第345話/フリーエージェントくん25
苅ベー激アツメソッドの恐喝の件で出頭命令が出ている苅部一味が、仁に金を要求しだした。おそらくその事件のときはいなかったとおもわれる苅部はともかく、ほかの彼らはヤンキーくん編で愛沢の子分として働き、マサルを殺しかけた札付きである。仁はとっさに金を集めるアテがあるようなことをいってその場をしのぐ。
さて、同じとき、仁は天生にじぶんの彼女、麻生りなを差し出す約束をしていた。約束通り高層ビルの天生の部屋に女がやってくる。しかしそれはりなではない。苅部の彼女である萌子である。
モエコはおびえている様子だが、拒みはしない。とりあえず予定通り二人はことを開始し、仁はテーブルクロスのしたに隠れている。天生のはなしかたの感じでは、いちおう、女に対して、その本当の彼氏が隠れていることは内緒のようだ。
その部屋になぜか苅部一味が乗り込んでくる。施錠とかどうなってるんだ。それにこんなビルなんだから警備員とかいないのか。建前では内緒になっている以上、仁はモエコがくる前に隠れているはずだから、仁が鍵を開けておくということはできない。ということは、モエコが開けておいたか、天生に開けておく習慣があることになる。あとの流れからして苅部たちがなだれこんでくるのは仁の計画通りっぽいが、なぜか仁は苅部を見て驚いている。細部は決めておらず、予想しないタイミングで入ってきたので、このときにとっさに筋書きを考えたのかもしれない。
こういうときって、なんというかほかのことは考えにくいし、裸で無防備なので、襲撃にはもってこいの状況ではある。なにかに集中しているぶん、あるいは睡眠時より危険かもしれず、映画でも、ギャングとかマフィアが襲われるのが行為中である確率ってけっこう高いんじゃないかとおもう。しかし天生は、冷静というか鈍いというか、ふつうに続行しつつ彼らを迎えている。そしてスタンガンをくらい、後ろ手に手錠をかけられ、半裸のままあたまにはビニール袋をかぶせられてしまう。
苅部たちは天生を豚よばわりしつつ金を要求する。こんな状況なので、とりあえず天生は財布の金を全部やるという。だが苅部たちは、それでは足りない、1億寄越せという。「1億」という数字の大きさをよくわかっていない感じがスーパータクシーくん諸星の元嫁っぽい。強盗をするにしても、目的が達成するためには相手が差し出し可能な額を提示しなくては意味がない。夜道で目をつけたサラリーマンを路地裏に拉致し、3000万寄越せとはふつういわないわけである。それもこれも、もちろん苅部たちの頭脳が不調なせいもあるが、天生じしんがおおざっぱに儲けた額を広告として提示してきたことに原因がある。金持ちだからといって、必ず部屋に現金があるとはかぎらない。だが、おそらく、非現実的な額をあっさりくちにする天生の成金ぶりじたいが、苅部たちにそのような非現実的な額をくちにさせるのである。
いずれにしても、知り合いである仁に金を要求するのとはちがい、いきなりやってきていきなりそんな金を要求するのだから、強盗としても不自然である。天生は「バカなことを」という感じだが、彼らの作戦としては、要するに美人局である。モエコは16歳の未成年らしい。そこで天生は仁が裏切ったことを知る。
たほう、苅部とモエコもなんかもめている。なんでパンツ履いてないんだ、あの白豚とやったのかと。なんかよくわからない状況だが、整理すると、今回の大金が手に入るという件とはまた別に、仁は20万払うから天生にモエコをあてがってくれないかと苅部に依頼したらしい。モエコは嫌だったけど、苅部は20万でも金は欲しいから無理矢理向かわせた。けれども、苅部は「生本番中出し」とはおもっていなかったらしい。ではなんだとおもっていたんだろう。部屋にくつろいでサッカー見ながら酒でも飲むとでもおもっていたのだろうか。ふたりともかなりあたまが悪いので、一見すると冗談みたいだが、「豚人間が生まれてからでは手遅れだ」「天生先生は人間よ」みたいなやりとりも見えるので、「生→中出し」というのがショックだったのかもしれない。行為としては手や口でやる程度、あるいは挿入もするかもしれないがそこのところは深く考えず、すぐ突入するから関係ないと。でも、苅部たちは真っ最中のときに入ってきたんだから、やったかどうか尋問する意味はあるのだろうか・・・。やっぱりこのやりとりはよくわからない。
