今週の闇金ウシジマくん/第289話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第289話/洗脳くん⑰



ハシくんからの着信をきっかけにして、神堂はまゆみの交友関係、特に男性のものをすべて断ってしまおうとする。手始めに、二度とメールするなという内容のメールを、電話帳に載っているすべての男性に送信した。

そのなかにはもちろん会社の人間も含まれていて、社内の男性間ではすでに話題になっている。だが、あまりにも唐突なメールであるし、ぜんぜん知らない他人ならともかく、多少はまゆみの人柄を知っているひとたちであるから、「束縛のキツイ彼氏に打たされたメールだったりして」など、的確に言い当てているものもいる。まあ、ここでは、どうおもわれるかというのはそれほど重要ではないのかもしれない。それで心配して探りをいれてくるようなものでなければ、的確に状況を言い当てても、けっきょくは他人で、そういうことならそれでべつによし、という感じで、まゆみのことなんかどうでもいいだろう。


そういう会話は編集長の耳にも入っている。さらに経理部からの知らせで、まゆみが経費をつかいこんでいるんじゃないか、というはなしもあがる。目をかけていただけに編集長も困惑気味だ。


メールを送りまくったとき、まゆみは会社を休んでいる。たぶんその次の日ということだろう。企画会議があるから今日は会社に行かないといけないというまゆみを神堂は洗濯物のたたき棒で打擲し、休むようにいう。このあたりから、神堂ペースのだらだらと長い、会話ともいえぬ奇妙なやりとりが続く。まゆみは神堂の質問に答えるが、神堂の顔色を伺いながらおそるおそるであり、また神堂のほうでも正解が出るまで打擲をつづけて、要するにぜんたいで見ると、神堂がひとりで演説して、語りかけるという形式成立のためにのみまゆみは存在しており、さらに神堂の演説にまゆみの思考がしたがっていくよう、たたき棒で強制されているのだ。ふたりは会話をしていない。神堂の文脈において誤った解答をすれば、まゆみは叩き棒で叩かれ、強制される。このときすでに、まゆみには神堂の顔色をうかがい、神堂がどのようなこたえを求めているのかを探るようなふるまいを見せている。まゆみは質問に答えているのではなく、神堂が「くちにすべき」と考えることばをくちにするよう、すすんで努力しているだけなのである。

神堂では、「この世の最もよくない行い」は「無関心」だという。無関心は愛の反対である、じぶんはまゆみに愛をもって接する。つまり最大の関心をもって接する。したがってじぶんがまゆみに与える痛みは愛の表現行為、究極の関心のあらわれなのであり、まゆみは愛される苦痛と喜びを同時に受け取っていると。

まゆみは前日の朝からなにも食べていないし、水さえ飲ませてもらっていない。神堂がこれみよがしに広げる弁当や水に、まゆみの視線は集中する。

だが、神堂はなんのつもりか、わけのわからないはなしを延々と続ける。「無関心が引き起こす悲劇」という、一般論だ。たいていの家庭の食卓では、テレビが流されて会話らしい会話はしない。おもしろい番組をつくるプロのつくった番組なのだから、それは当然おもしろい。家族のほうでははなしをおもしろくする努力も、おもしろいはなしを生み出そうとする努力もしない。教育もなにもかも他人任せ、そうして無力な大人ができあがる。

「本当は話を聞くだけでいい」と神堂はいう。話が通じる相手なら、はなしをしたい、じぶんのことを知らせたい、ひとというのはそういうものだと、神堂はひとり延々とべらべら語り続ける。彼の「関心」の理論からすれば、彼はまゆみの「自分のことを知ってほしい」という欲求に関心をもって応えるために、まず「聞く」ことからはじめねばならないのだが、神堂は見せびらかすように口元からこぼして水を飲みながら、テレビみたいにしゃべり続ける。

