『ジャコ最後の真実』 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ジャコ最後の真実/ブライアン・メルヴィン (Brian Melvin’’s REFLECTIO.../ALTUS
¥5,460
Amazon.co.jp




ジャコ・パストリアスの初ドキュメンタリー作品。原題は「Brian Melvin’s Reflections on music and friendship with Jaco Pastorius」。といっても、ジャコの最晩年の行動をたまたま追っていた映像を集めたとか、そういうものではない。精神的にも身体的にも不安定だった84年あたりから、ナイトフードというグループでの活動はじめ、公私ともに親しく交わってきたブライアン・メルヴィンというドラマーによる語りと、サンフランシスコでの未発表ライブ映像を交互に流した、どちらかというとこじんまりした作品である。



僕では手に入れたのはつい最近になるが、ジャコ入りのナイトフード名義2作目にあたる作品にはジョー・ザビヌルの「マーシー、マーシー、マーシー」という曲が入っている。ザビヌルはウェザーリポートというスーパーバンドのキーボード奏者であり、ジャコ、そしてピーター・アースキンを擁した時期のウェザーは黄金期と呼ばれ、僕としてもあらゆるミュージシャンの活動と比較してもあれ以上のものはちょっと考えられないというようにおもえる、奇跡的なグループだった。それはかんけいないが、ともかく僕はこの「マーシー・・・」という曲が大好きで、オリジナルというか初演はキャノンボール・アダレイのグループにザビヌルがいたときのあれだとおもうのだが、ともかくあの音楽にはきっとジャコの音色がぴったりくるにちがいないというおもいがあり、この作品の存在を知ったときはうれしかったし、ずいぶん長いあいだ探していた。アレンジとしては僕の想像していたものとはまるでちがっていたのだけど、作品そのものはなかなか味があり、ジャコにおいても全盛期の鋭利さには欠けるとしてもなにかリラックスした、心の底から音楽を楽しんでいる感じがあって、アルバム全体として一個の世界を築いた、どことなくドメスティックな、ローカルな雰囲気のある秀作になっていた。




Nightfood/Brian Melvin
¥1,657
Amazon.co.jp





そうしたアルバムの雰囲気、また精神病院に収容されたジャコの保証人になって身元を引き受けたというエピソードもあって、ブライアン・メルヴィンというひとはジャコより年上なのかとおもっていたが、ずっと年下だったらしい。ジャコのような起伏に富んだ音楽家人生というわけではない、こういってはなにだが、ごく当たり前のドラマーだったメルヴィンが、ナイトフードの作品をつくるにあたりジャコと共演する機会に恵まれる(ちなみに「ナイトフード」という名称は、メルヴィンとジャコの会話のなかで自然に決まったもののようである)。すでにウェザーやジョニ・ミッチェル、またじしんのリーダー作などを通して神のようなあつかいにあったジャコである、メルヴィンやバンドメンバーの興奮した様子、また互いに敬意を払って録音や演奏を続けた様子がひしひしと伝わってくる。

ジャコの病院収容にかんしては、『ジャコ・パストリアスの肖像』を見るかぎり、かなり多くのひとが「これでいい」と考えていたようである。けれども、メルヴィンは「これはいかん」と考えた。いったいなにが正しかったのか、それはわからないのだが、正直いってメルヴィンの容姿や英語にはなにか「軽さ」のようなものがあり、DVDを見始めた当初は、あまり好感がもてなかった。しかし、その表情や口調を見るうち、このひとのジャコへのおもいは、ミュージシャンとか、あるいはミュージシャンとしてジャコを尊敬するとか、そういうのを抜きに、愛情だったのだろうとおもえてきた。たんに「情報」ということでいえば、ジャコファンであるならよく知っている経緯ばかりがここでは語られている。だけれども、たとえばナイトフードのピアニストであるジョン・デイヴィスが、ジャコに「3番目に好きなピアニストだ」といわれたとはなすときの(ちなみに1番と2番はジョー・ザビヌルとハービー・ハンコックだったそうである)恥ずかしそうな、そしてうれしそうな顔が、ジャコのかけらを見たようにおもえて、うれしいのである。ジャコ・パストリアスにお世辞でもそんなこといわれたら、もうほかの嫌な評価なんかどうでもよくなるだろう。


本作には未発表ライブ映像がおさめられているという触れ込みなのだが、いちおう書いておくと、これは白黒映像である。そして、あくまでドキュメンタリー作品ということなのか、メルヴィンの語りのあいまあいまに挿入されるように、断片的にジャコの演奏がうつされるという仕様である。ライブ会場は同じようだが、服がちがうので、あるいは二晩ぶんの演奏を集めたものかもしれない。曲によってはかなりの長さのものもあるが、ほとんどがくりかえすように演奏のかけらといったところである。きちんと編集されることを想定した撮影ではなくて、もしかすると素人かクラブのスタッフが撮影したものを寄せ集めたとかそんなところなのかもしれない。とはいえ、映像としてはかなり粗いものであるのに、不思議とジャコの表情や手の動きはよく撮れている。ライブ作品を見ようとしてかまえるとちょっと驚いてしまうかもしれないが、たぶんある面で作品としての効果を狙っているともおもえるので、これはこれでいいのかなという気もする。どうあれ、ジャコがぽこーんとベースを鳴らすだけでぞくぞくしてしまうようなファンにはこれでもじゅうぶんだろう。とりわけ最後に収録されている演奏がすごい。ティーンタウンからサードストーン・フロム・ザ・サンのいつもの流れで、すさまじい速さでドラムスとパーカッションが大騒ぎしているなか、ここでは「Bass Intro.」というタイトルになっている、ふだんスローテンポで弾いている曲をジャコがおもいついたように弾くところは鳥肌ものである。


