月組東京特別公演『アリスの恋人』 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■主演・・・明日海 りお

バウ・ラブ・アドベンチャー
『アリスの恋人』 -Alice in Underground Wonderland-

~ルイス・キャロル作「不思議の国のアリス」より~
脚本・演出/小柳奈穂子

[解 説]
 1865年の出版以来、世界中で愛読されている物語「不思議の国のアリス」をモチーフにしたファンタジー・ミュージカル。地下の不思議の国“ファンタスマゴリア”で赤の女王の“ストーリーテラー”として働く青年ルイス・キャロルは、現実世界から迷い込んできた女の子アリスとの出会いをきっかけに、夢と現実をめぐる戦いに立ち向かうことになる・・・・・・。主人公とヒロインが白ウサギやチェシャ猫など、おなじみのキャラクターと繰り広げる冒険と恋の物語を、ポップにスタイリッシュに描く作品です。






以上、公式ページ より。





月組東京特別公演、『アリスの恋人』を観に日本青年館にいってきました。12月5日13時開演。



宝塚歌劇団は、本拠地の宝塚市と東京日比谷にそれぞれ宝塚大劇場と東京宝塚劇場という専用の巨大な劇場を抱えていて、一年中、ほとんど毎日、花月雪星宙の5組が、一定の期間、交替で公演を続けている。いまある東京宝塚劇場ができる前、宙組が新設された1998年以前までの旧東京宝塚劇場では劇団以外の芝居も催されていたようだけど、そこからは、1000days劇場という仮設の劇場を経由して、東京での通年公演が可能になった。

それを本公演として、それ以外にも、地方公演・全国ツアーなど、劇団は数々の仕事をこなしていて、いったいいつ連休をとっているんだろう、いつ台本暗記してるんだろうとか、まあ余計なお世話だろうけど、心配になるくらいですが、ともかく、そのなかで、宝塚大劇場に隣接するバウホールという小さな劇場での公演がある。本公演は、要するに組の序列に沿った配役、すなわち、トップさんが主演で、最近は娘役のほうは流動的なこともあるようだけど、基本的には娘役トップがヒロイン、さらに男役の二番手、三番手あたりまでの役どころも決まっている。最近はほんとう、流動的というか、大抜擢も多いので、ひとくくりにはいえないのだけど、まあ原則的にはそうなっている。

しかしバウホールでのお芝居では、主演がトップであるとはかぎらない。というか、各本公演必ず行われる、下級生のみによる「新人公演」のように、トップ路線ということを考えたときは、むしろ若手の実力をつけるいい場所という感じなのかもしれない。今回の明日海りおは、月組では3番手格なのだけど、今回はこのように主演であり、ヒロインの愛希(まなき)れいかもかなり下級生だけど、こうして、堂々と中心に立ち、うたい、芝居をつくりあげるということを、トップになる前から経験できるわけである。これももちろんひとくくりにはいえないけど、演出や脚本的にも、わりと実験的な、あるいは小劇場的な試みも見られる気がする。本公演とは別個の、劇団の変わった相が見える、そういうところである。

そして、そのバウホールでの公演は、東京では日本青年館で開かれると、こういうわけです。





主演の明日海(あすみ)りおは、ちょっと、宝塚の次代を担うとか、そんな表現ではとてもたりないような、すさまじい逸材である。彼女に関しては、「華がある」と形容すべきではない。「華がある」という表現の内容を説明するときに、彼女を見せるべきである・・・そんなふうにいってもいいかもしれない。出てきて、まんなかに立って、ちょっと微笑むだけで、会場全体が掌握されてしまう、そういうスター性なのである。こうした、なんだかよくわからないけどすごいひとを見たとき、説明することばをもたないわれわれが、やむを得ず、応急的にくちにする形容、それが、たぶん「華がある」ということなんだとおもう。





演目は『アリスの恋人』・・・不思議の国のアリスをモチーフにした現代版ファンタジーだという。ポスターのふわふわした感じも含めて、なにか軽い、ラブコメ的なものを想像していったのだけど、まあすごかった。特に第二部はまばたきを忘れてコンタクトが乾燥してとれそうになるほど見入ってしまった。だいぶ宝塚から離れていた僕がいうのもなんだけど、ずいぶん現代的な世界観のおはなしであって、こんな種類の感動が宝塚から得られるなんて、申し訳ないけど想像していなかった。ちなみに、観劇中は村上春樹や『漂流ネットカフェ』が浮かんできた。

