宝塚歌劇団専科東京特別公演、「おかしな二人」観劇1回目。12月7日15時開演。幸運なことに初日です。
うちのブログの宝塚関連の記事を、いったいどのようなひとが読んでいるのか、継続した読者がいるのか、検索でたまたまひとつの記事に触れるひとが大半なのか、そこのところはわからないが、うちはいろいろな記事を書いているし、なにかの拍子にべつのカテゴリの読者が読む可能性もあるので、ごくかんたんに説明しておこう。宝塚歌劇団には現行、花月雪星宙の5組があり、およそ1ヶ月、この5組がじゅんばんに、本公演と呼ばれる通常の公演を宝塚大劇場で行い、つづけて東京にやってきて東京宝塚劇場でおなじ演目のものを披露するというふうになっている。2012年12月7日現在、大劇場では星組が、東京では雪組が公演しているが、お正月になると星組が東京にやってきておなじものをやり、大劇場では新しく月組のベルサイユのばらが始まると、要するにそういう仕組み。
その本公演とはべつに、歌劇団は地方公演・全国ツアーなど、さまざまな展開をしており、バウホール公演という、大劇場に隣接する小型の劇場で、通常より縮小された人数で、大劇場とはまたちがった種類の作品を呈出したりもするのである。そのバウホール公演が東京に来るとき、専用の劇場ではないのだが、信濃町の日本青年館で行うと、なんか書いているうちに前も書いたような記憶がよみがえってきたが、まあそういう仕組みになっている。
そして、ニール・サイモンという、どうやら有名なひとらしいが、このひとの手による今回のブロードウェイミュージカル「おかしな二人」だが、専科の公演ということになっている。専科というのは、どこの組にも属さないベテランのタカラジェンヌたちの集合のことだ・・・。いざ説明しようとすると難しいといま発見したが、ほとんどが学年的にはトップや組長と比べてもかなりうえな熟練の芝居巧者、またダンスやうたの達人、そういうひとたちが、組にとらわれず、作品の要請に応じて、さまざまな組の作品に応援で参加する、プロのサポート集団なのである。じっさいのところ、専科の公演というくくりそのものは、珍しいというか、僕ははじめて耳にした。これが成立したのは、やはり、トップの仕事を終えてからも理事長として在団し、いまだカリスマ的な人気を誇る(ということは今日肌で感じました)轟悠という、劇団の神のような存在あってなのではないかとおもう。もともとは、劇団きってのバイプレイヤー、未沙のえるの存在ももちろんあった。このひとは一時期、というかもしかすると在団中はずっと、すべての公演に参加しているんじゃないかとおもえてくるほどの、たいへん忙しい、ということはたいへんすばらしい実力の男役だった。飄々とした小男、という風貌であって、ミーアンドマイガールのパーチェスターなんか、おそるべきはまりようであった。これはたしか中本千晶さんが書かれていたことだったとおもうが、しかしこういう機会は、あってもよいのではないかとはおもう。現行の公演のシステムはトップスターありきのものであり、トップスターというわけではないが名脇役、ほかの部分は少々難ありかもしれないがダンスの名人、こういうひとが、主演といわないまでもセンターに立って、その名前を冠して小さな公演を行う、くらいの機会はあってもいいのではないかと、僕もおもう。
ともあれ、轟悠と未沙のえる、このふたりを主演にして、バウホールでまず「おかしな二人」は公開された。ふつう、これを終えると、あまり間をおかず東京にくるものなのだが、これが2011年9月であり、東京にはやってこなかった。そして、その間に、長年劇団に尽くしてこられた当の未沙のえるさんが退団され、どういう経緯かわからないが、今回かわりに、われらが華形ひかるをむかえて、花組のよりすぐりのメンバーとともに、4日間という短い期間ではあるが、東京で披露する運びとなったわけである。
