今週の刃牙道/第28話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第28話/勝負観






バキのすばやい蹴りをかわし、地面に叩きつけた武蔵。しばらくバキが気絶しているあいだ、武蔵と光成は稽古の準備をしていた。青竹を振るという単純な動作だが、伝承にあるとおり、竹は渾身の一振りでばらばらに裂けてしまうのだった。

それを見てバキがなにかをいおうとする。「未知」に対応する武の真髄を旨とする武蔵と、「未知」をぬりつぶしてすべてを「既知」にすることに全人生をかけてきたバキ。そのバキが、「実在の人物」であるという点では異次元からの到来に等しい、まさしく「未知」そのものとしてやってきた武蔵に対抗するためには、当の武蔵に教えを乞うのがもっとも理にかなっている。前回そう考えたが、まず、バキは、それはなんのための稽古かと問う。武蔵には意外な問いのようだ。しばらく考えて、「考えたことがない」と、迷いのない表情でいう。




「稽古は稽古だ



兵法者にとっての嗜みか」




なんということのないセリフだが、武蔵の武蔵らしさをあらわしたセリフなのかもしれない。これは、ことばのそのままに受け取ればよい内容とおもうが、現代人のバキはそれをどうしても「目的」に向けたものに翻訳したいらしく、早い話が勝利へ向けていると言いなおす。べつに武蔵もそれに反論したりはしない。まあ、負けてちゃしょうがない。勝たなきゃ、生き残らなきゃ意味がない。しかし、このいいかえにもまたあまり意味がないかもしれない。文学を、言葉を研究するものが、コミュニケーションだけを目的にそれをするわけではあるまい。そりゃあ、ひとと会話ができなきゃ意味ないわけだけど、専門家というか一般人として。

バキはその言い換えから、勝利に向けた稽古をするなら、じぶんと勝負したほうが効果的だ、みたいなことをいう。要するに、もう一回たたかいたいから、その理由をつけたいのである。

これもまた武蔵には意外というか心外なことばだったようだ。目を血走らせて武蔵はいう。「お前は死んでいるではないか」と。先ほどの攻撃でバキは30ほども気絶していた、その間何回殺せたとおもっているんだと。バキはあまりに異なる勝負観に再戦を申し出たことを恥じるしかなかった・・・ということなのだが、ここはいささか奇妙ではある。あとで考えるけど、これは競技の、試合の思想なのだ。だって、げんにいまバキは立って歩いて呼吸して、生きてるんだから。


現実に武蔵のほうがバキよりはるかに格上っぽいというのがあるが、それよりも武蔵は、バキを「少年(ぼん)」と呼び続け、まだ彼が途上であると考えているようなふしもある。ただ、同時にその思い上がりも感じ取ってもいるようだ。武蔵は竹をひとつ差し出し、振ってみないかという。お前が振るのをみてみたいと。バキはそれに、先ほどと同じ上段廻し蹴りで応える。武蔵が軽くもっている先端を高速で蹴りつけ、寸断したのである。竹の節にそって割るのではなく、すっぱりとそれを横切るようにして切っているわけであるから、たいへんなものである。武蔵も感心するが、べつに驚いてはいない。というのも、武蔵には「だからなんだ」みたいな気持ちがあるっぽい。最初の蹴りより速かったとしながら、それは「武」ではないと、意味深なことをいうのである。

仮にも範馬の一族、数え切れない世界の強敵とたたかってきて、じっさい「武」をきわめたようなぶぶんもあっただろう。生死のやりとりもしてきた。それが、武ではないというのだ。武蔵はただ蹴りのことをいっているのではないだろう。バキもかなりショックなようだ。そんなバキを放って、武蔵は光成に外出したいと言い出す。光成は異様なほど驚いてそれをとめる。まあ、仮にじぶんから宮本武蔵だと名乗ったところで誰も信じないし、ある程度ルールを決めれば(外ではケンカをしない、なるべくひととはなさない、など)、そしてひとりでも現代人がそばにいて案内してあげれば、問題ないとおもうが、だめらしい。武蔵としては見聞を広めたいし、オレは子どもかと。


外出は無理だと、はなしをきいていたバキがいう。幾度だって殺せたのに殺さなかった、やはりそこが、これまでのバキの経験からすると「甘い」のだという。とどめを怠った、バキはげんにこうして生きているのだ。

そしてなにをするかというと、バキはやはり「はやさ」での勝負に出る。竹を寸断する蹴りの速さを否定された結果かもしれない。現代格闘技の到達点、最速の技として板垣世界で語られることも多い左ジャブである。果たして武蔵はこれをよけられるのか?