でも苅部はほんとうにショックを受けている様子でうずくまってしまう。それをおいて、フードくんが5000万円くらいでいいから寄越せとはなしを続ける。対して、天生は金はないという。いまないということではなく、じっさいもっていないのだ。すべては自作自演、金持ちのふりをして群がる人々から金を集めるという情報商材販売のセオリーを、天生もまた実践していたにすぎないのである。そして、金はそこにとどまるということをしない。もちろん、一時的には集まる。が、それはまたすぐ、「金持ち」というイメージを持続させ、また膨らませるために、女や社交などに消えてしまう。仁にフェラーリを売ったのも金がなかったからなのだという。
貯金はなくとも、ついこの前まで行っていた情報商材やチケットの売り上げが手元にあるはずである。それを仁がいうと、法人税滞納で動産も不動産も押さえられたと天生はあっさり告白する。会社は完全にショートしたと。加えて、清栄にもちかけていた投資話である。相手はフリーターくんに登場した樺谷(樺野)。われわれからすればいかにもうさんくさいはなしだが、そういうわけで天生は再起をかけてなけなしの5千万円を溶かしてしまい、全財産すっかり失ってしまったのだった。こんな状況なのに天生がいやに落ち着いているのもわかる。彼にはもはや失うものがなにもない。美人局で警察を呼ばれたところでべつにどうということはない。
「いいですか?教訓です。
楽して儲けるうまい話などないということです」
決して強いことばではないが、天生の経緯をおもえば説得力のあるセリフだ。その樺谷と丑嶋が顔を合わせている。前回あらわれたのは彼だったのだ。
どういう経緯かわからないが、丑嶋と戌亥の情報で天生がぎりぎりだということを知って、詐欺を働いたらしい。天生は詐欺にひっかからないことに強い自信をもっていた。たんに清栄の前で虚勢をはっていただけかもしれないが、しかしげんに鷺咲のことは追い払っていた。それを、いかにもうさんくさいはなしでありながら食いつかせるのは、タイミングを読むという意味においても、また丑嶋や戌亥などの人脈という点においても、樺谷が詐欺師としては凄腕だということなのかもしれない。
さて、これはいろいろとまずいことになった。ほんとに金がないとして、それで彼らがおさまるはずはない。とりま豚は殺す。現状天生は金を失い、彼らの憎む「調子にのってるやつ」ではなくなっているわけで、なぜ殺されなければならないのだろう。そして、現実的に金がないというのは問題である。そうして、どうにかごまかした矛先は再び仁に向けられることになるのだった。
つづく。
天生は妙に落ち着いているが、殺されるとなったらどうだろう。まあ、語彙の貧弱な彼らのことであるから、たんに「許さない」とか「ぼこぼこにする」とかそんな程度の意味かもしれないが、しかしここにも、第342話で考えた下流志向的なマインドが見える。仁に対する不満が爆発したとき、彼らはとにかく仁を道連れにしようとした。そうすることで彼らはべつに「得」をしない。同じだけ仁が「損」をするだけである。この思考は、たぶんもう少しはなしがすすんだいまも続行している。仁のはなしでは、金を積んだところで逮捕を免れるわけではないようである。だから5年逃げろというはなしだったが、彼らがそれに対して納得した描写はない。ただ金が手に入るときいてその場がおさまっただけなのだ。もちろん、いちばんいいのはじぶんたちが大金を手に入れて一人勝ちすることである。だが、それができないとなれば、じぶんたちがこうむっているのと等量の損害を、彼らは他者に要求する。これは、おもえば愛沢にもあった思考法である。カウカウ襲撃直前、道行くサラリーマンの緩んだ表情に苛立ち、「俺の苦痛を思い知らせてやりてェ」といっていたアレである。これは、フリーエージェントくんと同型であるところのヤンキーくんとして典型的な思考法だ。何度か説明している理路なので既読のかたは読み飛ばしてもらいたいが、ヤンキーくんというのは「秩序」を必要とする存在である。フリーエージェントくんとヤンキーくんで共通している描写で、コンビニの前にゴミを散らかしていくというものがある。それを、「ゴミ箱というものの存在を知らない」とか「片付けるという発想がない」とか、悪意をもって読み取ることは可能である。けれども、おそらく、そもそもは、「ゴミ箱」があるからこそ彼らはその周辺にゴミを散らかしたはずなのである。それを文句をいいながらも片付ける人間がいるからこそ彼らはわざわざ「片付けない」という選択をしていたはずなのである。多くのひとが守るルール、秩序があって、それを破るという批判思想的行為を経由して自己規定する、それがヤンキーくんというありようなのである。
