今週の範馬刃牙/第282話
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-11127039171.html
>彼にはなんらかのわがままを通すちからがあるのであり
>そしてわがままを通すことを認めるのは、彼以外のなにものかである
個人的に板垣恵介の存在連想しました。!
実際シャチとかに勝てるのは板垣恵介がいるからだし、本当にシャチと勇次郎が戦う事になると、
シャチの優位もあると思うしな~
時速20キロで泳ぎ、息を切らすなんて、シャチにとっては笑い物だろうし…
時速20キロは水中生物にとってはあまり凄く無いしなぁ
勇次郎の強さに一番近いのは武器道具を持った人間だから言うけど
武器を持った人間がシャチに勝てる確率は5分5分な部分もあるでしょ?
勇次郎もそんな物でしょ!現実的に考えたらね。
後、原理の水準でって言うなら、
オッズは偏るじゃなく、オッズは勇次郎でシャチに勝ち目は100%無いでしょうし。
板垣恵介が描いてるのだからね。それが全てだろうし。と言うわけで
>今回はあまり深く掘らないことにしておこう
板垣恵介の存在連想させる、この部分をどうストーリーに出すのか?楽しみです。^^
考えてみればナレーション説明か(・・?
余談ですが、この原理の水準がなくならないと
ピクルであろうと勇次郎の相手にならないんだろうなぁ。
逆に無くなったら克己が勇次郎に勝てたりするんだろうなぁ。
息子刃牙は無くす役割?
まあ自分が勇次郎vsピクル見たいだけですが…
この戦い何だか引き分けっぽい結末みたいな…
ちなみにいつかはりたかったリンク↓
http://togetter.com/li/153840
バキは弱さを認められない弱者の物語、だからおもしれーんだよッッ
ツッキーニさんがどんな反応するか見てみたかった^^!なるほど~と思えるし!
勇次郎が懇願した時だと思うけど^^
後、強さとは【範馬刃牙R774】我儘!!のスレ↓
http://logsoku.com/thread/yuzuru.2ch.net/wcomic/1318481820/
該当レス番号は497と516です^^
最後にもうひと話するけど、郭戦で死んだ振りされた時、悔しがったのは
ときめきを与える物では無かったガッカリ感からか!
今まで何だろう?と思ってたけど、ガッカリ感でまず間違いないよね?
以上、コメント全文。
ジュラ紀さん、毎度コメントありがとうございます。ちょっと、僕も書きながら考えないとわからないので、記事にて返信いたします。ごちゃごちゃとしてわかりにくい文章かもしれませんがすみません。
まず水中戦に関してですが、現実的にこれがどういったものになるのか、僕の科学的素養では精密に想像することはむずかしいのですけれど、まずなにより、ふつうのひとにおいては、踏みしめる大地がないということが大きいとおもいます。仮に海底に立って長時間いることができるとしても、「水中戦」は陸上でいえばいわば空中戦も同然なわけですから、ほとんど意味をもちません。そうなると基本的には浮いていることになり、向き合った打撃はほぼ無効化されてしまうのではないかと想像されます。そうなると、こちらにできることは相手の巨大なからだじたいを大地と仮定し攻撃する以外なくなります。そう考えると、スカーフェイスで花山が握撃を使用してサメとたたかったのは、理論的には正しかったのかもしれません。いずれにせよ、これは非常に魅力的な問いであって、ぜひ、その手の想定が得意なかたにシミュレーションしてもらいたいです。
僕が「原理」と呼んでいるものは、物語が紡がれているなかに一定してある仕組みのことです。そこには作者じしんの意図はもちろん、作者が意図せず、毎週深読みばかりしている熱心な読者がくみ出す新しい意味も同時に含まれています。またこの作者や読者の意図も、かならずしもわたしたちのことばでカウントし、統御しきれるものではなく、わたしたちの考えをなすさまざまな他者のことばによってぼんやりと生成されています。