ジャコが亡くなってもう26年にもなる。僕が物心ついたころ、すでにジャコは他界して、伝説となっていたわけだが、そういう年齢の時差はおいたとしても、死者というのは一種の権威になる。生きている人間の評価だとか、達成だとか、幸福だとかは、ある意味で保留されている。けれども死者は、保留されないという意味合いにおいて、権威性を帯び、硬化する。ジャコは音楽家だったから、いまでも彼の生きた音楽をわたしたちは聴くことができるが、それであるからなおさら、わたしたちは、保留されることなく一定の枠組みのなかに回収されてしまう(かのようにおもえる)ジャコのイメージに、おそらく悲しみを覚えてしまうのである。だから、その片鱗でも感じられるなら、わたしたちは必ずそれに食いつくし、未発表ともなれば、どれだけ質が悪くても、手にしてしまうのである。CDやDVDを買うという行為にはもちろん所有欲が働いている。お芝居なんかで顕著だが、その瞬間、その場所でしか味わえないなんらかのものの、記憶なりにおいなりを擬似的に所有するために、わたしたちはたとえば観光地の記念品だとかお土産だとかを購入する。京都に出かけて清水寺に感動して、それを反復したいと欲望しても清水寺を所有するわけにはいかないから、それのミニチュアだとかガイドだとかを記念にもちかえることになる。音楽においても同様の代替心理が働いているとおもうのだけど、しかしお芝居同様、音楽というのも一回的なものである。ふつう「お芝居」というと、DVDを見ることではなく、劇場に足を運んでじっさいに目撃することを指すが、この形容の価値そのものは、恣意的なものである。映画にも同様のことがいえて、多くの映画人は、映画は映画館で見ろというし、僕もそうおもう。だが、現実として、僕が「映画を見る」というとき、僕は借りたり買ったりしたDVDを見ることをいっているのである。いま「音楽を聴く」というとき、果たしてひとはどちらを指すのか、一回的な体験を「一回的なものである」という確信のもと、ライブ会場で体感することを指すのか、それらを録音し、固形としてパッケージしたものを聴くことを指すのか、いまでは後者がふつうだろうとおもうけれど、くりかえすようにそれは恣意的な意味価値である。なにがいいたいかというと、パッケージされ、お芝居や映画館では座る位置やなんかでも微妙に変化していく一回的な体験が損なわれても、原理的にはそれは、そこにしかありえなかった、そのマイクと機材とスタッフと空調と会場でしか録音できなかったもののはずなのである。それをわたしたちのほうでもまた、それぞれの姿勢、それぞれの聴き方で受け止める。一回性にも、複製技術が発達し、なにごとにもメディアが介在する現在では、「こちら側」と「あちら側」があるのである。こういう物言いはいくらなんでも単純すぎて、つきつめれば「もののあはれ」にいってしまいそうで、けっきょくのところ屁理屈じゃないかともおもえそうだが、しかしそういう理屈をつけなければ、わたしたちがなぜ、それまでまったく知らなかったミュージシャンのジャコ語りや、ジャコの粗い映像にこころ動かされるのかの説明ができない。語りのうまさだとかジャコとの距離の近さ(ことばのリアリティ)、あるいはジャコじたいの演奏の質や録音レベル、そういう、いわば「程度」では語ることのできないものを感取しなければ、この作品を受け止めるファンという構図は成立しないはずである。わたしたちは、つねに「もう一度」ジャコを欲望している。「ジャコ」を保留し、「あちら側」の更新可能性を残したいというふうに願っているのである。しかしそれはかなわない。程度を顧慮しない所有で、わたしたちはこうした幻の可能性にすがり、死者の硬化を回避しようとしているのだろう。眠らせまいとしているのである。


つまらない理屈をつけてしまったが、くりかえすようにわたしたちはいまでもほんとうは、音楽のなかでジャコに会うことができるし、またそれは、新しい発見などを通していまも生きていることを告げてくる。それはたぶん、パッケージの「こちら側」における一回性のあらわれなんだろう。ジャコにはその向こうで安らかに眠っていてほしいが、ファンとしては、あるいは隠れた名演がどこかにあるのではないかとも無責任に考えてしまう。なにが正しいかはわからないが、それが正直なところである。





ジャコ・パストリアスの肖像/リットーミュージック
¥2,100
Amazon.co.jp



ジャコ・パストリアスの肖像+2/エピックレコードジャパン
¥1,995
Amazon.co.jp

マーシー・マーシー・マーシー/キャノンボール・アダレイ
¥999
Amazon.co.jp