■『飛魂』多和田葉子 講談社文芸文庫
- 飛魂 (講談社文芸文庫)/講談社
- ¥1,470
- Amazon.co.jp
「ある朝突然やってくる虎、一生現れないかもしれない虎。古より虎を待ち続ける人は数多く、その道を究めたいと願う。若い女たちは女虎使い・亀鏡の弟子となるため家を捨て森の奥深くにある奇宿学校へと向かうのであった。そしてわたし梨水も入門の承諾を得る手紙を送り…。表題作に「盗み読み」「胞子」「裸足の拝観者」「光とゼラチンのライプチッヒ」の短篇を加えた作品集」Amazon内容説明より
これはたいへんな傑作だった。多和田葉子を読んだときはいつもそうおもっている気もするけど、それにしてもすばらしかった。
いったいこの小説についてなにを書けばいいというのか・・・。最近、読んだすべての本についてなにかしら書く、という習慣について疑問が浮かんでいるところだったので、本書をその、読んでなにも書かない久しぶりの一冊にしようかともおもったが、これだけの小説を紹介、ないし考察しないでなにが書評ブログだろう、ともおもうのである。
という、以上のような態度でお茶をにごし、高橋源一郎について書くときと同様、「なにを書いても小説をぶち壊してしまうような気がする」として、その「なにを書けばいいかわからない」という態度に熱をひそませ、読んだかたに察してもらおうともおもったのだが、まあ、せっかくなので、ここは続きを書いてみよう。
体裁としては作品集だが、そのだいぶぶんを「飛魂」が占めている。
その「飛魂」にも、おおまかな、一般的にいわれる意味でのストーリーはある。語り手は「梨水」という女性である。森の奥には「亀鏡」という虎使いが住んでいる。といっても、虎を調教して思い通りに動かす、ということではない。ではどういうことかといわれても、よくわからない。多くの女性が、この亀鏡のもとに集い、全360巻にもなる、理解するばかりか読み通すことすら難しい「書」を学んでいる。書や亀鏡に対しては、梨水をはじめとして子妹それぞれに哲学があり、虎を求めてぶつかりあう。だいたい、ストーリーというか、物語の起伏としては、そういうところである。
さてこの「梨水」や「亀鏡」だが、これは作中でいっさい読みが示されない。その他、「指姫」だとか「粧娘」だとか「煙花」だとか「朝鈴」だとか、ルビはまったくなしに、次々と人物が登場する。これらの名前について、「著者から読者へ」によれば、作者としても読み方を決めていないそうである。表意文字としての、いってみれば図像としての漢字が遊ぶままに物語を生成し、いや、というより、漢字が物語を生成するのに任せ、作者としてもそれを楽しんでいるのである。
解説は沼野充義が担当しているのだが、そこで、丸谷才一が鮮やかに提示した芸術派(村上春樹)、私小説(大江健三郎)、プロレタリア文学(井上ひさし)という日本文学の見取り図に、多和田葉子を筆頭にした「言語派」を加えてもいいのではないかと書いている。言葉が、道具ではなく、それじたいで目的になっているような小説。
物語の舞台は、どことなく中国っぽいというのがたぶん最初の感想にあがってくるとおもうが、しかし固有名詞やそれを示唆するような事物はまったく出てこないので、たぶん、みっちりと凝集した漢字がもたらす文面の肌触りがそうおもわせているだけではないかともおもえる。段落はもちろんあるが、見た限り、章をまたいだり、一行空白をつくって時間の経過を示したりということも(ほとんど?)ない。文字が文字を生んでいる。そういう印象なのである。
しかし、たとえば、解説では、「亀鏡」と「梨水」を、100パーセントたしかではないとしつつも、「ききょう」「りすい」と推定できる、というふうに書いているが、僕は、どうしてそうなるのかわからないが、ずっと、疑いもせず「かめかがみ」「なしみず」と訓読みしていたのである。ここから、読者の精神分析を開始することは可能かもしれないが、いずれにしても、登場人物の名前からして、読み方はたやすく分岐してしまう。しかも、漢字のイメージと戯れるような小説で、この脳内で響く読み方というのは、書かれてあるいわゆる「設定」と同程度に、その人物のイメージを決定しないだろうか。たぶんそれは、音読を旨とした梨水の思想に近いところなのかもしれないが、ともかく、二文字の漢字ひとつをとっても、読者によってそこに感じられる肌触りだとか響きはかわってくる。にもかかわらず、物語は生成されていく。少なくとも、生成されているように、読者にはおもえる。ここでは、文字は、わたしたちじしんをうつす鏡とか、あるいは作者の訴えたいことの表象だとか、そういう、なにかの「かわり」ではないのである。そうでなければ、どちらとも、あるいはなんとでも読める、つまり範囲内でどのようにでもイメージ可能な内容を孕んだ文字がかってに生成されていく、という感覚を覚えるはずはないのである。ことば・・・というよりやはり「文字」それじたい、そのものが、作中では原理主義と自由な音読派にわかれるが、物語を生成し、制御しているのである。だからこそ、作者もまたそれを楽しめるのではないだろうか。
「飛魂」は以下の文章からはじまる。
「ある日、目を覚ますと、君の枕元には虎が一頭、立っているだろう」
この「君」とは、いったい誰のことだろう。しばらくこの調子で語られ、語り手が梨水であることがわかったあと、この文体はもう戻ってこない。最初の数行だけなのだが、ちょうど梨水の名前があらわれるのと同時に、「君」にむけた文章は消えてなくなる。次の段落にはこうある。
