『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』浦久俊彦 | すっぴんマスター

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■『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』浦久俊彦 新潮新書




フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)/新潮社
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「この男こそ、「史上最強のピアニスト」だ! 聴衆の大衆化、ピアノ産業の勃興、スキャンダルとスターの関係……。リストの生涯をたどると、19世紀の実相が鮮やかに浮かび上がる。音楽の見方を一変させる一冊」Amazon内容説明より









僕はジャズや坂本龍一からピアノ音楽に入ったので、クラシック音楽のことはほとんどなにも知らないのだが、それでもフランツ・リストのはなしを聞くことは多く、僕のなかでもなにか別枠に入っている感じがあった。いつだったか、友人のピアノ・サークルの発表会みたいなのに誘われてときのことである。彼(事実は双子なので彼ら)は高校時代のクラスメートで、いわゆるグループが同じものだったかというとそうでもなかったのだが、ピアノ弾きとして親しいぶぶんもあり、高校にあがった直後に独学でゼロからピアノをはじめた僕を非常に買ってくれていて、音楽的資質も高く評価してくれていたのだが、実際は彼()のほうが数段上手かった。音楽の授業で、楽器を弾けるものはなにか楽器、そうでないものはうた、という課題があって、僕は坂本龍一のラスト・エンペラーを弾いたのだけど、彼らはピアソラのリベルタンゴを連弾で演奏したのである。連弾というのは一台のピアノにふたりの人間が並んで座って演奏することだが、双子ということもあり、息はぴったりで、ブリリアントな音色となによりタッチの強靭さには驚くべきものがあったのだった。リベルタンゴは有名な曲だし、当時はヨーヨー・マのものが流行ってもいたし、ひとりで弾ける譜面はいまでもけっこう出回ってるんじゃないかとおもう。じっさい、それで感化されて僕も弾いてみたのだけど、やはりそういうのと比べると、連弾でそれぞれが担当する箇所というのはそれほどの難易度ではないのだが(ふたりで分業しているわけだから)、そういったことを超越したピアノの技術、それに熱意を感じたのだった。

高校を卒業してしばらくは交流がなかったのだが(なにしろ「グループ」がちがうので)、クラス会で再会した際、ちょうど、大学時代に所属していたピアノ・サークルのイベントがあるから来てみないか、というはなしになったのである。僕はそのときはもうほとんどピアノを弾いていなかったのだが、そんな彼(そのときは双子のかたほうしか弾かないということだった)の演奏を聴けるのだからと、僕は出かけていったのだった。ピアノサークルのよいところというべきか、玉石混交で、とにかくピアノを楽しもうというコンセプトらしく、ショパンやリストからジブリまで、さまざまなレベルの弾き手が集まっており、非常に楽しい催しであった(イベントのあとの内輪の飲み会にもなぜか参加することになり、「次回はぜひ弾き手として」というはなしになったが、それ以降まったく誘いがないので、あれは「社交辞令」だったんだなと学んだ次第である)


さて、その彼がなにを弾いたかというと、リストのハンガリー狂詩曲の7番だった、ように記憶している。リスト、というじてんで、ほんとうに驚嘆してしまった。高校を卒業するくらいのころに「ラ・カンパネラ」を練習しているというようなはなしは聞いていたが、それからたゆまず努力を重ねて、大学に入って遊びほうけることもなく、勉強に集中しすぎることもなく、時間を探してピアノの腕をあげていったということなのである。

卒業後だったので、彼らはOBということになり、なかにはかなり年齢の高いかたも参加していて、そのうちのひとりはかなりの弾き手らしく、ショパンのエチュードを軽々と演奏されていた。飲み会ではそのかたとおはなしする機会も得られ、そのときに、たぶん友人の彼が弾いていたからだったとおもうが、リストのはなしになり、そのかたの熱い口調でいかにリストがすばらしい音楽家であったかというはなしを聴かされたのである。なにしろ酔っ払っていたので、くわしいことは覚えていないが、いまおもうと技巧に走りがちな一般のリスト弾きに批判的だったかもしれない。もちろん、技巧と内容を分離して考えることはできないのだが、なにしろ超絶技巧のリストであるから、どんな曲をとっても、ただたんに、無感動に鍵盤をなでるだけでも常人には難しい。そんな流れで、とにかくハンガリー狂詩曲の14番を聴いてみろ・・・と、そういうはなしになって、すぐにアマゾンで購入したのだけど、よくわからないというのが正直なところだった。


とはいえ、日本で人気なのはリストよりもやはりショパンだろう。本書にも書かれているが、ショパンの曲はいくらでも浮かんでくるし、タイトルは知らなくても曲を聴けばわかるというようなものはかなりありそうだが、リストというと「ラ・カンパネラ」と「愛の夢第三番」くらいしか知られていないにちがいない。僕自身もそうだ。去年だったかに刊行された村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ではリストの『巡礼の年』というピアノ曲集のなかの「ル・マル・デュ・ペイ」という音楽がフィーチャーされているそうで(まだ読んでない)、そのことでちょっとしたブームになった可能性もあるが、それからリストの音楽が定着したというはなしも聞かないので、やはり少し難解なぶぶんもあったんだろう(とはいえ、僕の職場にはむかしピアノの教師だったひとがいるのだけど、そのひとはふつうに知っていたので、知っているひとは知っているんだろう)


