『遊動論』柄谷行人 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『遊動論 柳田国男と山人』柄谷行人 文春新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「私は柳田論を仕上げることをずっと待ち望んでいた」(「あとがき」より)
既成の柳田論を刷新する衝撃の論考が出現した。
柳田国男は「山人」の研究を放棄し、「常民」=定住農民を中心とした「民俗学」の探求に向かった。
柳田は長らくそのように批判されてきた。
本書は、その「通説」を鮮やかに覆し、柳田が「山人」「一国民俗学」「固有信仰」など、対象を変えながらも、一貫して国家と資本を乗り越える社会変革の可能性を探求していたことを示す」Amazon内容紹介より




 

 

 

柳田国男はこの手の学者では珍しく、遠野物語のちからで、中学生でも知っているような人物で、ご多分にもれず僕も幾度となく本を手にし、挑戦したが、たぶんこれまでいちども一冊の本を最後まで読み通せたことがない。そういう本は数え切れないくらいあるけど、ずっと興味を覚えつつ、そしてじっさいに挑戦しつつ、そうなっているひとというのはこのひと以外いない。旧い学者の本とはいっても西田幾多郎みたいになにをいってるのかわからないという感じではないし、なぜ読み通せないのか、わからないのだが、やはり原因のひとつとしてことばが古すぎて(古いものを研究しているのだから当たり前だが)、僕みたいに無学なものではすぐ呼吸が苦しくなってしまうということがある。最近ではふりがながふってあるものも多いし、あるいは読めなくても、ある程度意味がわかれば、いちいち立ち止まって辞書をひいて読書のリズムを崩さなくてもいいということはあるんだけど、このひとのばあい、哲学書的な抽象語ではなくて固有名詞が読めない。たとえば、いままさに挫折しかけている「妹の力」をぱらぱらめくってみて出てきたものでは、「大帯姫廟神社」は「おおたらしひめのびょうじんじゃ」と読むわけで、最初にふりがなは出るものの、それ以降はだいたい出てこない。音声として読めないからといってたいした問題ではないではないかとおもわれるかもしれないが、最近ジョジョリオンで描かれた、ひとの顔がぜんぶ同じにみえて識別できない生活がそれに近いような気がする。ひとことでいって、あたまに入ってこないのである。加えて文体も独特である。以前どこかで誰かが、柳田国男の文章は最後まで読まないと否定なのか肯定なのかわからない、といっていたことがあって、このひとの文章のよみにくさはそういうところからきていたのかと感動的に納得してしまったのだが、そういうのもある。当たり前といえば当たり前なんだけど、読んでいるあいだは息継ぎができないし、ずっと緊張してなきゃいけないような感じが続くのだ。たぶん、冊数を重ねて、つかわれることばにも、文章にも慣れていけばそのうちそういう感覚もなくなっていくものとおもうのだけど、そうではないものが柳田国男の本をほんとうに読もうとしたら、傍らにノートは必携だし、速読しようとしてもいけないだろう。

 

 

 

 

というようなことは僕個人のばかげた事情だが、本書は柄谷行人という、これもまたビッグネームによる柳田国男論である。基本的には、初期の柳田国男が構想していた山人(やまびと)という概念を通して浮かぶ「遊動性」に着目し、柳田国男がどのように未来の国家を思い描いていたかに迫るという内容だが、全体としては、「一般にいわれている柳田国男」のイメージに反論するというぶぶんが強く、たとえば後期の柳田は山人を捨てて否定するようになったといわれているが、そうではない、柳田は山人を否定したことなどない、という具合なのだが、「一般にいわれている柳田国男」像を知らない僕としては、そのあたりはよくわからない。けれども、著者である柄谷行人の思想が、柳田国男を通してなにか大きなものに接近しつつあるというような昂揚感は強く、調べてみると新書ではない大きめの本でそのまま柳田国男論というものも出ているようである。しかしこれはじつは40年前に書かれてこれまでいちども刊行されなかったもののようで、著者的には、震災や原発の経験を通して柳田国男が鮮やかなものとして蘇ってきたというところらしい。

本書全体に入る以前の、著者の柳田観を短くまとめたものとして巻末には「付論 二種類の遊動性」が掲載されているが、これがじつに端的でわかりやすく、あとがきにはまず本編に入る前にこっちを読んでもらいたいと書かれている。あとがきに書かれても!まだ読まれていないかたはまずこちらから読んでください。

 

 

 

 

定住以前の遊動民を考えるにあたり、まずマルセル・モースの贈与論が持ち出されるのだが、このあたりが短いのにたいへん刺激的だ。モース以前の人類学では純粋贈与と互酬的贈与が区別されていたが、モースは純粋贈与を否定した。親が子に対して無償の愛を注いでも、そこから満足を得るなり、したたかな親なら将来のことを期待したりしているわけで、「お返し」が存在することになる。しかし、定住以前の遊動民にはそういう互酬的な贈与はなかったと著者は書く。なぜなら、遊動民だからである。定住しないからである。そこにとどまらないものは、備蓄ができず、したがって「所有」ということに意味を見出さない。だから収穫物は均等に分配され、きれいさっぱりなくなってしまう。これはまさしく純粋贈与、お返しを期待しない贈与であると。彼らには収穫物にかんして「昨日」や「明日」というものがない。だからお返しもありえない。

やがて彼らが定住をはじめた際、その遊動民時代のシステムを維持するために互酬的贈与が発生したとするが、そこに著者はフロイトの「原父殺害説」そして「抑圧されたものの回帰」とそこから発生する強迫性で説明する。このあたりはほんとうに鮮やかなので、ここを立ち読みしてから本書を購入するかどうか決めてもいいかもしれない。

 

 

 

 

柳田国男論のほうも手に入れてあるので、続けて、忘れてしまわないうちに読んでいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com