つづく。




すごくいい感じの展開で、毎週楽しみ。


バキがジャブを仕掛ける。餓狼伝などでは、ヘビー級のジャブはライトヘビー級の右ストレートに匹敵する威力、などというあつかいだったが、基本的にはそれで致命傷を与えるというよりは、時間をかせいだりとか距離を調整したりとか、そういう感じの、サポート的な意味の強い技だろう。ほとんどの打撃格闘技では、右利きのひとは左足を前にするので、いちばん相手に近いのが左手だ。そして相手をけん制するという意味では、そこまで体重をのせて、集中して放つこともない。だから正拳突きのようにねじこむより、裏拳気味にぽんぽんうつことが多いんではないかとおもう。よく知らないが、グローブをはめた状態だと特にそうなりやすいんではないかな。

いずれにせよ、ヒットの確率という点で見れば、ジャブはダントツでいちばんなんではないかとおもわれる。その意味で最速の技であると。バキがここでジャブを選んだのは、竹を寸断する蹴りの速さを「武」ではないと否定されたからだとおもわれる。じゃあもっと速い技見せてやるよと。しかし、これは、まちがいとはいわないまでも、けっきょく武蔵にとっては「武」ではないとなる可能性が高いとおもう。武蔵は、まさにそういう思考のことを武ではないといっているとおもわれるからだ。バキは、たぶん、速いは速いけど、そんな程度じゃまだ「武」とはいえないよと、そういわれたと感じたのである。しかし武蔵はそういうことをいいたいのではない。そういう、たとえば速さの次元で蹴りの優劣を測定する「場」そのもののことを、それは武ではないと、そういっているのである。100点とってきたよと自慢げに報告してきた子どもに、そりゃすごい、なかなかできることじゃない、偉いぞ、でもな、人間のよしあしはテストの点数だけで決まるもんじゃないぞと教えたら、翌日100点の答案をふたつもってきたと、そんなような状況である。すなわち、何回も書いてきたことだけど、それは量的なものの否定だ。何度も言うように、バキがこういう思想にあることじたいについては、彼に責任はない。ただただ、バキの目標である勇次郎が、きわめて量的な成長を息子に要求する種類の強さだったという、それだけのはなしである。


武蔵がなんのために竹を振るのかということについてもなかなか示唆的だ。目的をきかれて、武蔵は少し考え込んでしまう。理由なんかない、強いていえば、それが兵法者の嗜みだと。なんだかこれも現代っ子と先生の会話みたいだ。先生、こんなこと勉強してなんの役に立つの、こんなに必死こいて学んでなんの意味があるのと。先生のこたえとしてもっとも問題が少ないのが、それが子どもというものだから、というところだろう。つまり、どの学習についても、それが役に立つ局面というものは人生にはある。ただ、誰にもそれが「どこ」であるかを言い当てることはできない。だから、人の子どもは、若いうちにまんべんなく、あらゆることについて学ばなければならない。まず第一にそういうことがある。どこで役に立つかわからないから学んでおくのだと。そして第二に、仮に「どこ」で役立つのかが明白だとしても、そのことについてそれをまだ学んでいない子どもに説明することは不可能である。その「場所」だけを説明してもしかたがない。そこにいたる文脈まで体感的に納得しないと、それがどのようにして必要とされる知識であるのか、理解することはできない。だから、子どもたちには、黙って勉強しなさい、それが君たちの仕事だからと、そういうほかない。そう言い聞かせられるかどうかはまた教師としての資質などあるとおもうから別の問題で、その仕組みじたいは変わらない。

