『ベースボールの詩学』平出隆 | すっぴんマスター

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■『ベースボールの詩学』平出隆 講談社学術文庫





ベースボールの詩学 (講談社学術文庫)/平出 隆
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「百年以上も前に、ピラミッドをバックネット代りに試合をしたアルバート・スポルディングの世界一周興行。塁間九十フィートを決めたアレグザンダー・カートライト。その距離が、盗塁や併殺のクロスプレイをうみだしてきた…。ベースボールの起源をたどり、詩との同一性を見出す鮮烈な名篇」Amazon商品説明より





平出隆は、以前読んだ『猫の客』や、あるいは現代詩なんかを読むと、語り口がかなり独特で、読みつつ、勝手知らぬ狭い路地裏を歩いているような気分になったというふうに記憶していたのだけど、僕が慣れたということなのか、あるいはとりわけて本書が散文的に書かれているからかわからないが、するすると読めてしまった。といっても僕はベースボールにはなんの興味ももたないものなのだけど、その観念のもっている深みみたいなものに触れて、だいぶ見え方も変わってきたようにおもう。

要するに平出隆の名前につられて衝動買いしたものだけど、すばらしくおもしろかったです。なにがいいって、まずなによりこの、予備知識なしに本書を手にとって、タイトルと表紙を見た人物におとずれるであろう、どんなことが書かれている本なのかまったく見当がつかない感じである。僕の印象では、ベースボールというのは、なんというかプラクティカルな、合理的なスポーツであって、ときにはビジネス的なものであって、詩とは無縁におもえたし、だいいち書き手が平出隆、詩を読んでも基本的になにが書かれてあるのか一読ではわからないというひとなのである。まずその、わくわく感が、僕としてはたまらなかった。書店で手にするまでこの本の存在は知らなかったので、手にとってはじめて、「いったいこれはなんなのだ。なんの本なのだ」という感じを味わったのである。そのじてんで、「読書体験」として、僕ではほとんど満足である。



というわけで、僕じしんのなかにはベースボールに関する一家言などあるはずもないのだけど、とにかく、長くベースボールの楽しんできた筆者の印象においては、あとがきに次のように書いてある。




「この国では、ベースボールが本来もっている歓喜や快楽を圧し潰し、ボールの躍動を見失わせてしまうような解説と情報が、いまやおびただしく氾濫し還流してしまっている(略)」248頁



つづけて、本書の果たすものが、ベースボールには詩情があるとかいった「のどかなこと」の証明ではなく、詩の方法によってベースボールの魅力を説明しようとするものでもないという。



「この試論は、《ベースボール》と《詩》との、本源的な同一性に基礎をおこうとするのだ」同



これだけではなんのことだかわからないが、いずれにしても、ベースボールのなかに詩的なものを見出せる、というおはなしではなく、むしろ、正岡子規をはじめとした日米の偉大な詩人たちがここに魅せられるのは、ベースボールそれじたいが大きな詩みたいなものであるからにちがいないのだ。


本書ぜんたいを通してある、というよりは、本書の流れの背骨としてあるのは、1888年から89年にかけて行われた、A・G・スポルディング率いるシカゴ・ホワイトストッキングスによる、世界一周の旅である。もちろん、このエピソードのなかにも、本書のコンテンツとしての細部的な意味はある。だがむしろ、地球を一周するという、ちょうど、バッターがダイヤモンドを一周してホームに戻ってくる姿と対応したふるまいそのものに、本書ぜんたいのベースボール的ありかたをうつしているのではないかとおもわれる。スポルディングというのは、なかなかあざといというか、俗物というか、一筋縄ではいかないタイプの人物だったようだが、いずれにせよ、彼に付託し、そこに取材することで、本書は構造的にベースボールのしくみにのっとったものになっているのである。