リストといえば、一般の認識では、超絶技巧と、それがもたらしたアイドル的な立ち位置だとおもう。そのあたりは渡辺裕『聴衆の誕生』で触れられていたものを読んで知ったことだったが、本書のタイトルにあるように、女性たちがリストの演奏を聴いて失神したというのである。失神というのはすごい。手術前の麻酔などを除くと、僕はこれまでの人生で失神したことがいちどもない。空手の組み手のときに回転後ろ蹴りを真下から金的にくらったときも、しばらく呼吸ができないほどの苦痛に見舞われたが、失神はしなかった。『聴衆の誕生』もそういう視点だったけれど、つまりそうした、現象としてのリスト、社会的価値としてのヴィルトゥオーソとはなんだったのかと、そういう読みの試みである。というのは、現代のようなインターネットが当たり前に生活に根付いている状況では、作品や作家がそれぞれ完結した独立物としてみなされがちだからだろう。「ハンガリー狂詩曲 第14番」ひとつとっても、そこには前後に13番と15番があり、通して19の曲があり、演奏者があり、ということは解釈があり、聴き手があり、ということは解釈があり、またリストという謎の多い人物への思い込みや理想があり、ひとつの楽曲という単位で価値を評することは、じっさいには不可能なのである。いや、べつに評価をくだすことはそれぞれ自由にしてかまわないのだが、その評価が絶対的なものになるということがありえないのである。はじめてリストを聴いてから「よくわからん」とくちにされたことばと、熟練のピアニストが「14番にすべてが凝縮されている」と評したことばが原理的には等価なのである。


その意味で、「女性たちを失神させた」という伝説をまず押し出して、なぜそういうことが起きたか、そこにはどういう条件があったか、検証していくのは、楽曲を、またリストという人間の像を一定の枠内に完結させない、という点において重要なのかもしれない。表層的にこの問いにこたえると、リストやパガニーニのような超絶技巧のヴィルトゥオーソの登場で聴き手が大衆になり、いってみればいまのアイドルや人気ミュージシャンのライブ会場のような雰囲気のなか、大勢の人間が密着状態に過呼吸になる、あるいは、当時のヨーロッパの淑女たちが当たり前に装着していたコルセットが酸欠にさせたと、そういうことになるのだが、しかし同じように歴史に残る大天才であり、わかりやすさ(大衆性)も兼ねていたモーツァルトの時代にはそのような逸話は残っていないわけである。そこには第四章のタイトルにもなっているとおり、「失神したがる女性たち」というイメージがはめこまれる。貴族の選民的価値観へのあこがれがあったブルジョワ層は、歴史と精神性に欠けるぶん、「もの」への依存が強かったのだという。そして、それがヴィルトゥオーソを誕生させた。音楽というのは、時間の表現のことである。ひとつの音は、その前に鳴っていた音をひきずっているし、そのあとに鳴る音を予感的に含んでいる。そうでなければわたしたちは通して音楽を聴くということができない。それだけではなく、たとえばそこには文学的意味があるかもしれないし、詩的なテーマが隠れているかもしれない。「これから鳴るにちがいない音(鳴るべきである音)」という「当為の音」を予感的に含んでいるといっても、その予感が生きるのは聴き手がそれだけの教養をもっているときだけである。音楽が真に深みを帯びるのは、そのように聴き手が聴き手の役目を果たしたときなのである。しかし、「超絶技巧」は、見ればわかる。音の粒の量やありえない指運びは、数字で計測することができるからである。それは、時代が要請した音楽家のありようだったのである。そうして、音楽は「もの」として、受動的に、官能的に聴かれるようになる。音楽がもし知的で選民的な文化のままであったとしたら、このような現象は起こりえない。


このように、リストという音楽家の真実を書こうとすると、国家や社会のレベルにまではなしを引き上げていかなければならない。たぶん、もともと、文学でもそうだが、批評というのはそういうものだったんだろうとおもう。作品個物をとって評価が可能であると考えるスタイルは(うちのブログもどちらかというとそうなんだけど)、評価において絶対というものはありえない、というポストモダン的前提がまずなければならない。もし絶対的評価というものが「ある」のだとすると、ある作品に対して、それを説明する究極の文章というものが想定可能だということになるが、となると、「わたし」がいま発信した評価が、その究極のものであると自負しないかぎりで、それは意味を失ってしまう。それが意味を保てるのは、絶対が「ない」と約束されたときだけである。しかし、そのように開き直ることで見落としてしまうものも数多いにちがいない。何者のものでもない透明の文体を目指しても、それが書かれた背景や、その理論に至る思考の道程はトレースできる。そして、音楽が日常の言語でない人間にとって、「もの」的な、技巧的なものを除けば、リストを作品単体で評価するなどということは無謀なはなしなのである。








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