『そうか、もう君はいないのか』城山三郎 | すっぴんマスター

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■『そうか、もう君はいないのか』城山三郎 新潮文庫



そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)/新潮社
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「彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる――。気骨ある男たちを主人公に、数多くの経済小説、歴史小説を生みだしてきた作家が、最後に書き綴っていたのは、亡き妻とのふかい絆の記録だった。終戦から間もない若き日の出会い、大学講師をしながら作家を志す夫とそれを見守る妻がともに家庭を築く日々、そして病による別れ…。没後に発見された感動、感涙の手記」裏表紙より







とにかくタイトルが秀逸。


本作は何年か前に田村正和主演でドラマ化されたことがある。僕は見なかったのだけど、番組の宣伝だったか、あるいはその場面だけを見たのだったか、なにか書いている田村正和が誰もいない背後に向けてうっかり呼びかけてしまい、うつろな表情でこのタイトルを響かせるのである。それだけで、なにか、その人物が相手に抱えていたものの大きさが伝わってきたし、僕は呼吸が苦しくなってしまった。じっさい、人生の伴侶を先に亡くしてひとり残され、それでも生きていかなければならないとなったとき、この感情以外なにが浮かんでくるだろう。


というわけで、ずっと読みたかった本だった。城山三郎というのもたいへん著名な作家だが、新旧問わず直木賞系の作家というのに疎くて、僕はぜんぜん読んだことがなかった。『落日燃ゆ』とか『硫黄島に死す』とかを書いた、国民的な大作家である。基本的には経済小説、歴史小説を書いていたひとだが、裏表紙によれば「気骨ある男たち」を描いてきたということである。といってもデビューが文学界新人賞だし、若いころ書いた作品は、大江・開高のブームに押されて候補にはならなかったが、編集者が芥川賞まちがいなしと太鼓判を(一時は)おしたようなもので、直木賞系だとか芥川賞系だとか、つまり大衆小説か文学か、などといったちがいは、少なくとも読み手にとってはあんまり意味がないだろう。



作家としての城山三郎については、そういう乾いた情報しかないのでこれ以上はわからないが、ともあれ、タフに時代を生き抜いた男たちを活写してきた、タフな男というイメージでまちがいないだろう。昭和期の作家というのは、現代よりずっと、作品の内容と作家のイメージが一致しているという印象もあって、そういう時代性みたいなものもあったのかもしれない。

そんな城山三郎が、亡き妻を描いた、ごく短い作品である。原稿は整理されないまま作者もまた亡くなってしまい、それを作者の次女が集め、編集者が整理するというかたちになった。奥さんの名前は「容子」といって、原稿にはロシア語で「ヨウ」と発音する記号が暗号のように記されていたという。だから、じつは本稿は作者の管理のもとに整序されているものではない。唐突に詩が出てきたり、なるほど、メモ書きの集積なのかもしれないなと、いかにもおもわせるぶぶんもないではない。けれども、僕は、これでこそが、亡き妻をおもう作家の書き方そのものではないか、ともおもう。人生の支えであった愛する妻を失い、そしてその妻を描こうとなったとき、果たしてそこに「一貫性」とか「物語の骨組み」とかを見出し、構築できるものだろうか。むりやり吐き出したような断片的な記憶、イメージが秩序なくちらばっている、そういう構成のほうが、むしろ書き手の心象に近いのではないだろうか。



タイトルから想像されるほど、中途までの作者と妻の関係というのは、いわゆるべたべたではない。もちろん年代もあるだろう。たとえば、奥さんは城山三郎の書いたものをぜんぜん読まない。海外旅行にいっても、城山三郎は勉強も兼ねて旧跡めぐり、奥さんは買い物、という具合に、おのおの好き勝手やってるだけで、いわゆる意味での、メディアがテレビなどを通じて喧伝し刷り込むところの「おしどり夫婦」の姿ではない。けれども、それが真実の愛にもとづいたものであることは、読んでいればわかることである。おそらく、城山三郎では、このひとじしんのタフなセルフ・イメージというものもあるだろう。しかしむしろ、そのことで逆に、制御しきれずににじみ出てくる妻への愛情と、それを失ったあとの悲しげな横顔は胸をうつ。本作には、作者の次女が編集するにあたって記した「父が遺してくれたもの」という充実した文章も収録されていて、これが本編のタネあかしというか、裏側にあたっている。母の死を受け入れようとせず、みるみる衰弱していく父。本編が、タフな作家、「城山三郎」として、ぎりぎりのところで技術的に書かれたものであるということがよくわかる内容であり、これもまた感動的である。


愛する伴侶を失うという経験は、いつか必ずやってくる。伴侶でなくても、ひとは親を失うし、親友を失うし、不幸にも先に子どもを失ってしまうことさえあるかもしれない。その痛みを知る周囲の人間達は、それをどうにかなぐさめようとするけれども、ひとを失う悲しみがそれほどまでに痛いのは、それが「かわってあげることのできないもの」だからである。痛みの受け手としてもそうだし、その愛を注いでいた対象になりかわることもできない。つまりその「関係」が、とりかえのきかないものなのである。死だけが、ひとの生というものをそれ固有のものとさせる。交換のできないものなのであるということを知らせるのだ。僕も30近くなってそういうことを考えるようになった・・・というようなはなしではないけれども、しかし、いまこうして頼り、頼られている大きな存在が失われるとき、いったいひとというものはどうやってそれを乗り越えるのだろうという、解きがたい疑問は以前からある。乗り越えているひとはたくさんいる。そうでなければ、連鎖的に人類は一夜にして滅亡してしまう。だけど、その心理の過程がまったくトレースできないのである。

しかし、城山三郎に看取られて母は幸せだったろうと次女の井上紀子さんは書く。城山三郎もまた「看取ることができて幸せだった」とつぶやく。もちろん、その後の喪失感というものはすさまじく、そうして7年、城山三郎は息も絶え絶えに生きてきたわけだが、しかし死の瞬間の幸福感というものは、むしろ、その存在がかけがえのないものであるということが示されているからこそなのかもしれない。わたしの「死」は、わたしにしか体現できない。ほかの誰かにかわってもらうことができない。そしてその死を看取ることも、その人物を大切にし、交換できないと感じているものほど、かけがえのないものとして体験するのかもしれない。




落日燃ゆ (新潮文庫)/新潮社
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