しかし、そうした動機はやがて内面化され、識閾下で行動を決定する原則のようなものになっていく。たとえば「恋」という現象も、「社会」という通念も、明治期にloveやsocietyといったことばが輸入され、翻訳され内面化されていったことで原則になっていったのであり、人間がもともと恋する機能や社会意識を背負っているわけではない。
そして、そうした動機の内面化は、「ルールを破る」という行為じたいの安定をもおそらく示している。秩序を無視し、権威に反抗するだけではある特別のふるまいになることができない、たぶんそういう状況になってきているのである。その風潮がどこからやってきているのかはわからない。たとえばポストモダン的空気はどう働いているだろう。秩序への反抗として十代の青年がもっともかんたんにとりやすいのは、制服を着崩すという行為である。第一ボタンをあけるにしろ、ボンタンを履くにしろ、それはとにかく体制の象徴である「制服」でなければならない。太いズボンならなんでもいいわけではない。けれども、べつに真新しいことではないかもしれないが、「制服を着崩す」というのはもはやヤンキーだけがとりうる行為ではない。誰もが、自己表現として、制服を着崩す。体制への反逆心がわずかにでも成果を感じられるのは、数ヶ月にいちど行われる生活指導のときくらいだろう。これは僕が高校時代のはなしであるから、いまはどうなっているかわからないが、大差ないか、あるいはもっとこうした状況はすすんでいるかもしれない。着崩すという行為じたいがカラフルに多様化し、誰もが採用可能なファッションになっているわけである。そんななかに権威や秩序がちからを見せつけるのはわずかな瞬間だけ。反逆は、そもそも堅固な権威あってこその存在だったわけである。
ヤンキーくん的ふるまいは内面化されて記号になり、「価値観はひとそれぞれ」のポストモダン的風潮もあって誰もがコミット可能になってしまった。そうすることで、ヤンキーはおそらく「ヤンキーくん」になることができなくなった。反秩序の動機を表面化して生きることが不可能になってしまったのである。それを受けて、閉じたコミュニティのなかで他者、つまり秩序から「ヤンキー」と認定されないままに生きていくことも可能だろうけれど、たぶん、やってきた格差社会が、それを許さない。格差社会では、差異が量的なものとなる。秩序と反秩序の対立ではなく、秩序に対する意識の「大きいもの」と「小さいもの」の関係になるのである。すべてあてずっぽだけれど、たぶんポストモダン的な「優しいことば」がそこに同居しているというのがルサンチマンの原因であるかもしれない。本来、その差異は比較できないもののはずである。にもかかわらず比較は厳然と行われる。そうしたところで、俯瞰したときにじぶんたちが虐げられている量のようなものが見えてしまう。
長くなったが、そしてぜんぶいま考えた浅い考えだが、そうした歴史を経て、彼らの「同じだけの苦痛(損)をさせよう」という考えがたぶん出てくる。彼らが天生を殺しても得がないばかりかむしろ罪が増えて損しかない。けれども、思考癖として、「とりま(とりあえずまあ)」損をさせようと、そういうふうに考えがすすんでしまうのだ。これを翻訳すると、「じぶんは本来もっとすごいはずなのに、不当に低い評価を受けている」ではなく、「あいつは不当に高い評価を受けている」ということになる。自己評価が高いのではなく、他者評価が低いのである。
だから、仁はいまたいへん危険な状態なのである。ここから、どうにか金をひねり出そうというふうに彼らは働かない。それならそれでいいけど、仁にも同じかそれ以上の目にあってもらわないと理屈にあわないと、たぶんそのように考えるからだ。これは非常にまずい状況だ。もちろんカウカウへの借金も払っていない。あとはもう、清栄がどう動くかということだけだよな・・・。
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