ひとつ前の記事 の続きです。
おもえば当初からフリーエージェントくんはヤンキーくんの変奏として読んできたのだが、ふと、これは前作の中年会社員くんともある意味ではつながっているのかもしれないと、今回仁の再出発を見ていて感じた。フリーエージェントというのは、一般的には、組織に雇われず独立して働くものを指すらしい。だから、根源的には、ネガティブな意味は含まれていないのだし、情報商材販売の影も(たぶん)ない。雇われて働くことでさまざまに制限されるそのことじたいから解き放たれて、自立して生きていこうとするスタンスそれじたいのことを、たぶん最初はフリーエージェントと呼んでいたわけである。しかし、現状では、好むと好まざるとにかかわらず、「誰かに雇われて」働き、お給料をもらうというのが、わたしたちの労働の一般的な姿であるから、フリーエージェントであるということは必然的に現代日本では異端となり、批判思想的なものとなる。たぶんその相対的な位置関係が、ヤンキーと似通っているのである。たびたび見てきたことなのでもうあまりくりかえさないが、ヤンキーくんというのは常識や制度ありきの存在である。いってみれば平和な社会が文明的に昨日している証である。常識もくそもない紛争地帯では、たぶん、ヤンキーのような概念はないのではないかとおもわれる。わかりやすいのはヤンキーくんと呼応するようにマサルたちがとった「コンビニの前を散らかす」そして「それを店員が毒づきながら片付ける」という図だ。これが同時に、一体となって出現しなければ、彼らのふるまいはヤンキーくんのものとして成立しない。「ゴミは本来ゴミ箱に捨てていくものだ」という合意があればこそ、彼らはゴミを散らかす。古いヤンキーの衣装は制度の象徴である制服を着崩したものであり、ただズボンが太ければいいというものではない。
フリーエージェントくんは「制度ありき」ではなく、相対的にそう見えるというだけのものだが、しかし、一般的な雇用形態が存在しない世界で果たしてフリーエージェントくん的ありようは成立するのだろうか。こういうことには僕はとても暗いので、いつものように話半分に読んでもらいたいのだが、雇われずにしかし彼が自立して生活を営むためには、一定の水準を超えた頻度で彼が利益を生むと考えるものが売れなければならない。つねにそれに応じた欲望が近くに転がっていればよいが、そうでないばあい、規模も小さいので市場も形成されていない状況では、彼はきっといわゆる「金持ち」にはなれないのではないか。たぶん、ならなくてもいい、というのが、仁が最終的に見つけた新しいスタンスだとおもうのだけど、ともかく、なぜだかわからないが、経済というものは拡大していくことを望む。根本的にそれはわたしたちが遊牧民ではなく定住民族であるからかもしれない。わたしたちは、原則的に貯蔵することを中心に生活を編んでいる。しかし遊牧民は、すべてをつかいきってその場をあとにするので、ものを貯めるということがない。そもそも雇用という形態じたいが定住民族的で、勤務先が一箇所にとどまるものでなければ、わたしたちは「通勤」することもできない。遊牧民が誰かを雇用するようなことがあるとすれば、それはもう、ファミリーとして迎え入れるということ以外ないんではないかとおもう。映画などではジプシーというのはいやに排他的な集団として描かれるが、そういうことなのかも。「他者」を受け容れる準備がその生活形態からしてないのである。
ともかく、わたしたちには「ものを貯蔵する」という習性があって、そこから贈与や交換がはじまり、経済が動き始めたと、ごく大雑把にそう考えてもいいだろう(遊牧民には交換する「もの」がない、というようなことを柄谷行人が書いていた)。だから、経済が本質的に大きく膨らもうとする傾向があるのは、たぶんそういうところからきている。たぶんばっかりで申し訳ないが(なにしろいま考えたあてずっぽだから)、たぶん、わたしたちは、定住するにあたって、予備の食料を集めておく習慣が本能に刻まれており、それが、その日の食料と労働を等価で交換するだけの暮らし方に満足させず、無意識に経済を大きく動かそうとしていくのである。たぶん。