まゆみはどこまではなしを理解しているのか、飢えと渇きから、目を見開いて神堂に水と食料をお願いする。ともあれ、神堂の一挙手一投足にびくつき、顔色をうかがってはなしを聞いているまゆみは、神堂の理論では彼に関心をもっていることになる。だがそれだけでは神堂は許さない。そして、まゆみは飢えを知らないなどという極論を持ち出す。まゆみは感謝を知らない。それは愛に飢えているからであると、神堂はまたそれを「愛」のはなしにもっていく。

そして神堂は、水がほしいなら会社を休めという。重要なことは金を用意することである。なにをどうしたのか、ハシくんの金は関係あるのか、よくわからないが、500万のうち300万はすでに用意したらしい。しかしあと200万。会社なんかどうでもいい、会社のほうでもまゆみのことなんかどうでもいい。神堂はそういうが、電話にでた編集長は「すぐ来なさい」という。企画書を書いたまゆみがいなければ企画会議も意味がないし、経費のことで聞きたいこともある。しかしそれより、編集長は心配そうだ。

まゆみの気持ちは揺れる。だが、神堂のふるペットボトルの水の音に負け、けっきょく休むことになってしまう。だが、水は、神堂が飲み干してしまった。神堂がトイレにいっているすきに、まゆみはなんとか水分を摂ろうとする。水道の栓は針金でかたくしばられ、冷蔵庫もガムテかなんかで封がされている。渇きがきわまり、いついれたものかわからない加湿器の水をまゆみは飲もうとするが、それを目撃した神堂は、はさみでもってまゆみの耳をちょん切ろうとするのだ。聞く耳をもたないなら耳は必要ないって、加藤清澄か。


なんでもするから許してくれということばを待ってましたとばかりに拾い、神堂は知り合い全員に電話をして金の無心をせよと命ずる。そして断ったものには、脚本通りの罵声をあびせかけよと。たぶん母親にかけたんだろう、まゆみの異様な雰囲気に戸惑う相手に、「黙れクソババア!言われた金額黙って振り込め!」と、神堂に指導されたとおりにまゆみは怒鳴りつける。そんなまゆみを、優しい表情にもどった神堂が、水のご褒美とともに褒め称えるのだった。



つづく。



どこまで計算しているのか、おそるべき神堂の話術だ。

神堂じしんはたいへんな切れ者だが、それ以上に、堂に入った洗脳の手腕は、かなりの経験値を感じさせるものである。

何人もの人間に対して、何度も何度も同じようなことをくりかえし、どういう方法がもっとも効果的か、完璧に知り尽くしているのだ。

だらだらとなにがいいたいのか、数度読み返さないと伝わってこない神堂のあの演説は、これまでの、勅使川原を経由したスピリチュアルな準備段階と、方法的にはよく似ている。要するに、まゆみの思考回路が、神堂を経由せずには成り立たないようにする刷り込みのようなものである。勅使川原においても、まゆみは、スピリチュアルな語彙を経由せずには世界を見ることのできないように、知らず知らず、じしんの底に沈む根底的トラウマの物語を書き換えられていった。そうなることで、勅使川原じしんに物語を書き換えられている自覚のないまゆみは、まるでじぶんのすべてを知っているかのように的確で、予知的なことばを発する彼女をごく身近で、それと同時に遠い、神秘的なものに感じたにちがいない。そして、そういう関係の設定そのものに、「ハイヤーセルフ」などといったスピリチュアルな語彙が導く神堂の位置が含まれていた。神堂は、そのように操作されているために、勅使川原を経由してものを考えるまゆみにとっては「運命」のひととなるのである。

そして、前々回あたりからはじまった強い暴力と今回の演説が組み合わさることで、まゆみの思考は神堂より下位の、従属的なものにかためられていくことになる。神堂が質問をし、まゆみはそれに応えているが、じつはまゆみになにかを決定したり判断したりする余地はない。まゆみのなかにある神堂にとっての未知を彼が訊ねているのではなく、この質問には「正解」があるのであり、暴力によって、まゆみは正解以外をくちにすることを恐怖するように調教されているのだ。そして、正解を定めるものは権威としての神堂である。数学以外の科目において、ふつう学校教育で「正解」を定めるものは、真理ではなく、遠目には恣意的ななんらかの権威である。だが、中間テストや入試を前にした学生からすれば恣意的な権威も真理なのであり、仮に赤点をとれば罰が待っているなんていう状況であれば、それが真理であるかどうかなどということは重要ではなくなってくる。


