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ピエール・クリフォール(ペヨ)というベルギーの漫画家による「スマーフ」の作品世界を、実写とCGで映画化したもの。監督はラジャ・ゴズネル。調べてみると、これはどうも三部作の第一作ということらしい。
スマーフは、ヨーロッパかどこかの森の奥に住む架空の部族だ。村はある種の結界に包まれているためにふつうに見ることはできず、リンゴ3つぶんの背丈である小さな青いからだで、おのおのの特性を呼び名にしつつ、パパスマーフの統率のもと、仲良く元気に暮らしている。筋としては、クラムジーというおっちょこちょいのスマーフがなんやかんやとやらかしてしまい、スマーフのからだから抽出されるエキスを魔法の原料としてねらっている魔法使い・ガーガメルとの戦いの末、わたしたちの住むこのタフで救いのない現実世界に、数人のスマーフがやってきてしまうというもの。漫画を見ると、CGでつくられたスマーフよりむしろ実写のガーガメルの造形が見事すぎて笑ってしまう。
スマーフは小さな生き物、まあ妖精みたいなものだが、なんといっても奇怪なのは、その青さである。なにゆえこんなにも真っ青なのか、作者の意図は不明だが、触れると手が青くなるんじゃないかというほど鮮やかな青である。これをフルCGならともかく、実写と混ぜてやるというのは、なかなか勇気のいることだったとおもうが、なにしろガーガメルがあまりにもアニメ的に成功しているので、そこらへんはちょっと見事だった。
この、ファンタジーの世界の住人が現実世界にきてしまうというパターンは、よくある物語類型とおもわれる。たとえばディズニーの「魔法にかけられて」は、ディズニーのじしんに対するメタ的な目線が感じられて、かなりの傑作だったとおもうが、ともかく、ここには一種のテーマ性を見ることもできるかもしれない。つまり、実写とCGの合成という方法は、映像的な要請ではなく、脚本の構造的なものによるのではないかとおもうのである。要するに、彼らはお互いに宇宙人みたいなものであって、どのような度量衡も、照合可能な価値観も、持ち合わせていないのである。実写映像に浮かぶスマーフの鮮やかな青は、それを際立たせる。
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客観的には、ちょろちょろ部屋を動き回り、かってに盛り上がってうたいだし、善意からよけいなことをして迷惑をかける彼らはかわいいものだけど、じっさいにそれをやられて、重要な仕事なんかを邪魔されてはたまらない。彼らと親密につきあうことになるパトリックも、ときに癇癪をおこして周囲に当り散らす。スマーフは、ことあるごとに「スマーフ」ということばをそれ以外のものの代用としてつかう。スマーフしなきゃといい、スマーフすればと助言し、まるでスマーフだと表現する。それはどういう意味だと訊ねても、なにをいっているのかわからないというように肩をすくめ、スマーフ以外のことばでは表現できないというようなことをいう。僕は吹き替えで観たので、英語ではどのような文法になっているのか不明だが、こうした、膠着語的な文章のテンプレートを感じさせることばの入れ替えは、日本語をおもわせるものでもある。テンプレートさえ定まっていればどのようなことばも使用可能であり、いちおう文章としては成り立つ、そういうふうに「スマーフ」が用いられるとき、たぶん、論理的な英語話者の大多数は、ある種のストレスを感じるかもしれない。「スマーフ」ということばのつかいかたをある種の共同体言語的なものとみてもよいのかもしれないが、しかし、純朴なスマーフたちは、その言語が閉じているという事態を自覚することはない。
ともかく、その小ささ、制御のできなさから、パトリックは無意識に、これから生まれてくる赤ちゃんの姿を見て取る。そしてその混乱のなかに、父親になることの不安が浮き彫りになるのである。ファミリー向け映画として見事な展開だとおもう。
わけのわからない言葉遣い、異様な見た目、それにも関わらず放っておけない、この感覚は、パトリックが感じたように、まさしく、わたしたち人類が、わたしたちじしんより若い世代に対して覚える感覚によく似ているかもしれない。若者ことばは苛立ちを誘い、フレッシュな服装は壁をつくり、それを理解できない大人はその「ゆがみ」を正そうとする。、それを「正さねば」と考えたとき、彼は一種の権威のなかに居座っている。パトリックの奥さんがすでに子を宿しているように、わたしたちはいつでも、潜在的に「若者」を抱えている。ということは、どの地点をとっても、わたしたちは権威的な語り口で正しさを語りうるということでもある。だが、おそらくパトリックの、あるいは潜在的にひとの親であるわたしたちの不安は、そもそもそうした「正しさ」をなそうとするオブセッションからきているのかもしれない。幸か不幸か、スマーフたちは、そうした世代というものをもたない。ただ、パパスマーフがいるだけだ。その点で、彼らのほとんどは永遠に子供であるのだし、一定のものだ。しかし、その不安を唯一知るパパスマーフとパトリックは、ある夜、父になることという重い宿命において通じあう。どのような言い方をしていたか忘れてしまったが、パパスマーフは、子をもつことによって父親になるのだ、みたいなことをいう。たしかに、しっかり「父」としてのスキルをととのえ、万端の準備のさきに、「父」という価値におりたつわけではなく・・・、ひとはあるとき突如として「父」の位置に投げ込まれ、そこに漸近していくのだ。
青く小さなスマーフが部屋をうろつくことへのストレスは、いってみれば、理解できないものが理解できないままそこにあることへの我慢ならなさということだ。表面的には違和感はなかったが、実写のうえにCGがのるという方法じたいにも、こうしたことはまとわりついている。パトリックの「父」になることへの不安は、ロゴス的にくまなく世界を理解しようとする心理、正しい「父」の価値を背負おうとすることへのプレッシャーからきていたのかもしれない。だから、パトリックは、この不安をのりこえたとき、真に「スマーフ」を理解するのだ。
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