最近のバキ考察まとめ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

範馬刃牙は休載です。




告知ミスらしい。本誌の目次には「前号『範馬刃牙』最終頁で誤って掲載を予告してしまいました」とある。

だとするなら、これは急な休載ではなく、前から決まっていたものということになる。

作品そのもののすすみを見てもわかるように、現在バキはかなり即興的なしかたで書かれている。それを自主的に中断するというのは、逆になかなか勇気のいることのようにおもえる。これはむしろやむを得ない休載と考えたほうが自然で、ここにきて作者も、どうすすめていけばいいか、考えあぐねているのかもしれない。



勇次郎と主人公のたたかいがはじまるということは、バキ以上に、作者にも大きな決意を求めるものである。

勇次郎は「誰よりも強い」という設定にある。

もし彼が「ほとんどのばあい最強である」、つまり、「ときには負けることもある」という程度の強さであったなら、バキはこんなに苦労していない。なぜなら、それはまさしく、彼ら以外のすべてのキャラクターがいる位置なのであり、その原理のなかでは、強いものと出会っていないだけの無敗の王者も存在可能なのである。

だとするなら、バキが父を超えることは構造的に不可能である。父は人類すべてに、その存在の交換可能をつきつける絶対者である。だから、バキのとりうる訓練法は、世界中のすべての存在をひとつひとつぬりつぶし、父に漸近していくという以外なかった。これは、彼がゴキブリを師匠とよぶ場面にすべてあらわれているとおもう。ここでとりあげられたものがよりにもよってゴキブリなのは、そういうわけがあるのである。

だけど、どれだけ時間を費やし、唯一計量可能な強さの父に数値で迫ったところで、まさしく漸近線のように限りなく近づくだけ、彼を超えることはできない。

勇次郎の世界観においては「他者」がない。このことはくりかえし論じてきたので、ここではくりかえさない。

彼の世界では「おもいどおりにならないもの」が想定できない。

対してバキは、「おもいどおりにならないもの」をそのままに受け入れ、学び、乗り越えることで、父に近づいていく。それは、父の存在で交換可能である世界のある場所を訪ね、スケッチするということである。

この構図は、じつは先週の虎王にいたる攻防と同じ形状である。

わずか0.5秒のとりあいの末、バキは常人離れした反応速度で無意識すら乗り越える勢いで、父の動きに反応しようとしていく。だから、父の「カウントゼロ」というふるまいは、手ではなく腰を落とした「威力を宿さない抜拳」として翻訳されたし、寸剄に対してはカウンターというしかたで対応した。

そう考えると、バキのふるまいは突飛なものではなく、いつもどおりなのである。そして、この理路ですすんでもやはり、バキは父よりさきに動くことはできない。

この「到達できない父」の像は、わたしたちにとっての「届かぬ他者」のものとよく似ている。

わたしたちは、他者の身体、あるいは精神の作用をそのまま知覚することはできない。相手の立つその同じ場所に立つことはできない。

にもかかわらず、たとえば恋愛を通して、わたしたちはそこにたしかな存在の予感を覚える。そのひとがたしかにそこにいて、たしかにわたしの目を見てはなしている、それが、理性を超えて確信される、そういう瞬間が我々にはある。

その兆しをたよりにただひたすら近づいていくときだけ、わたしたちにとっての他者は生き生きとしたものになり、幻ながらくっきりと現前する。

僕のような凡人の理論をこのような超人の家系にあてはめるのもどうかとおもうが、しかしバキにとっての「地上最強」たる父・範馬勇次郎がもっとも明瞭な輪郭を描くのは、バキが届かぬことを知りながらなお、そこにたどりつけそうな予感を抱え、接近を続けるときだけなのである。

文学作品のように、つまり昨日論じた「第三の新人」のように、たしかにおもえるのに届かないかもしれない恐怖を描いたり、決意ののち手が届かず敗北したりということを描いているわけにはいかないかもしれない。いや、べつにそれでもかまわないのだけど、たぶん、少年漫画、また格闘漫画という様式は、そういうことをかんたんには許さないだろう。

しかし、この物語は、文学の外的なありようをあえて漫画内に取り入れようとする。つまり、私と他者のやりとりに、それを解釈する第三者、それを「語るもの」、すなわち都市伝説を聞きつけた観衆を導入するのである。小説は、読者、あるいは批評家が、たとえば「届かぬ他者」を論じたとき、いちど括弧でくくられる。昨日書いた吉行淳之介の「驟雨」でいえば、わたしたちは山村英夫の「たしかなもの」への恐怖を学術的に読みかえることで、ある意味他人事として、それを経験することができる。たしかに、わたしたちにとっても他者は届かぬものであり、予感にしたがって動けば裏切られることもあるかもしれない。だが、山村英夫の経験における「他者」は、感情を移入するさきなのであって、わたしたちじしんの他者への「届かなさ」ではない。だからこそ、批評はこれをクールに、明哲に読み解くことができるのである。

そのようにして、このたたかいの次元はひとつくりあげられることになった。もちろん、彼ら観衆の目では範馬の技を見ることすらほとんどできない。しかし重要なのは彼らがどのようにそれを見るかということではなく、そこにそれを見る(読む)流れがあって、どのようにも語られうるということなのである。この兆しは、花山と烈で解釈がわかれたバキ対ピクルのときに、すでに見えていたものとおもう。しかし、勇次郎では、あたまが高いほうが勝ちなのであり、物語内では彼に反論できるものなどいない。こうしたこともことをややこしくしていた。だが、今回の観衆はまったくの素人であるというところが、これまでとはちがう。彼らは、要するに単行本や本誌を手にあーだこーだいっているわたしたちなのである。

いずれにせよ、勇次郎にも触れることすらできない「わたしたち」が物語内にあらわれたことで、親子喧嘩は、死刑囚たちのように各々勝ちを主張する「厳しい」ものではなく、「語られるもの」となった。もちろん、勇次郎には彼らを皆殺しにして「解釈するもの」を滅することはできる。だが原理の次元で、すでにこのたたかいは批評・解釈こみの「証言可能」なものとなったのである。


もちろん、メタ的な操作で物語の次元がひとつあがったとはいっても、バキにとって相変わらず父は「到達できない他者」のままなのであり、勇次郎の強さがかわるわけでもない。しかしそれは、「バキにとっては」ということなのである。(現実的には「わたしたちにとっても」だけど)

ともあれ、今回の虎王は、バキが勇次郎に漸近するしぐさの端的なあらわれであって、なおかつ、その距離が、攻撃のタイミングが一致するほど、つまりほぼゼロになっていることを示すとみていいだろう。そして、侃侃諤諤、僕のこの見解も含めたさまざまな解釈が「観衆」を通して行きかうことで、親子喧嘩は新しい場所にすすんでいく。今回の休載はそれを待つものであると見るのもおもしろいかもしれない。






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