第269話/生活保護くん⑰
調子にのって剛田の悪事を晒しまくった佐古だが、それは彼の正体を暴こうとする罠だった。写真を撮ったあとの佐古はあとをつけられていて、家がばれてしまったのだ。
掲示板ではちょうど、DQNバスターとしての佐古の行動を讃えるばかりでなく、リアルを晒すことの意味を諭す書き込みもみられていた。あるいはあれは剛田たちのものだったかもしれないが、いずれにしても、佐古のなかに一種の迷いは生じていた。客観的には、それでよいとおもう。剛田は悪人としても小物な、どうしようもない人間かもしれないが、それとこれとははなしがべつ、という感じもないではない。
佐古はたぶん、本気で、正義としてそれを行っていた。だが、そこに迷いが生じていた。果たしてこれはほんとうに正義なのかと。そんなタイミングで、剛田とその友人猛志が、佐古の家にやってきたのだ。
剛田はなにか落ち着いている。ちょっと丑嶋的な雰囲気さえあって、すごい緊張感だ。佐古のほうも、緊張の面持ちだが、パニックに陥ったり、おなかをくだしたりということはまだいまのところはない。
剛田は佐古が生活保護受給者だと知ると、そこをきっかけにはなしをはじめる。ハンガーで顔を殴って服を脱がせ、つづいて近くに転がっていたDQNバスターの戦闘スーツを着るよう命じる。はなしでは、退学のはなしはなくなったそうである。どうやってクリアしたのだろう。
剛田は佐古のことを「なまっぽ」と呼ぶ。すっぽんぽんにダンボールのスーツを着せられた佐古は、じぶんはうそばかり垂れ流していた、善良な大学生に迷惑をかけた、という文章を朗読させられる。
そして、バスで蔑まされたような気がしただけでおなかをくだす佐古は、やはりこの異様な状況に耐えられない。トイレにいかせてくれと懇願するが、剛田は許さない。かわりに、なぜもっているのか、レンジでチンする白いごはんを出し、そこにせよと命じる。すごくいやな予感がする・・・。
で、佐古はやっぱりがまんできない。市役所で興奮して怒鳴っただけで出ちゃうくらいなのだ、こんな緊張感の状況でがまんできるはずがない。そして、おそるべきことに、剛田は、ごはんのうえにかかったそれを食えと、スプーンを放り投げるのだ・・・。
特に強烈な暴力を受けたわけではない、ハンガーで殴られただけだ。たしかに彼らには暴力のにおいが染み付いているが、それと、じぶんの出したものを食べることを天秤にかけると、よほどのことがないと、実行しない気がする。だけれど、それほど脅されたという感じのないまま、わりとあっさり、佐古はそれを食べてしまったらしい。
一連の心理的拷問を剛田は撮影し、ネットにアップする。YOUTUBEみたいな大手では、そんな動画は即削除だから、審査がゆるいらしい中国のサイトにあげて、それのリンクを佐古がつかっていた掲示板に貼る。すぐさま掲示板上には反応が出る。住人たちはグロい映像と他人の不幸に大喜びである。
「これ以上俺の事晒したら、
お前の実名も住所も素顔も晒すからな!」
そういってふたりは去っていく。帰りにカレーを食べるそうである。
さて、具体的に絵として描かれはしなかったが、想像するのも難しいダメージをこころに負ったにちがいない佐古だが、しかし、横たわる彼が手をのばした先には、動いているビデオカメラがある。読み返してみると、戦闘スーツが置いてある横に、このカメラが落ちていて、佐古はなにかを考え、もたついている。このときにおそらくこっそり起動させ、一部始終を撮影していたのだ。
つづく。
なんとも胸の悪くなるような展開だ。
熱湯シャワーとか三蔵の拷問椅子とか全身タトゥーに比べたら、痛いことではないし、規模は小さく地味かもしれないが、なんというか、陰湿である。
佐古は胃腸が弱いので、ちょっとしたことですぐお腹を壊して、もらしてしまう。地味なようだが、これはちょっと、ふつうに生きていこうとしたらたいへんである。まさしく、佐古の抱える地獄が他者には理解できない、あるいはされないというのに対応して、わかりやすい地獄ではないのだ。
