■『高く手を振る日』黒井千次 新潮文庫
- 高く手を振る日 (新潮文庫)/新潮社
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「妻を看取って十余年、人生の行き止まりを意識し始めた嶺村浩平は、古いトランクからかつての大学のゼミ仲間・瀬戸重子の若々しい写真を見つける。そして甦る、重子と一度きりの接吻を交わした思い出。思わぬ縁で再会した重子の勧めで、七十代にして初めて携帯電話を持った浩平は、秘めた想いをメールに込めるが…。恋に揺れる、老いの日々の戸惑いと華やぎを描く傑作小説」裏表紙より
単行本が出た際にかなり話題になっていたように記憶しているが、文庫化されたので買ってみた。想像以上によかった。
黒井千次というひとは以前から「老い」について非常に自覚的な作家である。といっても、このひとだってむかしから「老い」ていたわけではないから、僕の知っている最近の範囲でということになるが、「老い」に関する考察をおさめた新書の類もいくつか書かれているし、僕もそのなかで「老いるということ」を読んだ。教師のように厳格な風貌からしても人一倍生真面目な性格は伝わってきて、小説の丁寧な語り口は精密な推敲を感じさせるし、本作の主人公である浩平からして、特に文化的な仕事をしていたというわけではなさそうであるのにどこまでも思慮深い。老いということは、果たしてげんに老いているひと以外には無関係であるのだろうか、そうした根本的なところまで、各種作品にあたりながら、ひとつひとつ、じゅんばんに考えていく。この新書のタイトルが「『老い』ということ」ではなく、「『老いる』ということ」というふうに動詞になっていることからもわかるように、「老い」というのはひとの生のデジタルな区分なのではなく、動的な生の様態のことだ。ふつうのにんげんは、ある年齢を境にして、それ以前にはたやすくできていたことの多くが不可能になっていく。それに対抗して若作りをしたり、あるいはからだを鍛えたりすることは、生の流れに逆らっているのにほかならず、老いを否定していることになりはしないか、たしかそんなような理路だったと記憶している。生というものがある種の「量」であるとしたら、たしかに「老い」という状態は、若い時代に比べてその「量」の減少した、生全体で見たときに不完全な状態となるだろう。だが果たしてひとの生とはそういうものなのか。若さが生のひとつの状態であるのと等しく、老いの時代にも、そこでしか見えない景色があるのではないか。
ともかく、黒井千次には、そうした現行のデジタルな「老い」に対する懐疑があり、解説を参考にすると、そうした本来の、生の過程におけるひとつの様態としての「老い」の受け口が失われてしまっていると、そういうふうに考えている。とりわけ、社会の中枢を担い、生を「量」で考えがちな若者の世代が、「老い」にしか見ることのできぬ景色、論理ぬきに経験でしか語ることのできぬ領域、そうしたカウントすることのできないものを無視してきたというぶぶんは、実際あるだろう。僕自身、重要なことほど経験で語ってはならないと言い聞かせてきた。にんげんの意識は決して重なりあうことがない。あなたの痛みをあなたの痛覚でわたしが感じることはできない。そのために、ことばのように、わたしたちは無機質な媒体を必要とする。しかしもちろん、サン=テグジュペリが考えたように、ことばはつねになにかを語りこぼす。重要なことほど経験で語ってはならないのと同時に、わたしたちは、重要なことほどことばで語ってはならないという原則も容れなければならない。そのために、おそらく、「老い」の受け口、たとえば、卑近な言い方をすれば、老人への敬意の表現が、一種のマナーとして構造的に登録されている。すべての老人が尊敬すべき存在だから敬意を払うということなのでは、おそらくない。尊敬すべきかどうかはわたしたちにはほんとうはわからない。わたしたちの度量衡ではかることはできない。だから、そうしなければ、わたしたちことばの虜囚は「老い」の領域を参照することができないのだ。わたしがあなたの経験を理解できないのと同じ意味合いで、わたしは老人の経験にもとづく知識をことばで受け容れることはできない。だから、わたしたちは、経験的に、老人への敬意というふるまいをもって、これに接続しようとするのかもしれない。
本作では、妻を亡くして十数年の主人公・嶺村浩平という老人が、ふとしたことから、大学時代のゼミ仲間である瀬戸重子と再会し、少年のような恋に落ちるというおはなしだ。くりかえすように、浩平はおそらく作者とおなじ気質の持ち主で、非常に思慮深く、ひとつひとつのふるまいに好感がもてる。