まゆみにおいては、現時点では叩き棒でばしばし叩かれる程度だが、指を砕かれた経験や、さらに飢えと渇きも手伝い、「正解」をこたえることは死活問題として翻訳されている。そしてここでいう「正解」をこたえることというのは、従属的に神堂の思考回路と動揺の道筋を、みずからのなかにも設計することにほかならない。勅使川原の操作はまゆみには無自覚のものだったが、ここにきて痛みと生命の危機がかかわることで、まゆみは主体的にみずからの物語、彼女を彼女たらしめている歪みを正し、神堂の思考に沿うものにしようとしているのだ。

そして、周到なのはここからである。まゆみの従属的思考は、いってみればまだ屋内のものである。そこには、まゆみと神堂のふたりしかいない。彼らの関係を相対化するもの、また、強いちからでもって介入してくるもの、そういう「他者」が、ここにはない。前者は、まゆみが神堂の奴隷になっていることをまゆみに自覚させるし、後者は拳でもって暴力に支配されているまゆみを救い出すだろう。だが、先週の時点で男の知人は決別のメールを送るとともに電話帳から消去してしまったはずだ。いままゆみを救い出せるものは家族と女の友人のみ。そして今回、まゆみはこれらすべてに金の無心をする。それは、なるべく唐突なものがよい。それで金が手に入らなければ、ただでさえ無礼なしかたで接触してきたあとなので、関係は壊れてしまう。金が手に入ったならそれでいいし、それでも、相手への悪い印象は避けられないだろう。そうして、「余計なおせっかい」をしてきそうなひとびとを根こそぎ、まゆみの周囲から取り除いてしまうのである。だがもちろん、それでも「おせっかい」をしてきかねないひとというのはいる。家族だ。まゆみじしんのことをおもっていなくても、彼女の家族は世間体を気にするというし、お金のことになればかっこうがわるいから、すすんで介入してくるかもしれない。だが、神堂は用意周到に、そうしたひとびとに関してはじゅうぶん準備してあるわけである。


神堂の方法そのものが複雑で、毎度表層の考察ばかりになってしまって残念だが、表題の「洗脳くん」は、煽り文句などをみると神堂のことのようだが、これは洗脳するほうなのかされるほうなのか、厳密にはわからない。第1話感想で書いたように、まゆみのなかに「洗脳されるもの」としての「傾向」はじゅうぶんにあった。それは、じぶんのものではない、べつの語彙で語られる「物語」を求めているという点においてそうなのだ。つまり、スピリチュアル女子としての上原まゆみである。もちろん、ふつう、占いや血液型などの本を読む際、多くのひとは、それらの世界観を現実の側に引き寄せるようにして採用する。しかし、ディープなスピリチュアルの世界観は、「ハイヤーセルフ」とか「インナーチャイルド」とか、現行の日本語でもじゅうぶんに説明可能な事象をあえてカタカナ語で表現し、柳父章の「カセット効果」的に意味をぬきとることで、現行のものとはまったく異なるものとして規定される、なにか現行のものとは大きくことなったすばらしい世界を夢想させる。重要なことは、この時点ではべつに占いを信じることを強制されているわけではないということだ。まゆみは、じぶんのほうから、みずからのそうした傾向をさらけだし、また、勅使川原の示す神秘的な物語に身をゆだねていったのである。そういう「傾向」があるものなら、今回のようなぎりぎりの状況ではたやすく従属的に相手の物語に身をゆだねてしまうと、そういうことなのではないだろうか。たまたまなのか、経験的にそうなったのかわからないが、神堂が勅使川原を占い師とし(あるいは占い師の勅使川原を手下とし)、占いをエサにしていたというのは、こう考えるとまったく正しいのである。





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