板垣恵介という作家じしん、この「統御しきれなさ」を自覚し、即興的にあえて物語の流れるがままにすることで緊張感を醸し、まるで彼自身が最大の読者であるかのようにその展開を楽しみ、闘争の流動性を確保しているというぶぶんはあるとおもいます。
しかしこと勇次郎に関してはどうもそういうふうにいかない。おっしゃるとおりに、親子喧嘩をすすめるうえで最大のネックなのだとおもいます。どうしても作家の支配下にあるものとして操作してしまう、つまり、統御してしまう、そういうぶぶんは、少なからずあるのだろうなとおもいます。
この記事の僕のおもいつきでいえば、勇次郎のわがままは強さの「結果」なのではなく、同時的か、むしろ原因なのではないかと。そしてそれを保証するものが、闘争の流動性、物語の即興性から彼を省く手つきなのではないかと、そういうことですね。
だから親子喧嘩をすすめるにあたり、こう書くと不可解というか逆説的なのですが、勇次郎につかみがたさ、「統御しがたさ」をほどこさなくてはならない。完全に作者の支配化、つまり「意図」のもとにあるうちは、彼はなにがあっても絶対に負けることがない。仮に負けるようなことがあったとしても、それは決して、その他の戦士たちが属している「闘争の流動性」、これはすなわち物語を紡ぐ即興性のことですが、これによってもたらされたものではなく、なんらかの意図のもとにほどこされたものとなる。
だから、ほんとうの意味で親子喧嘩がすすんでいくために、どうしても、作家は勇次郎を手放し、流れに任せなくてはならない。「原理の水準がなくならないと」というのは、まさにこのことだとおもわれます。
しかし同時に、それらの方策も、方策として一義的な統御のもとに設計されてはならない。
その結果出て来たのが、彼をいまいる外側から「語るもの」だというのが、僕の仮説です。
それは「観衆」であり、「虎王」であったとおもいます。
まず「観衆」により、物語は多層的なものになりました。特に今回は、地下闘技場みたいな「観るプロ」ではなく、彼らが都市伝説を聞きつけてやってきただけの素人ばかりというのが非常に興味深い。闘技場の観客に比べれば、彼らはまったく他人なのであって、そうした「大衆」が参加することにより、たとえばボルトが「最強」と呼ばれるのとおなじ文脈で、このたたかいを語ることが可能になりました。仮にこのまま勇次郎がバキをボッコにして完勝しても、その勝利は身も蓋もない物語の設定条件が指示するものではなく、彼ら「大衆」が語るものとなる。何度か書きましたが、独歩の逮捕やピクル騒動や烈のボクシング参戦などは、こうした、「大衆」の参加ということの、長い準備だったのではないかとおもいます。
そして「虎王」ですが、これは作者から勇次郎への、「未知性」のプレゼントだったのかもしれないと、いまふとおもいました。
バキ世界にも虎王の技術はそれとして存在し、勇次郎じしんも知っている。つまり既知である。しかし餓狼伝の世界も知っているわたしたちは、あれがそんなほかのものと交換可能な「いち技術」などではないことも知っている。あれはまちがいなく「餓狼伝の虎王」なのであって、つまり未知的なものである、というのが僕の考えです。このことにより、勇次郎にも未知はありうるという状況の祖形が、設定可能になったのではないかと、そういうわけです。
だらだら長くなってしまいました。
リンク先ちょろっといってみました。ちょっと重くってしっかり見れてないのですが、ツイッターのほうなどは、ほんとう、なるほどなという感じです。不可能を可能にする絶対孤独的存在の勇次郎が、じつはもっとも他者(の弱さ)を必要としている・・・というおはなしでしたか。わがままは他者を経由しない限り実現しないということとも通じますね。
さて、郭海皇ですが・・・、ガッカリはガッカリでも、やっぱり唐突にへんな終わり方をしてしまったガッカリ感じゃないんですか?最後の最後までやりきれなかった不満というか・・・。というか、最後までやらせなかったのが、郭のいう「武」なわけですけど。
という感じです。長々とすいませんでした。