この主演の轟悠だが、どれくらいすごいかというと、僕はこのひとがトップだったときの公演をリアルタイムで何度も見ているが、それがもう十数年前であるのにも関わらず、トップの緊張感から解放されて久しい現在でさえも、容姿や舞台上の技術的な面など、維持を超えて進化するような勢いである。というのは、ビジュアルに関しては歌手のGacktを思い浮かべていただいてまちがいないが、そういうクールさ、宝塚らしい「かっこつけてます」というしぐさのナルシスティックなかっこよさ、そういう方向性のひとだから、正直にいってコメディはどうなのだろうと僕はおもっていたのである。それは、演出の石田昌也によるプログラムのことばにもあらわれている。たしかに、轟悠はトップのころに、雪組で「再会」のような優れたラブコメディーを演じられたこともあった。けれども、劇団最大の功労者にして、最長老のタカラジェンヌであった春日野八千代先生が亡くなられたいま、男役としてはまちがいなく轟悠がそこのポジションになるのであり、いろいろなことをあわせて、大丈夫かなコレ、と僕はおもっていたのだ。
ところが、ただでさえアメリカ仕込みのギャグというのは、日本人には馴染まないぶぶんがある、にもかかわらず、劇場はつねに笑いに満たされており、当初の心配などそもそも思い出されもしないできばえなのであった。「おかしな二人」は、これもまた異例のことといっていいとおもうが、フィナーレを除くと、宝塚ではごく自然なものであるうたもダンスもいっさいなく、すべて、演者のセリフと動きのみで構成されている。轟悠は歌声もすばらしいのだが、それは封じられ、ひととひととのやりとりのみでおはなしが進行していく。当然、セリフの量は主演のふたりくらいになるとたいへんなものになる。たんにはなしが流れていくだけではなく、本作はコメディであるので、ところどころに笑いを誘うしかけがほどこされているのであり、そういうところが微妙に聞き取れなかったり、かみかみだったりしたのでは、興ざめなのである。だが、そういう不安はまるでないのであった。舞台出身の役者というのはテレビに進出してドラマに出たりしてもすぐそれとわかる。理由はいろいろとあるだろうが、なにしろ、すべての仕事が編集を通さないナマものであるから、とにかく発声が明瞭なのである。まさしく、轟悠は舞台仕事をきわめているのである。
轟悠演じるオスカーは、部屋の掃除とかをぜんぜんしない、それどころか散らかっていたほうが落ち着くという、なんだかまるで僕みたいな人間なのだが、対して、華形ひかる演じるフィリックスは正反対、整っていないものを見ると直さずにはいられない、几帳面というかなんというか、度を過ぎた潔癖症。オスカーは離婚経験者で遊び人風、精神的にもわりとタフだが、フィリックスは妻に別れを切り出されて自殺しようとするほどの繊細さである。こういうふたりが、なんやかんやで同居することになると、そういうおはなしである。華形ひかるもまた、劇団きっての芝居巧者、それも、論理では解釈できない難解な役を、役者的な霊感と「飛躍」とともに演じきってしまうタイプの、ようするに生粋の芝居人。未沙のえるのフィリックスがどういったものだったか、本作は権利の関係でDVD化されていないのでわからないが、いずれにしても、このひとなりの解釈に基づくフィリックスが鮮明に浮かび上がっていた。直立不動で首だけがぐるぐる動いて周囲を観察しているようなイメージ、そこにひっぱられるようにして出てくる猫背、普段よりやや高めの声で表出するどこかたよりない感じ・・・。
フィナーレではうたやダンスも多少あるのだが、轟さんは、セットの背景にずっと浮かんでいた、ミュートトランペットの響きが似合うニューヨークの夜景に沿った、渋いうたを披露されていたが、華形ひかるは作中のキャラクターのままうたをうたう。僕はよく知らなかったのだが、あれはどうもさだまさしの曲らしい。今回、かなり大きな地震があったのだが、これがちょうど、華形さんのうたっているときだった。ちょうど客席降りして「がんばれ」のコール・アンド・レスポンスをしているところだったので、僕は周囲のひとの拍手か、あるいはじぶんの心拍でからだが揺れているのだとおもったのだが、華形さんがはけた直後にピークがやってきて、会場は騒然となった。すぐに幕がおり、しばらく様子を見て再開ということになったのだが、僕としては、コミカルなものとはいえ、せっかくの華形さんのソロだというのに、なぜいまなのだと、かなり憎憎しい気持ちになったのだが、「おかしな二人」の世界観そのままの、軽いのりの出演者挨拶にだいぶ救われたのだった。そういうのも込みで舞台だもんね。
その他の出演者も、すべて花組で、好きなひとばかりだったのだが、長くなったので、あとは次回にまわします。
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