ディズニー作品にもいえることだけど、当初は独特であった方法がしっかりと確立されていくにつれて、そこには様式美が生じてくる。様式通りにやることじたいがすでにある種の達成をなすのである。ただ進化を続ければよいともいえないときもある。

しかし、様式は、体験という面では、権威を帯びているので、硬化している。様式というのは、要するに反復のことなのである。ディズニーは『魔法にかけられて』というメタ的な作品でこれの乗り越えを示していた。典型的プリンセスが現実の世界にやってきてディズニー的ふるまいをとるとどうなるか、というおはなしなのである。もちろん、わたしたちのある面は、その反復をこそ期待して映画を見るのだが、またある面では、たしかに、マンネリを打破した方法の更新を俟ってもいるのである。




魔法にかけられて 2-Disc・スペシャル・エディション [DVD]/エイミー・アダムス,パトリック・デンプシー,ジェームズ・マースデン
¥3,990
Amazon.co.jp



明日海りおは「ルイス・キャロル」という名前の青年である・・・。もちろん不思議の国のアリスの作者なのだけど、不可解なことに、作中周囲の人物たちは皆彼のことを「ルイス・キャロル」とフルネームで呼ぶのである。まあこれはペンネームのようなので、深い意味はないとおもうが、その響きは、その名前が一種の記号なのではないかという推測をさせる。

そして、愛希れいかは、この、わたしたちが息づく世界の、つまり現代の住人であって、児童書の編集をしている女の子である。酔っ払ってマンホールにおちた彼女はわたしたちのよく知る帽子屋やチェシャ猫や赤の女王のいるワンダーランドに落ち込む。どう見ても、〝あの〟ワンダーランドにおもえる。

ルイス・キャロルはその世界の住人であって、わがままの赤の女王におはなしをきかせるストーリーテラーという価値にある。が、はなしの続きが書けない。そこにやってきたアリスになにかこころの深いぶぶんを刺激され、ふたりはおはなしを書くようになると、そういう流れである。で、このルイス・キャロルというのはあのルイス・キャロルではない。このワンダーランドは名前のない、「アリスの恋人」として相対的に表現する以外ない彼の夢のなかなのである。

現実から逃げ出した彼が、もし、月の消えるまでに目覚めてしまえば、この世界は消えてなくなる。星条海斗演じるナイトメアはそうさせまいとする。なぜなら、ルイス・キャロルの、死んだ妹の再現としてあらわれている赤の女王は、唯一、ナイトメアを実在のものとしてあつかってくれた、かえがたい人物だったからである。

ナイトメアは、これはおまえにとってもいいはなしじゃないかと囁く。ここは彼の夢のなかなのである。現実がいやなら、ここにとどまっておればよい。

しかしルイス・キャロルは、現実に戻らねばならないという。ここの動機付けというか、なぜ現実に戻らねばならないのかというところをどうするのか、僕はかなり緊張してこたえを待っていたのだけど、彼はいったのである。細部はあいまいだけど、こんなふうだった。夢は、現実をたたかうものだけが特権的に見ることの許されるものなのだと。

僕がなぜ最初に方法に自覚的になることについて書いたか、また唐突にディズニーを持ち出したか、これでわかってもらえたとおもう。僕はこれをきいて、ここまでの芝居を見ながらずっと感じていた既視感、ルイス・キャロルとの精神的重なりの正体がわかったのである。これは、ディズニーランドの帰り道、あるいは、お芝居を見終わって、「すみれの花」を聴き、徐々にしょうもない現実に引き戻されるときの、夢から覚めるあの感覚だったのである。