そういうわけだから(どういうわけだ)、人類すべてがフリーエージェント、いわば社長であるとき、市場はごく小さいものになってしまい、ある意味その日暮しの遊牧民的なものになる。ところが、わたしたちは遊牧民ではない。そうして、市場を広げるために、「社長」は労働力を獲得しようとする。それが雇用なのではないかと、僭越ながらおもうのだが、どうだろうか。
つまり、やはり、わたしたちが定住民族である以上、フリーエージェントは独立した思想としては成立しないようである。一般的な雇用の姿があって、それを批判するものとして立ち上がってくる、そういう見方が、やはり正しいようにおもえる。おもえば、たまたまだろうけど、仁の親はものを貯め込む癖があった。仁が目指しているところのものは、定住民族的な雇用形態を脱しながら、それを超えていくというものである。彼が両親のそうしたふるまいに苛立つのも無理はなかったかもしれない。
さて、では現代でフリーエージェントはどのようなしかたで成立するか。そこに「雇用」が入ってはならない。清栄の会社などの描写では、スタッフがいるようだったが、正直言ってなにをしているのかはよくわからなかったし、なんか部下っていうよりは弟子とかよくいえばライバルみたいな感じだった。彼らは彼らでやっていると、そういう感じがした。だけど、ふつうに考えて、以前以上の利益をあげようとしたら、どうしても労働力が必要になる。この背理を乗り越えようとしたとき、たぶんお金がそれじたいのちからで増幅していくというマルチ商法的スタイルと相性がよいのである。この仕事では、まず相手に大きな債務を負わせる。それを解消するためには、その相手もまたべつの誰かに債務を負わせればよい。情報商材の介在しないネズミ講ではその金の流れに組みいる権利のようなものを最初の債務で買っているようなところがある。それを開始した親は、子の回収したお金の何分の一かをもらうだけで、あとはどんどん負債が子を、孫をつくっていくので、お金は増えていく。また、同時に多数のものがアクセスでき、接客をせずとも、いちど入力し作製したサイトが営業をするという状況を生み出したインターネットのちからも効果的に働いたことだろう。定住をせず、それでいて貯蔵するためには、「わたし」が複数、同時に存在すればよいのである。
だが、このスタイルは必ず弱者を食い物にするものとなる。ふつう、お仕事というものは、それを始める前と終えた後で、有形無形問わないなにかしらのものが生成されている。それは、まいた一粒の種が実らせた数百の種だったり、僕が本を一冊売って読み終えたあなたが得た満足にプラスした知識や哲学だったりする。けれども、このお仕事では、わたしとあなたのあいだでお金が移動しただけで、全体の財は少しも増えることがない。したがって、わたしが「金持ち」になるためには、新しい「子」が必要になってくる。その子もまた孫を必要とする。そうして、「なにも生成されない」という事態そのものが、無限に新しい人間を必要とする。しかし人間というのは有限である。そして、機能上、わたしはじぶんより情報について弱いものを相手にしなければならないので、ひとが尽きたそのとき、考えうるもっとも弱い存在があらわれてくることになる。それが本作では苅べーだった。ウシジマシリーズでは悪役というかヤンキーには必ず動物の名前が入ってくるが、苅部にはそれが見当たらない。というのは、そうではないからである。ヤンキーのようなかっこうをして、悪役ふうだが、彼は弱者として登場した人物なのである。
仁は真に弱者を救済するビジネスをはじめようと決心する。「弱い立場の人も楽に生きていける居場所作りが真・村上塾なんだ」と。なぜ、弱いものたちは楽に生きて行けないのか。そもそも、「弱い」とはなにか。これもまた相対的表現である。ある様態について、一種の傾向があり、ことばに言い表すことができると、ひとびとが考えたとき、「強い」「弱い」という形容が生じてくる。たとえば情報に関して、新聞もテレビも見なければ弱者なのかというと、そうでもないだろう。お年よりはみんなテレビも新聞も見るが、情報強者ということばは馴染まない。かといってネットのニュースばかりを追っているものだけが強者なのだろうか。新聞には一覧性があるがネットにはない・・・というようなはなしではなく、検索というシステムが中心であることが、新聞以上にこちらの視野を狭めてしまう可能性もあるのである。