第294話/洗脳くん22
自責の念から逃亡したまゆみを、家族が総出で捜索する。
というふうに書くとふつうのことのようだが、そうではない。中心には神堂大道という男があり、彼らに命令して、犬でも探すようにまゆみを追う。
まゆみは死ぬ気であるようだから、本来は警察の出番かもしれない。しかし、そもそもまゆみがそこまで追い詰められているのは、大麻吸引や死体処理などの違法行為をじぶんがしてしまった、そしてそのことで家族に迷惑をかける、という罪の意識からだった。すでに迷惑をかけている、それはもう消えることがない、だから、まゆみの意識としては、迷惑をかけたという責任感というより、今後、これ以上の迷惑をかけないように、というものなのだ。まゆみの意識では、行為は主体と切り離すことのできる恣意的なものではなくなっている。彼女のふるまい、そしてそれがもたらすものは、彼女の存在そのものの性格によったものになっているのである。悪の行為をなしてしまった、ではなく、彼女の存在じたいが悪だから、行為も悪であると、そのように、彼女は彼女自身を理解しているのである。そうでなければ、逃走・自殺という、それじたいがかなり「迷惑」である行為にはおよばない。そう考えると、自殺を「選択」しようとしていた点で神堂はこれを不満におもっていたようだが、劣等感を超越した、じぶんが罪悪そのものであるかのような感覚は、きちんとまゆみのなかに育っているのである。
まゆみは日光のほうに行って死ぬつもりだったようだが、夜遅いせいか、まだ出発していない。母親は、そんなまゆみがどのあたりに隠れているか、正確にあててしまう。小学生のときに家出して隠れていた、なんか物置みたいなところである。暗くてよくわからないが、学校の物置だろうか?
母親は物置のなかに隠れているにちがいない娘に語りかける。勉強や躾を厳しくしてきたが、それはじぶんのできなかった生き方を娘にさせようと、自己投影してきた結果だと、反省的にいう。迷惑を考えていなくなろうとしているならそれは大間違いだ、お金のことも心配ないし、父親は警察のえらいひとと知り合いだし、捕まる心配もないと、母親はいう。
やはりなかにいたまゆみは、カッターナイフを握ったまま、母親にひとりかと訊ねる。どのタイミングからいたのかわからないが、母親のうしろには神堂がおり、背後から首に腕をまわして携帯の画面を見せ、表示された文章を読むよう指示している。はっきりしたことはわからないが、たぶんそのまま、「一人よ」と応えたところから、神堂はやってきたっぽい。それ以前の母親のことばはおそらく、いわされたものではないだろう。
まゆみが涙を浮かべながら外に出てくる。神堂はドアのかげに隠れているが、ここには父親もきていて、もう少しはなれた物陰から様子をうかがっている。父親は意外と冷静である。まゆみの汚れたかっこうを観察しつつ、すべては神堂と出会ってから始まったことだと看破している。
神堂は落ち着いた様子でまゆみに帰ろうという。じぶんが責任をもって更生させると。だがここで父親が出る。まゆみの服をつかみ、娘は一旦連れて帰り、きちんとした医者にみせるというのである。
そんな父親に、神堂は軽くジャブ。まゆみが殺人や麻薬のことを病院で告白してもいいのかと。まゆみは誰を殺したわけでもないが、いずれにしてもこのタイミングで「殺人」という単語の響きは強い。父親は驚きであっさり手をはなしてしまう。神堂からすれば、守るものの多い父親みたいなタイプは、他愛もないのである。
続けて神堂はまゆみに問う。一つでも自分の意志で選んで決めたことがあるかと。てっきり父親のいわれるがままに連れていかれようとするさまを責めるのかとおもったが、仮にそういう責め立てかたをするにしてもそれはごく初期の段階でなければならず、いまはそのタイミングではない。ではなにかというと、じぶんのはなしである。じぶんは、そういう、心の底からの欲求にしたがって選択をしていると。
「私はまゆみさんがどんな人間であろうと、絶対に離さない。
もし死にたいのなら、私の事も刺しなさい。
心から愛してるよまゆみ。
誰に付いてくかは自分で選びなさい」
そのようにいいつつ、まゆみの握るカッターをじぶんの喉におしあてるのである。絶対に離さないといいながら、選びなさいもくそもない。それでなくてもまゆみには考えるべきことが多すぎる。もはや状況が、選択のできるものではなくなっているのである。しかしじっさい、ここは神堂のいうように分岐点だったかもしれない。父親についていっていれば、この先の展開も大きくかわったかもしれない。しかしもはや選択することじたい封じられているまゆみは、連行されるように神堂につれられていく以外ないのだった。
そしてどこへむかったか。これは、松田明日香がまゆみに豚骨団子をわたしたアパートである。殴られたあとのあるまゆみは、異様な表情で、下着姿で蹲踞している。つま先と両手の中指、それに、この絵ではよくわからないが、ブラジャーを少しずりさげて露出させた両方の乳首、計6箇所が、電源につながれたクリップにはさまれている。
神堂はまゆみを「躾し直す」という。かたわらには、たぶん松田明日香(勅使川原に見えないこともないが・・・)がいる。そして、神堂の合図にしたがって電気を流す。どのような衝撃がおとずれるのかちょっと想像もできないが、まゆみは大声で悲鳴をあげる。しかしそれすらも、神堂にいわせれば「非常識」なのである。
つづく。