武蔵としても、稽古とは子供にとっての勉強みたいなものだ。なにか確固とした目的があり、これはこういうときにつかう技術だというヴィジョンがあって竹を振るのではなく、独学か師匠がいるのかは不明だが、あるいは直感的に、そうすべきだと感じているから、とにかく振るのである。それじたいがじつに武術的な発想だといわざるをえない。「目的」に対応した「稽古」では、既知の領域を出ることがないからである。あるまったく想定してこなかった攻撃がきたとき、それでは対応できないからだ。もちろん、対人ということであれば、動作範囲は決まっているのだから、ある程度の想定は可能だ。しかしもし、その想定している動作範囲というものを超える動きがあらわれてきたら。


たぶん武蔵は、バキの蹴りの速さに、量的な「速さの探究」を見たのである。これより遅いものは劣り、速いものは優れている、そういう思想を見たのである。だが、それは武ではないと。速かろうが遅かろうが、どうとでも対処できるように、目的もわからずとにかく稽古を重ねるのが武術者だと、たぶんそんなようなことをいいたいのではないだろうか。


気になるのはバキについての「死んでいる」発言である。これをバキは「勝負観」のちがいとしてみているが、むしろこれは現代的な発想におもえる。武術の稽古を重ねてその成果を試すとしても、いちいち対戦でひとを殺したり、顔面から血を噴き出したりしていては収拾がつかないし、堅実に、賢く技術を習得していくことは難しい。だから武術も競技化される。型の美しさなり、フルコンタクト空手なり、あるいはサポーターの発展なり、方向性はいろいろあるとおもうが、そういうふうにして武術はある意味スポーツとなって一般大衆のあいだに広がっていった。武蔵の「死んでいる」は、要するに試合で勝って、あれが実戦だったらお前は死んでいたんだぞと、そんなようなことをいっているも同然なのである。つまり、発想としては競技者のものなのである。

しかし、バキがそこに「勝負観」のちがいを見て絶望的な気分になった感じは伝わる。なにか、それとは異なる迫力が武蔵のことばにある。まず、これが競技であれば、再戦は可能である。「あのとき勝ったのだから、お前はもう死んでいるわけで、いましている会話も仮のものである」というような言説はふつう成り立たない。げんに生きているから。

武蔵のことばがもっている迫力は、げんに死んでしまい、再戦のかなわない相手をたくさん見てきた人間のものかもしれない。武蔵はともかく、どんな意図があってか、バキにとどめをささなかった。だから、その後バキがどんな反撃に出ようと、それは武蔵の選択によるものである。武蔵がとどめを選択したならば、今回のジャブもなかったわけである。勝負というものがそのまま生死に直結している世界では、そもそも「再戦」という概念が馴染まない。殺すまでもないと判断したか、どうでもよいのか、それは不明だが、武蔵的には原理的に「再戦」はない。どんなにコンディションが悪くても、どんなに不運が重なっても、戦いがはじまった以上、どちらかが死ぬ、そういう現実を受け容れたものだけが戦いに参加できる、そのような時代に生きていたもののことばの迫力が、あのひとことに宿っているのである。

だから、逆にいえば、ここで即座に再戦に移動できるバキこそが、現代競技者的なのかもしれない。バキはとどめをささなかったことを甘いとみるが、しかし武蔵からすればバキのほうがずっと甘い。ここで思いついたのが、蹴りについての「最初のより速い」ということだ。これはもうひとつの読み方ができる。つまり、バキは最初からもう少し速く蹴ることができたわけである。すべての能力を出し切らずに勝負に出て、敗北してしまったわけである。あるいは武蔵においてはそれこそが「武」ではないということかもしれない。速さに段階がある、あるときとあるときで技にちがいがある、それが「武」ではないと。そうして、それが最後の勝負であるかもしれないときに、可能な最上のものより遅い蹴りを不用意にうっかり出してしまう、そのバキのほうがよほど甘いと、そういうことかもしれない。







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