■『ビッグ・ドライバー』スティーヴン・キング著/高橋恭美子、風間賢二訳 文春文庫
- ビッグ・ドライバー (文春文庫)/文藝春秋
- ¥760
- Amazon.co.jp
「小さな町での講演会に出た帰り、テスは山道で暴漢に拉致された。暴行の末に殺害されかかるも、何とか生還を果たしたテスは、この傷を癒すには復讐しかないと決意し…表題作と、夫が殺人鬼であったと知った女の恐怖の日々を濃密に描く「素晴らしき結婚生活」を収録。圧倒的筆力で容赦ない恐怖を描き切った最新作品集」Amazon商品説明より
キングの第3中篇集『Full Dark,No Stars』の4作品のうち「Big Driver」「A Good Marriage」を翻訳したもの。残りの2つはすでに『1922』としておなじ文春文庫から出ている。
『1922』にかんしては、そこそこ長めの記事
を書いているので、ぜひそちらも読んでいただきたい。
邦題はほとんどそのまま「ビッグ・ドライバー」「素晴らしき結婚生活」。『1922』と異なり、こちらはどちらも女性が主人公となっている。
本作品集のテーマとしては「harsh」という形容詞が、キングじしんによってつかわれていた。冷酷な、不快でどぎつい、などという意味のようだが、これはこれで、少し奇妙ではあった。というのは、キングというひとは、いちいちことわらずとも、ごく表面的なレベルで、これまでずっと不快でどぎつい物語を書き続けてきたからである。となれば、作家がこの「harsh」ということばに託しているものはこれまでとはまたべつのものということになる。いったい、その不快性とはなんであるか。
本書にはキングじしんによるあとがきも掲載されていて、この4作が書かせしめた具体的な源について触れられているが、そういうのとはべつに、なにかにひどく腹をたてているような感じがある。作家としての使命感を帯びて、ほとんど挑戦的に執筆を開始したような、そんな印象を受ける。いったいなににそんなに感情的になっているのか、固有名詞がよくわからないのでなんともいえないのだが(というか、キングはいつもあとがきでちょっと感情的になっているイメージもある)、ともかく、なにか作家として無視できないなにごとかがキングの内側で起こり、駆り立てられるように執筆されたように見える。そして、そこで完成したものの姿が「harsh」であるということのようだ。
ではキングは今回なにを意識して書いたのかというと、どうやら「真実」ということのようである。もちろん、「真実」はときと場合によって姿をかえるし、それをくちにする人物によっても意味が異なる。だが、小説においては、少なくとも作家のなかでそれが真実であるならば「申し分なし」。そのようにキングはいう。
その「真実」と物語の不快さはどのように関連するのか。「真実」を書こうとしたらすべて不快な物語になったのか、それとも、「真実」は不快なものなのであるとして、そうした物語を書こうとしたのか、これだけではよくわからないが、しかしキングの口ぶりからするとこれは、作家としての哲学のようなものであるので、だから彼はつねに「真実」を書こうとしてきたはずで、おそらく本作は、それが当為のものではないという文脈において、ちょうどお手本を示そうとするように、手法を意識する順序で書かれたものなのではないだろうか。キングは以下のように断言する。
「私は純文学にいちゃもんをつけたりしない。純文学はたいてい普通の状況下における異様な人々に関心があるが、読者としてかつ書き手として、私がより興味を持っているのは、異様な状況下における普通の人々を語ることである。私は読者に感情を、本能的でさえある反応を引き起こしたいのだ」354頁
シンプルな図式だが、キングの書く物語のほとんどすべてを表現した、自己批評だとおもう。『1922』の感想のときにも書いたが、キング作品における、なにか悪意だとか、あるいは具体的な怪物だとかは、すべて不如意の他者の顕現だ。少なくとも、こうして感想を一定の温度の文章で書こうとするとき、僕はそのイメージを用いる。そんなものはもちろん、本書を楽しむうえでは必要ない。だから、批評というのは二次創作なのである。
ともあれ、キングのいう「異様な」というのは、たぶん、「他者的な」という形容に読み換えることができるとおもう。純文学では、他者的な人々、要するに、わたしたちがふだん感じ取るレベルでの「他者」そのままが描かれるが、キングではそれは、「他者的な」状況下における「私」というふうに入れ替わる。重点は「他者」のほうにあるのではない。そのような事物に触れたときの「私」のほうにあるのである。それであるから、「わたし」に感情移入する読者は、「本能的でさえある反応を引き起こす」のである。たぶん、純文学、とりわけ現代文学における異様な人々、つまり「他者」は、構造として描かれる。そうした異物に触れたとき、わたしたちの内部でなにが起こるか、ということではなく、他者とはいったいなにを意味するのか、なにとの関係性において他者は他者たるのか、というようなことが、システムを浮かび上がらせるような仕掛けで展開されていく。大雑把にいって、たぶんそういうことだろう。