「または、虎は君のところへは一生来ないかもしれない」
くるときはくるし、こないときはこない。論理や科学で統御できないもの、それが虎である。
にもかかわらず、多くのひとはそれを求める。「君」は求める。そしてたぶん、そのなかから、「梨水」が抽出されて、小説ははやくも次の段階にすすむことになる。
亀鏡の弟子、ここでは子妹たちは、どういう形態で行われているものかはっきりとしたことはわからないが、書について亀鏡の授業を受けている。そうした学びの過程で、各自独特のスタイルが生まれてくる。なかでも音読とそこから生じてくる一種の歪みに価値を見出す梨水の読みは異端であり、思い込みも含めて彼女は「学弱者」として自己を規定することにもなる。虎を求めることと、虎使いである亀鏡のもとで、なにが書かれているのかよくわからない浩瀚の書を読みふけることがどうつながるのかはよくわからない。たぶん、誰も説明できない。なぜなら、書はあまりにも長大であり、あまりにも難解であるからである。「どういうことが書かれているのか」説明できるものは存在しないし、特定の箇所について「それがなにを意味するのか」断言できるものも原理的に存在しない。それはちょうど、この宇宙について宗教的なことばで語ることとよく似ている。あるいは、科学のことばが、「この世界がどこかの人間のプレイしているゲーム内のものではない」と誰も断言できないという次元で、究極的には宗教的なものに近づいていくかもしれないこととよく似ている。書をロゴス的な認識で覆いつくすことは誰にもできない。つまり、どれだけ虎を求めても、それを求めるがままに召還することはできないということなのである。それだから、「虎使い」は超越者なのであり、その亀鏡が頂点に立つところの学舎での生活が、どことなく宗教の修行に似ているのであり、亀鏡への愛憎もどことなく信仰に近いものがあるのである。
そういうなかで、書を学んでいくという行為は、たぶん多くのものに徒労感をもたらす。なぜなら、どれだけ真剣に、注意深く読んでも、なんの結果も得られないという可能性もあるからである。これはじっさい、文学や哲学にとりくむ人々の感覚にかなり近いだろう。どんな優れた文学者や哲学者でも、他者や真理に漸近はできても一致することはないとじつははっきり気づいているし、なにをどうしようとなんの意味もないことを悟っている。
とはいえ、うえで書いたように、「虎」はべつに真理や他者のことをいっているのではない。虎は「虎」である。といっても、わたしたちが図鑑やテレビや動物園で見るあの巨大なネコでもない。ある場面で、梨水は「虎」という文字の「字霊」と関係をもつ。「虎」という文字が、そのまま、物理的に動いて、下部の二本の管を用いて、梨水の身体にまとわりつくのである。しかしこれにしても、高さ170センチの「虎」という立体が動いていると、そういうふうには不思議と見えない。というか、物理的に存在しているかのような描写でありながら、そこにはなぜか「視覚」のようなものがほとんど感じられない。
ともかく、そうした「遠い」虎への道のりとしての書、これをめぐるスタイルにかんして、梨水は「音読」を好む。やがて梨水は、音読を通じ、一種の創作のようなことまでするようになる。自存する「文字」が、梨水に憑依して、べつのものになっていくのである。結末に近づくにつれ、小説はかなり(一般的な基準に照らして)乱れていく。収録されているほかの短編にもいえたことだが、ほとんど狂っていくといってもいい。しかしその変化の原因を、たぶん物語、とりわけプロットという側面でとらえてはならないのだ。物語のこれこれこういう事件からこうなったというふうに、因果関係でこれを説明することに、たぶんほとんど意味はないのではないか。物語の構造とか骨組みとか仕組みとかいうものは、小説家が創作をするときに想定するものであっても、批評家が作家や社会やことばの無意識からすくうものであっても、あるいはそれらすべてを内包したなんらかの秩序にあると予言されたものであったとしても、語られるものとはべつの次元の、たとえば鳥瞰が必要になってくる。批評家は、必ず作品が書かれたあとに、作品が呈示されきったあとに構造を分析するし、作家は、これから書かれる作品の手綱を握るものとして骨組みを定める。どの立場であっても、骨組みを定めるものは、物語を把持しているのである。しかし「虎」は、そのような、計量可能は、そこまでの距離を測定し、かかる時間をあらかじめいいあてられるようなものではない。それが可能であるならば、おそらくひとは「虎」を求めない。
おそらく、僕の見落としも含めて、文体は少しずつ変化をしていたはずである。「虎」に到達するためには、一種の飛躍、あるいは霊感が必要になってくる。膨大な、読みつくすことのできない「世界」を、噛み砕いて手に入れ、一体化してしまうようなちから。「虎」の正体は、わたしたちにはよくわからないし、たぶん子妹たちや、もしかすると亀鏡にもよくわかっていないのではないか。それはこういうものだよと、ひとくくりに説明できるものがいない、そういうものなのである。それなのだから、じつは亀鏡が真の「虎使い」であるということを証明するものはなにもない。音読に対しての亀鏡の考えは、どこかに書いていた気もするが、よくわからない。しかし、おそらく、重要なのは解答ではなく、そこにいたる道のりなのではないか、ということはいえるとおもう。梨水の学びがどこに至るのか、またそれが正しいのかどうか、誰にもわからないが、おそらく、そうすることでしか、ひとは虎を求め続けることができないのである。