重子と浩平が出会うのは、学生時代以来というわけではなく、数年前の友人の葬式のとき以来ということになっている。物語は、古いトランクをあけて重子の若き日の、しかし学生時代ではない不思議な写真を目にした浩平が、その葬式の際の重子の姿をおもい、徐々に重子が立体的になっていく、そういうふうにはじまる。それと並行するようにして、ふとした機会に拾って生長していく葡萄の枝というものが、一定の詩的な効果をもって、浩平の生によりそっていく。若い葡萄の枝は、生の「行き止まり」を感じ始めている浩平にはまぶしいほどの存在感を放っている。浩平には、生長しゆく葡萄を見守る気持ちと「怯えに似たもの(60頁)」が同居しており、ちょうど、生そのものへの浩平の視線のようなものにこれがなりかわっている。若木に対する怯えは、上述のはなしからすれば、ちょうど生を量的にとらえた際の、磨耗したじぶんという人格の小ささを示しているかもしれない。
感情的なきっかけが、重子の若いときの写真であるというのも、なにかおもしろい。久しぶりに出会った男女が、そのときのやりとりにおいて恋に落ちる、というふうではないのだ。娘がときおり訪れるとはいえしっかりと自立して一人暮らしをする浩平には、解説にもあるように、「まだ若い」という感覚が、口ぶりにはあらわれずにおそらくまだ残っている。と同時に、明らかな老いの感触、行き止まりの実感も抱えている。重子の写真は、彼の生の様態における「若さ」の時代を展開する。
「記憶も定かでなく曖昧な想像ばかりがはびこるのに困惑しつつも、しかし浩平は何かふと新しい気分が生れているのに気がついた。トランクの中身を整理しようと思い立った折に自分の中を動いていたもの、やがてすべては行き止まりになるという感覚に、その一葉のスタジオ写真が小さな穴をあけたらしかった。穴はべったりとした行き止まり感を突き抜けて先に進む通路ではなく、過去へ過去へと遡って行く入口のように思われた。そして過ぎた時間の中には予想外の広々とした領域が隠れているのかもしれない、と考えるうちに、凝り固まっていた古びた身体が伸びやかに解き放たれていくような自由の感触がいつか浩平の内に生れていた」19頁
浩平が重子の写真から目撃したものは、重子の美しい姿と、そのさきに見えている若きじぶん、そしてふたりのあいだにあったある経験だったはずだ。それが、おそらく、「老い」という位置に向けて新しい表情を見せ始めたのである。過ぎ去って固定され、史実として語られる硬直した記憶が、新しい相をともなって、ということは、現時点のわたしの「老い」も鮮明に、新たな躍動を与えて、動きだしたのだ。これは、老人が若い時代への郷愁から、当時を知るものに恋するおはなしではない。そこを基点にして生が賦活されていくのであって、ここでは正しく、恋が生をいきいきとしたものにしているのである。
特におもしろいのは浩平が携帯電話を買うことになるくだりだ。携帯電話の購入など、僕ですら苦手である。なにをいっているのかさっぱりわからない。その電話にはメールの機能はついているのですかと確認してしまうような浩平では、未知というよりは恐怖だろう。苦労してメールを作成する流れもおもしろい。メールは、電話などの会話とはちがい、相手に猶予を与える。と同時に、手紙ほどのんびりとはかまえていられない。浩平も、メールになれてくると、すぐ返信がないことに中学生みたいに困惑したりする。浩平の携帯電話の購入は、これが現代のおはなしであり、現代の老いの姿を描くものとして書かれたということ以上に、ふたりのあいだにたしかにある、基点となる「若き」時代が、「老い」の時代に重なり合っている、そういう多面的な生の表出とも見ることができるだろう。若き時代は壮年時代と重なり合い、壮年はゆるやかに老年へとうつっていく。すべてひとつの生の表情なのであり、若者は潜在的に「老い」ているし、老年は過ぎ去った時代をたんになつかしむだけでなくそこに感じることもできるのだ。
しかし、携帯電話がふたりの邪魔をすることもある。おしまいあたりのお別れの場面では、携帯電話は「他者」として鳴り響く。だが、これはこれで、正しいのかもしれない。なぜなら、これを「他者」のように、つまり邪魔に感じるということは、ふたりが、とりわけ浩平が、重子に対してじぶんと同じ血が流れていると感じるようなあの恋愛の微熱感を覚えているということにほかならいからだ。
携帯電話は重子とともに浩平のもとにやってきた。どういう状態にあるのか素人の浩平には判断できない葡萄を含め、浩平の生のまた新たな表情の兆しを見せながら、物語はわりと唐突に終わる。重子とのことは、どうなるかはわからない。そして、老いの生き方としてふさわしく、元気いっぱいという終わり方でもない。それでも、たしかに変化しつつあるべつの相を、浩平の生は見せようとしているのではないだろうか。
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