しかしキングではそうではない。「他者」は、「わたし」の感覚作用を通してしか「他者」としてあらわれてこない、たぶんそういう直感があるのである。これは、ひとつ前の宝塚の記事でも書いたが、フロイトの考えた他者構築の過程そのままである。フロイトの仮説では、乳児は、母親のお乳が上手く手に入らないときにはじめて、大洋的に溶け合ってきたエデンの園的世界を大きく二分する。ひとは、不快を通じて、思い通りにならないものを自我の外に追い出し、客体を築き上げる。「他者」というものは、成り立ちからして、「わたし」の不快を背骨にしているのだ。
「異様な状況下」にいる「わたし」は、必然的に「不快」を覚えることになる。そしてそのような不快が立ちあらわれてきたとき、はじめて「他者」が出現してくる。「他者」を描こうとして「異様な状況」を設定しているのではない。順序は逆だったのだ。
ともかく、キングには、作家として書かなければならない「真実」というものがある。キングは知っているのである。ことばとして、理性として、事後的に知覚される「他者」ではなく、「わたし」たちじしんが、じぶんたちの快感原則にしたがった世界から追い出すしかたで出現させた「他者」こそが真実の他者であり、またそのような不如意の、不快の連続こそが世界であるということを。といっても、キングはそこから、なにか教訓めいた箴言を導こうとしているわけではない。キングが描くものはおそらく、「他者」でも、それを宿し、またそれによって駆動される世界でもない。それに直面した「わたし」、つまり読者なのである。「真実」は、おそらくそのように虚構の経験を通して、わたしたちの目前に迫ってくるのだ。
前作の「1922」では、それなりの大義名分を立てながらも、結果的には「思い通りにしよう」とした男が、いっさい「思い通り」にいかなくなるというおはなしだった。つまり、またつまらない図式的な物言いになってしまうが、「他者」を塗りつぶし、征服しようとしたものが、むしろそのことによって、「他者」によって塗りつぶされてしまったのだった。身から出た錆、自業自得、なんでもいいが、このようなキングの作品哲学を考えてみると、これは自然なことなのかもしれない。「思い通りにいかない」から「他者」なのであって、それを規定するものは「わたし」であり、つまり「他者」というのは、「わたし」の感覚の外側、裏返しなのである。
本作では、「1922」や「公正な取引」とは異なり、「他者」に蹂躙されるものの物語だ。とりわけ「ビッグ・ドライバー」の陰惨さは目を覆いたくなるほどだ。アメリカの田舎町やカリフォルニアのハイウェイには、たぶん「テキサスチェーンソー」やスピルバーグの「激突!」、カート・ラッセルの「ブレーキダウン」みたいな映画のせいもあるかもしれないが、どことなく反知性的な、無法地帯のようなイメージがある。そんな大胆な犯罪が、この文明社会、しかも超大国のアメリカで・・・?というような事件が、(映画では)起こるのである。会話の成り立たない、交渉のできない圧倒的他者。こういってはなにだが、そういうものの背景にぴったりなのである。長々と書いたことと矛盾するが、この「他者」は、たいへんな存在感である。しかも、それは「わたし」によって現出するというようなものではなく、“暴かれる”ものである。主人公・テスは、「ビッグ・ドライバー」に蹂躙され、さらに、じぶん以外にも同じ目にあっていた女性がいたことを同時に知る。この構図は、じつは「素晴らしき結婚生活」でも同様である。これは「BTK殺人鬼」という実在の殺人犯をモデルにしているらしく、幸福な家庭の陰で夫が何人ものひとを殺していたことを、27年連れ添った妻がそのとき初めて知る、というおはなしである。これもまた、「すでにそれ以前から存在していた他者」を暴き、また、ネタバレになるが、それに罰をくだす物語である。構図としてはそうなのだが、これはたぶん、「1922」などとの比較で考えると、そうした「異様な状況」というものの変奏なのではないかとおもう。「不快」も一通りではないのである。そういう他者のあらわれかたもある。そしてそれは、主人公のなかに一種の目覚めを呼び込む。地理的にいえばごく狭い箇所ではあるが、世界のあるぶぶん、暗闇に包まれて、ほとんど意識することさえなかった陰部、そこが、内臓のような臭気を放つ、生々しく受け入れがたい場所であったと「気付く」のだ。そういう意味では、この「他者」はそれ以前から「わたし」の内に含まれていたものであり、「わたし」のあるぶぶんが変異することで浮かび上がってくるのであって、それがある種の責任感をもたらし、彼女たちを駆り立てるのである。そうして、「異様な状況下」で、彼女たちは、これまで見えてこなかった「真実」に直面するわけである。もちろん、キングは、たとえばあなたの夫もそうかもしれませんよとかそんなことをいいたいのではない。他者は、すでにわたしのなかに組み込まれている。不快が、これを浮き彫りにし、そこから弾き出す。これは普遍的な真実なのではなく、「わたし」のなかの、つまり読者のなかの「真実」なのである。
- 1922 (文春文庫)/文藝春秋
- ¥720
- Amazon.co.jp