『私とは何か』平野啓一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎 講談社現代新書




私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)/講談社
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本書は、小説家・平野啓一郎が作品を通して提唱し続けている「分人主義」の考えをわかりやすくまとめたもの。「分人」はそのまま「ぶんじん」と読み、individualの翻訳語である「個人」の問題点から出発し、新しい視点を導入しようという試み。僕はツイッターで平野啓一郎もフォローしていて、この「分人主義」という見慣れないことばも、たびたび目にしてきた。だが、どこかその語調に、「それがまさに私の主張している・・・」とか「私は以前よりこの考え方を唱え続けているが・・・」というような響きが感じられて、首をかしげていた。まるで「提唱され続けている」ことそのものに意味があるかのような調子であったから。小説を読んでこの考え方に触れたわけではないが、本書を通して、平野啓一郎のその語調にも合点がいった。「個人」にしても、日本でも西洋でも、そのことばが存在する以前から、その「個人」に該当する減少がなかったわけではない。しかしことば・概念がなければ、議論もされないし、価値観を与えることもできないし、そもそもひとびとに意識されることすらない。広告イメージのはたらきが近いかもしれないが、このことばを定着させ、一般的に普及とまでいかなくても、ことばがひとりあるきをはじめるところくらいまでは、とにもかくにも主張し続けることが必要なのだろう。


「個人」のもともとのことばはindividualであり、これはもともと「(これ以上)分けられない」という意味であったという。平野啓一郎はここから否定の接頭辞であるinをとり、dividual(分けられる)として、これの翻訳を「分人」としたわけである。

以前読んだ『翻訳語成立事情』にも書かれてあったように、「個人」は明治時代に翻訳されたことばで、福沢諭吉などは「独一個人」と訳していたという。このことばを「個人」として輸入した日本では、意味を理解することは難しかった。しかし、もともとの英語がつかわれていた西欧にしてからが、「分けられない」という意味のindividualに今日の「個人」としての意味を含ませたのがごく近代のはなしなのであって、概念としては比較的新しいのである。

あんまり説明しすぎると煩雑になってしまうので、要約すると、この「個人」が成立する条件はふたつあったという。ひとつは一神教の考え方で、もうひとつが論理学。一なる神、全知全能の神にむけて開いていくとき、その「わたし」もまた一でなければならない。それが、なんでもかんでも告白して懺悔するあの習慣につながっていくのだが、ともかく、神の前になにか隠し事をすることはできないし、そもそも神はぜんぶお見通しなのだ。

そして論理学。ギリシア哲学の時代から、ものごとをわけていく作業に論理的頭脳は努めてきた。世界を社会という現象でみたときのもっとも小さな単位、それが個人である。


ともかく、明治時代からの「個人」の考え方は、たとえばわたしたちに「ほんとうのわたし」というような人間観をもたらしたろう。“まず”、「ほんとうのわたし」がある。そして、しかるのちに、状況や相手にふさわしい「仮面」が装着される。現代人であれば、ほとんどもれなく全員が、この人間観に慣れているだろうし、人間関係について考えるときも、特段意識せずともあたりまえのように、この図式、というよりは「絵」が浮かんでいるのではないだろうか。だが、これをつきつめると、社会は基本的にウソの演技で動いていることになる。じぶんの前では明るくふるまっている親友や恋人も、もっとも深いぶぶんで、それが演技だった可能性を否定することはできなくなる。そしてそもそも「ほんとうのじぶん」とはなんなのか。なにをもってそうだとするのか。


そこに、平野啓一郎は「分人」という概念を導入する。本書を読んだ僕の感想だが、これは、「ひと」というものの新しいイメージの確立、というような哲学的に大それたおはなしではなく、こういうふうに考えたほうがもっと生きやすくなるんではないか、という、やはり提唱である。

そしてこの「分人」とはなにか。短くいえば、わたしたちが「ほんとうのわたし」にかぶせていると図式的に考えている仮面の相貌、それらすべてが「ほんとうのわたし」なのであり、「分人」なのだ、ということである。そこになにかコアのようなものがあるわけではなく、相手を変えるごとに変化する表情のひとつひとつが、すべて、「わたし」を構成する重要な「分人」なのである。これが、dividual「分けられる」ということの意味である。


平野啓一郎は「本の読み方」のシリーズでよくわかるように、抜群に説明のうまい小説家であって、本書も非常にわかりやすい比喩や表現で書かれている。特に、「分人主義」じたいがじぶんの作品を通して追求されていることなので、『決壊』や『ドーン』などの近作が具体例としてあがり、じつにこのひとらしい、作者というよりは「その作品についてもっともよく知っている者のひとり」くらいの位置でこれを引用し、説明をひろげていく。「分人」は他者ありきのものである。構造主義以来、「他者に規定されるわたし」という図式そのものは一般的になっているとおもうが、そこに「個人」が入り込むことで、「人間」は必要以上に複雑になってしまっていたかもしれない。「個人」は、主体となって、相手に応じて、仮面を使い分けるのであるから。しかし、分人主義における「他者に規定されるわたし」は、より構造主義的というか、言語学的であるといえるかもしれない。それ以前のように、たとえば新しい、そして特殊な人物と知り合ったとき、それに応じた特別製の仮面が創出されて、「わたし」につけくわわるのではない。わたしの全体のあるぶぶんが変容し、割かれ、新たな「分人」を芽生えさせるのである。くりかえし書かれていることだが、ひとというのは「分人」の構成比率のことなのである。これは、言語どうしの関係が網目をなし、世界を分節していくという、ソシュールの考え方によく似ている。たとえば「空」や「海」といった概念があらわれる以前では、「空と海」は現在の視点からすればまるで溶け合ったように一体であり、茫漠と世界のある方向のみをなしていたはずだ。極端なことをいえば、「空」(や「海」)ということばが生まれ、「あの方向」を分節するまで、人間の認識世界に「空」(や「海」)はなかったのである(虹の色の数が国によって、つまり言語によって異なることを考えればよい)。いま「空」と呼ばれている現象そのものにもともと「空」が潜在していたわけではないという意味で、これは恣意的なものかもしれないが、だからといって「空」という概念はあくまで仮のものであり、「ほんとうのそら」はもっとちがうものであるなどと口にすることに、いったいどのような意味があるのか。


とはいえ、これらはやはりべつものだろうか。少なくとも発生に関していえば、言葉は言葉どうしの関係性をもって言葉をなしているが、「分人」の成立は、半分は外部の、他者がもたらしたものだ。「分人」には文字通り他者が含まれている。なぜなら、わたしに対したときの相手の分人とともにつくりあげられたものが、わたしの分人だからだ。そこから、恋愛や死に対する人間のありようも分析されていく。また、互いに興味を示さない、そればかりか反発しあう共同体を、「他者を含む」分人という概念がつなげていくかもしれないという考えもおもしろかった。わたしたちはつねに、それ以前に誰かがくちにしたことばをつかって思考している。言い方を変えれば、わたしたちは他者を運ぶ媒体であるのである。





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