう、1頁でわかる。というのは、その村上春樹のことばを借りれば、小説というのは仮説の堆積だからである。ある見解を、「結論」を導いて読者を啓蒙するのが「小説」なのではない。仮に結論があっても、そこに至る道筋にこそ注目するのが小説なのだ。だから、小説家の文章に思考法や文体が似るというのはよくあるはなしである。しかしそうではない、評論などでこういうことが起きるというのはなかなかすごいことではないだろうか。まあ、そのひとが影響を受けたのちにどういう分野で、どういう文章を書くのかということにもよるかもしれないが。



だとすると、内田樹が示す「見解」は読後わたしたちになにももたらさないのかというとそういうことはない。というのは、その思考法を、身体の、思考の運用法をこそ、わたしたちは学んできたはずなのである。だから「読んだことがある」と感じる。その意味で、やはりこのひとの書くものはみんな身体的なのである。



その「見解」だが、「読んだことがある」ものであってもやはり毎回気持ちを動かさずにはいれない。震災以降の文章はかなりハードになっていて、書き手としての使命感が強くあってキーボードを叩かせているという感じもかなり強い。そして、震災から原発事故に続く災害の連続に際したときのあの「どうしていいかわからない」という状況で、じっさい当時僕はかなり内田樹(と高橋源一郎)には救われていた。僕は被災したわけではないけれども、関東人なので、物流や計画停電等の状況には触れていたし、なにより不安を募らせたのはネット上の異様な雰囲気であった。ネット上の、ということは、つまり言論上の、ということである。そして僕は(自主的なものとはいえ)仮にも定期更新をしているブロガーである。思考停止したいから、思考が追いつかないからすがるべき強い言葉を欲したとか、そういうのももしかしたらあるのかもしれないが、それよりも、言葉と思考であの状況に対峙することができるということそれじたいが、なにより心強かったものである。

そういう時代だから、しかたのないことだが、ちょっとさびしくもある。ブログでも政治の話題が続き、井上雄彦などの漫画論や、村上春樹をはじめとした文芸系の話題はめっきり減ってしまった。政治のはなしなんかやめてのんびり漫画のはなしでもしましょうよ、ということではないけれども、それはやっぱり悲しい。誰もが震災について語る。震災について語ろうとしないものは、震災を迂回した表現それじたいで震災を縁取ってしまう。そういう災害だったのだ。






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