お芝居が一回的な生ものであるということは何度か書いた。それは理論的にもそうだし、わたしたちの体験という意味でもそうだ。ディズニーランドで遊ぶ体験についても同様である。それは、ほかのどのような記憶とも交換のきかない、固有のものである。僕がみた「アリスの恋人」は、ほかのどの日程をとっても、あるいはまったくおなじ当の日の芝居を見たべつの人物のものをとっても、とりかえることができない。みているその場所の、その瞬間にしか働かない、刹那的な体験なのだ。キャトルレーヴでの、少なくとも僕や連れにしては異様な「購入衝動」は、決して所有することのできないそれらの記憶の、その影の、その残滓をどうにかかたちにしてとどめておきたいという防衛行動なのである。しかし、お芝居がお芝居として機能する、つまり、映画やテレビドラマにとってかわられないのは、まさしくその「一回性」にこそ、「体験」のダイナミズム、生気が宿っているからなのである。

この体験は硬化してはならない。所有してはならない。コピペしてはならない。わたしたちがコピペに似た行動をとるのは、くりかえすようにあくまで生理的な防衛衝動によるものなのだとおもう。

しかし、現実から逃げて、創作の手をとめ、夢に入り込みこれを所有したルイス・キャロルは、彼の夢の世界を硬化させてしまったのである。

だから、彼が夢を夢として見続けるためには、どうしても、「夢を見続ける」ということをあきらめなくてはならないのである。

では夢を所有しないとはどういうことなのか。それが、現実と(現実で)たたかうということだったのである。

こういう感じ方はどうかとおもうが、僕はこれがなにか、帰り道にうんざりしている僕自身につきつけられたことばのようで、身につまされてしまった。ごくふつうのまともな大人なら、そんなことは当たり前なのかもしれないが、僕なんかは完全にこのルイス・キャロルよりのにんげんなので、彼の発見・気づきは、そのまま僕の発見にもなったのだった。

これは、夢のために現実を生きる、というのともまたちがう。ここにあるのはむしろ、そうしたデジタルな断絶の否定である。だから、ルイス・キャロルとアリスは現実世界でふたたび出会う。ここでアリスが表象するのは夢の世界の実在感、あるいは「予感」であり、限りない両者の接近が、ふたりの再度の出会いには表意しているはずである。わたしたちは現実を生き、なおかつ、夢を生きるのである。







明日海りおに関してはともかくとして、バウホール(青年館)公演というのは、手作り感というか、少ない人数みんなでつくっているという感じもすばらしい。たんに、ふだんはあまり目が届かない下級生にスポットライトがあたるというだけではない、普段よりもさらに、ひとりひとりの尽力の芝居におよぼす影響というものが、皮膚的に感じられるのだ。

みんなすばらしかったのだけど、まずはナイトメアの星条海斗(せいじょうかいと)だろうか。迫力的にはスティーブン・セガールレベルのものであり、ちょっとほかにこの手のひとを僕は思いつけない。マフィアのボスとかやらせたら、少なくとも月組ではいちばんうまいだろう。それだけでも無二的なのだけど、今回の役どころ・・・小さな赤の女王のそばに侍る姿はほんとうにはまっていて、ナイトメアのくせしてどうしようもない人間性みたいなものに翻弄されるせつなさにはぐっときた。僕では「アルジェの男」しか知らないのだけど、いかにも星条海斗が演じる役のものがいいそうなせりふに満ちており、劇中それをまねされるところもある。こんなところもメタ的だった。それだけはまり役ということだろう。

紫門(しもん)ゆりやさんは「アルジェの男」新人公演で主役をつとめたひとだけど、これもよかった。ちょっと瀬奈じゅんに似ている気もするけど、独特の風貌で、下級生ながら非常に「華がある」。登場すると舞台がぱっと開く感じがするのだ。帽子屋なので、基本的にふざけてるのだけど、彼や、チェシャ猫、ヤマネ、ジョーカーの四人が、スターウォーズでのC-3POR2-D2のようにおはなしを深刻すぎないようにしているぶぶんもあり、たいへん重要な役どころだったとおもう。



昨日行った新宿紀伊国屋一階にある柳花堂のおじさんによると、DVDというのは最近では2番手以上のものしかされないらしい。月組の人事が霧矢大夢以降どうなるかはわからないけど、これはぜひDVD化してもらいたい。



ともあれ、ちょっと信じられないくらいすごいできだった。月組のみなさん、貴重な体験をありがとうございました。




アルジェの男/Dance Romanesque(DVD)
¥10,500
楽天

明日海りお Vol.6 (宝塚パーソナルブック2010) (単行本・ムック) / 阪急コミュニ...
¥1,700
楽天