べつにどちらが「強い」のかということではなく、要するに「強弱」も価値観によって設定されているものだということである。つまり、弱者がつねに一定量排出され続けるのは、一定の価値観がわたしたちの知識にかんする認識を規定しているからなのである(もちろん、一概にはいいきれませんが)。その価値観を生み出しているものが「雇用」である可能性はかなり高い。「雇用」には必ず「学歴」や「能力」がつきまとうし、ふつう、「学歴」や「能力」を育成するのにはお金がかかる。そのお金が、そもそも「雇用」によって生み出されたものである・・・。そう考えると、無償とやりがいを基本とし、「雇用」のない世界を目指すような仁の考えは、困難ではあるとしても、かなり正しいのかもしれない。そして同時に、そのスタンスは「貯め込まない」もの、つまり金持ちを目指さないものである。でありながら、それは遊牧民的に「使い切る」ものではなく、贈与の精神に裏付けられたものである。いわば開放的なジプシーなのだ。
意外なことに、丑嶋は仁の行いを買っていたようだ。丑嶋もまた弱者を食い物にしている。ときには強者も食い物にするが、それが含む悪徳について理解しつつ、みずから積極的にそのようにふるまっているようなところもある。あるいは、もしかすると彼自身も忘れてしまった心根は誠実かもしれない彼が闇金業をはじめるにあたっての気持ちが、仁のものと似ていたのかもしれない。丑嶋もまたリスクを背負っている。人生を賭けているわけである。だから、彼が仁のやりかたを認めるということは、彼自身がじぶんのやりかたを正当化するということにほかならない。
丑嶋は、何に謝るのだと仁にいう。つまり、たしかに仁は弱者としての朋子を利用したかたちとなったが、最初から自己責任ということはいってあるわけだし、悪いことなんかしてないだろと、そういうことである。しかし、わかりにくいが、朋子は弱者だからこそこうなったわけである。弱者だからこそ、「自己責任」を聞き流し、よく考えもせずお金をつっこんでしまったわけである。耳の遠いおばあさんを笑顔でだまして契約書にハンコさせることは悪いことではないのだろうか。つまり、丑嶋は、情報弱者であることもまた自己責任であると、そういっているのである。それは知ったことではない、弱者であるのはお前の責任だと。そして、それは逆にいえば、強くなれ、ということでもある。ときどき気がつくことだが、丑嶋は基本的に「強い」「弱い」の相対的関係についてはあきらめているようなところがある。それはどうやっても解消されることがない。それなら、じぶんは「強い」ほうにいきたいと。だから、結果弱者
を利用することになっても、強者たろうと志向した仁を、自分自身のために、丑嶋は評価せざるを得ないのである。
考察は以上のようなところだが、ひとつひっかかるのは、仁の借金のことだ。竹本の名前まで出して、果たしてマサルは鬼になれるのか、みたいな空気を演出していたのはなんだったのか。あれほど「カウカウの借金は怖い」と煽り、また仁がそれをなめているような描写もありながら、返済する場面もなく、仁のセリフで完済したことが語られるのみなのである。ちょっとこれは、さすがにへんだ。おもうに、天生翔のモデルとなった与沢翼の破産が働いた結果なのではないだろうか。つまり、たぶんそれ以前までは、べつのエンディングが構想されていたのである。あのような描写をみれば、誰だって、仁、そしてマサルが、丑嶋に痛い目に合わされると予想する。ところが与沢氏があのようなことになって、では作品の展開も変えようかとなったとき、このエンディングにつながっていったのではないか。
獏木も再登場し、ハブの名前も出て、いよいよ終章が近いのではないかという予感がする。終章ではなくても、マサルが本格的に叛旗を翻すのも時間の問題だ。今回合併号なのでしばらくあとだが、次号すぐに新章がはじまるらしい。そうなっていくことやら。
ともあれ、「天生をこんなふうに描いて大丈夫なの?」ということの多かったフリーエージェントくんも終了。執筆にあたってはいろいろ神経つかったのではないかとおもう。真鍋先生お疲れさまでした。
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