そのなかでは、筆者の平出隆も旅をする。アイオワ大学に招かれていた筆者は、この機会をここぞとばかりに利用し、さまざまな野球図書館や「失われた野球場」めぐりをしてみせる。筆者がどういおうと、その姿はなかなかおかしいものであり、このひとはからだの芯から野球が、ベースボールが好きなんだなと、ちょっとあきれてしまうくらいだが、いずれにせよ、なぜ、跡形もない球状を探し歩くのか、そしてそこになにかを見出せるのか、読者は、筆者とともに歩きながら、徐々にそこにある、対極するものの共存を見ていくことになる。ベースボール起源の地とスポルディングによって規定され、聖性を帯び、いまでは真実が暴かれ、聖性を奪われているクーパースタウンという街に、しかし筆者はいじらしさと、「そこを逃げていく影」を察知する。じつに詩人らしい示唆であって、背中のあたりがぞくぞくしてきたのだが、清岡卓行の詩を経由し、筆者はそこい次のようなものを見る。



「そしてここには、ぼくのあの失われた野球場を求める歩行の中であらわれた、《ベースボールの廃墟》あるいは《ベースボールなき地上》という観念と、相似てまったく背反する《土》、対極的な地平が露出している、といえるだろう。いまはそこで競技が行われていないという意味で、この《土》は廃墟のものと同じ土であるながら、しかしいつでもゲームが行われうるという意味で、「ダイアモンド」をはらんでいる始原の土であり、「無限」の空間をここに仲介する天使的な土である、といえるのだ」160頁




ベースボールの起源はスポルディングの考えたものとは異なり、やろうとおもえばエジプトにまでさかのぼることができる。これが示すことは、いずれの時代でも、どのような場所でも、いつも街の構造に沿うようにあらわれていた原的な球場のありかたまで踏まえれば、ベースボールはつねにそこに潜んでいるのである。

ここでいう「ダイアモンド」は有限な、一種の人工的秩序のようなものであり、外野は無限性を帯びている。競技の行われる「扇形」のなかには、そのような反対物がそれとして共存しているのである。寺山修司はベースボールの遊びの起源としてキャッチボールをあげ、これを会話と呼ぶ。むしろ起源としてはペッパーゲーム(投げるものと打つものによるキャッチボールみたいなもの)が正しいというおはなしだが、いずれにしてもそれは会話のようなものである。だがそこにべつの欲望がまぎれこむ。秩序をうちやぶり、無限に志向していこうとするかのような欲望だ。



「このようにして、魂のペッパーゲームがはらみ、やがてみずからとともに野に炸裂させるものは、日常の言語のやりとりの真摯さの中でこそ破りたくなる衝動、すなわち詩である」232頁



ダイアモンドと、その外に扇状に広がる無限、その関係が、ちょうど、「会話」を打ち破る詩と、「本源的」に「同一」なのである。であるから、ベースボールを原理的に語るとき、それはつねに「詩学」になるはずなのだ。詩もまた、ベースボールがどこにおいても行われうるのと同じ意味で、どこからでも生まれうるのである。


考えてみれば、バッターがボールを打ち飛ばしたとき、相手選手に捕られてしまうまで、彼の行動の自由は、打ち返し、彼じしん分離し、分かれたボールに担保されていることになる。そしてさらにいえば、それが戻ってこようとするとき、今度はその魂の分身としてのボールは、彼を捕らえようとするのだ。ベースボールというのは、冷静に見てみるとじつに神話的なルールなのだ。分離したボールは、秩序から解き放って「ふるまうわたし」を誕生させるが、同時に彼のふるまいを抑え込み、死をほどこすものでもある。それに打ち勝てばチームに点が加算され、追い抜かれればそのふるまいは死につながっていく。もちろん、よく知らないが、戦術的に、みずからの死を用いて点をとるという方法もあるだろうし、さらにいえば、打順が一巡したとき彼はまた復活する。ベースボールというのは、重層的に神話の色を帯びているスポーツなのだ。



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