それが、つまり、トイレががまんできないということがどうしてそれほどたいへんかというと、ふつうのひとは、ちゃんとトイレをがまんできるからである。トイレをがまんできないことそのものが、彼にダメージをおよぼすわけではない。一般的にはがまんされるそれががまんできないということが、彼の自覚のレベルにおいては、自己卑下させるし、それが他者に知られるレベルにおいては、少なくとも彼の感覚では、彼の社会的価値を貶めるのである。極端なことをいえば、すべての人類が太古からぶりぶりもらすことが日常であったなら、佐古はこれをダメージとして受け止めないのだ。当たり前だけど。フロイトでは人間の発達段階に肛門期というのがあって、はなしはずっと複雑だったとおもうが、排泄をがまんするという行為には、排泄そのものの快楽と対立して、しつけを経由してこれを制御し、愛するものから褒められる、喜びの快楽が含まれている。なんでもないことのようだが、うんちをがまんするという、ごく当たり前のふるまいの背後には、愛するものの期待に応えようとするわれわれのこころの働きがあったのである。だが、佐古では、外的な意味での病が、これを阻む。意識ではどうしようもない強権的なもののちからによって、がまんしたくてもがまんできない。そのことを佐古が恥じ、またそれじたいが彼を内にこもらせ、病を深くしているのだが、そこには、他者の期待に応えたい、だができない、という、一種の敗北が、毎回刻まれるのだ。
胃腸の病気は、ちょうど、彼を計量し、共感し、感情移入を拒否するシステムが、彼の身体機構において翻訳され、顕現したものと見ることができるかもしれない。病は、おそらく、佐古の自信喪失、彼を彼そのものとしては見ない、量としてしかカウントしないシステムが生んだものだろうけれど、彼の体内に巣食ってなお、このシステムは、くりかえし彼を損なっていく。うんちががまんできないことは、深層心理のレベルにおいて、彼の自信を根こそぎ奪い、期待には応えることはできないという確信をうえつけ、さらに病を深くしていく。
排泄は、その行為という意味合いでは、このように他者が関わってくるわけだが、そうすると、食糞という行為そのものもまた、それを意味づけるのは他者であるかもしれない。じっさい剛田はそれを撮影し、他者の審査の場に晒したが、そうしないばあいでも、これがダメージとなるのは、おそらく、脱糞同様、他者の目線がどうしようもなく、自覚されてしまうときなのだ。
佐古はここを、どのような決意をしたかは不明だが、乗り越えた。なぜなら、佐古はこれをみずから撮影しているのであり、「期待に応えることのできない」じぶんが他者の目に晒されることを、むしろ攻撃にしてしまったのである。これがなにを意味するか。脱糞にせよ食糞にせよ、それが精神に大きなダメージを残すのは、もらすとズボンが気持ち悪くなるとか、じっさいのところすごくまずいとか、そういう理由ではない。通常、社会で形成されている人間像にもとる行動だからだ。
佐古では、脱糞というふるまいにおいて、「期待に応えることができない」という感覚が生じ、自信を奪い、彼を堕落させていった。だが今回彼はそれを撮影し、おそらく公開する。これがどちらに転ぶかは、わからない。ふつうに考えて、もうまともな生活はできないんじゃないかともおもえるが、佐古の目つきははっきりしている。彼は、はっきりとした正義を遂行するために、事実としてのじぶんを受け入れ、晒すのである。剛田は佐古のことをいちども名前で呼ばず、「なまっぽ」と呼んでいた。つまり、実名としての佐古を求めながら、今回は匿名として彼をあつかったわけである。だがむしろ佐古は、ここから、じっさいに実名を公開するかどうかという問題ではなく、実名的ふるまいに踏み出すことになるのかもしれないのだ。
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