最後の欄外煽り文には「事実では決して分からない真実がここに!」とある。もちろんこれは、ここまでくると明らかである、モデルとなった北九州の事件のことをいっている。同じく、この事件をモデルにした新堂冬樹『殺しあう家族』について触れたときにも書いたが、すでに『消された一家』のような優れたノンフィクションがあり、なおかつ、ネットで事件の詳細を知ることのできるいま、それを物語にすることにどんな意味があるのか、という批判は、べつにあってもいいだろう。しかし、逆にいえば、それでもなお物語が生成されていくという点そのものに、なにか肝心なものを見出せるかもしれない。
というわけで、ついに悪夢の通電の儀式がはじまった。電気を流したのは明日香だとおもうが、勅使川原だとしても、これはちょっと不思議である。というか、この家に来ているじてんで、まゆみは「おかしいな」と、本来おもわなければならない。この家であずかったものを捨てたことで、まゆみは死体遺棄の手伝いをした(かもしれない)ことになっているのだから。神堂と明日香(もしくは勅使川原)が知り合いだということになると、いろいろ疑問が浮かんで当然だし、正常な人間ならその瞬間にすべてのからくりが見通せたとしても不思議ではない。にもかかわらず、まゆみが特に反論もせず、粛々と、かどうかはわからないが少なくとも抵抗せずにこの儀式を受け容れているのは、彼女がもはや正常な判断ができなくなっているということでもある。このことを考えていてふと思い至ったのは、わたしたちが眠るときに見る夢のことだ。ほんとうなら顔を合わせたことさえないはずの、たとえば高校時代の友人と大学時代の友人が仲良くしている、あるいは激しく敵対している、そういう夢を、我々は見ることがある。しかも、たいていのばあい、夢を見ている最中に、「これはへんだな」ということを自覚することは難しい。まゆみのいまの状態はそれが近いのかもしれない。明日香も神堂も、ともに「悪夢」の住人であり、整合性ぬきに、その一点で、夢のなかで彼らは同居可能なのである。とすれば、彼女は夢を見ているような気分でいるのであり、彼女の無意識が、自己防衛のためにそういう処置をとっているのだとすれば、彼女は現実から逃避していることになる。であるならば、彼女にとってこの現実が「悪夢」にほかならないという、自覚にせよ無自覚にせよ感覚は、まだ残っているのである。論理的な整合性、つまり客観性を拒否するかわりに、まゆみは「夢」の文脈を、おそらくじぶんを守るために、ここに持ち込んでいるのである。
ではなぜ彼女は「論理的な整合性」を拒否するのか。もちろん、理由はひとつではない。じぶんは罪を犯してしまった、そのことで愛するひとたちに迷惑をかけている、そういう客観的現実から目をそむけたいからかもしれない。あまりにいろいろなことが起こりすぎてあたまがパニックになり、思考停止状態になっているのかもしれない。しかしおそらく、溝のしたで神堂の本音をきいたいま、彼女がいまそれをどれだけ信じているかわからないが、彼への愛が、「現実」を正常ならしめる唯一の鍵だととらえるいっぽうで、これを激しく恐れ、拒むぶぶんもあるのである。「洗脳くん」は開始以前より、「いままでで最悪のはなしになる」というようなことが作者によって語られてきた。これまでも、なにがあっても出会いたくない最悪の人間たちは、この作品には数多く登場してきた。しかし、たとえば肉蝮や三蔵の最悪さは、ブルータルな、またモノ的なものであり、出会いさえしなければ、いやな目にあうこともない、そういうものだった。ところが、神堂はそうではない。神堂は、このばあいは勅使川原を経由するかたちで、わたしたちの本質を形成している物語に働きかけてくる。本人の自覚できないレベルで物語を書き換え、それを決定する属人的なものの具現として、神堂は存在する。物語が書き換えられたあとでは、本人は自覚できないまま、まゆみは神堂とおなじことばをしゃべることになるのであり、「運命」のようなものをあっさり創出することが可能になる。わたしじしんを形成しているトラウマ的物語、わたしたちはそれを語りつくすということができず、そもそも語らずにすむように形成されたものを人格と呼ぶ。それを、勅使川原=神堂は、分析者の共作するような表情で少しずつ変更し、捏造してしまう。そうして、「言い当て」られたまゆみの本質は、神堂のつくりあげた自覚されることのないべつの人格なのである。神堂は、それをなす単位である「ことば」のなかに生きている。わたしたちがことばをベースに思考をする以上、そのなかに潜む一種の歪みを自覚するのはたいへん難しい。わたしたちがごくふつうに生きる日常の襞、交わすことば、そうしたなかに可能性としてすでに神堂は含まれているのであり、それが「最悪」ということなのではないだろうか。以前にも書いたことだが、「おれはこんなやつに騙されない」とか「神堂みたいなやつには出会わないようにしよう」とかそんなふうに考えたとしても、その思考じたいに、すでに神堂はひそんでいる。なぜなら、そうした結論を導く内的な物語が、ことばのなんらかの過程で作為的に制御されたものではないと、わたしたちに断言することは原理的にできないからである。仮にこれまでと比べて、時間のすすむスピードが速まっているとしても、わたしたちにそれを自覚したり観測したりすることはできないのである。
おそらく、たびかさなる洗脳の経験で、まゆみのどこかのぶぶんは、そのことを悟っている。論理を、つまりことばを拒み、夢のなかに逃げることは、まゆみが主体的にできる最後のことなのかもしれない。
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