■『猫の客』平出隆 河出文庫
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「はじめ“稲妻小路”の光の中に姿を現したその猫は、隣家の飼猫となった後、庭を通ってわが家を訪れるようになる。いとおしく愛くるしい小さな訪問客との交情。しかし別れは突然、理不尽な形で訪れる。崩壊しつつある世界の片隅での小さな命との出会いと別れを描きつくして木山捷平文学賞を受賞し、フランスでも大好評の傑作小説。」裏表紙より
河出書房新社の「猫になりたいフェア」で展開されていたもの。
調べてみるとこの方は詩人らしく、いわれてみると、思潮社の現代詩文庫のタイトルで見かけてことがあるような気もする。丹精な、静謐なことばをつかうかたで、特に風景描写が得意なのかもしれない、計量的なものではない、知覚されたものの凹凸や濃淡、手触りをそのまま文章のかたちに編んでしまったかのようだ。
小説ぜんたいの主調はもちろん猫で、猫は、くりかえしかかれているように、境界をまたいでやってくるものでもある。境界は区分を意味し、こちらとあちらの差異をつねに明らかに、つきつけるもの。このことと「猫」については、河合隼雄の『猫だましい』にくわしく書かれてある。
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デジタルに別れて存在してあったものを、猫がアナログにつなげてしまうことも、それはじっさいあるかもしれない。あるばあいに僕らは、猫を介して笑顔を交わすだけで、言葉の通じない異国人と友人になれてしまうかもしれない。しかし本作に登場する猫の「チビ」の飼い主は、あまりそういうことを好まなかった。チビが作者とその妻の家へと繁く通うことをよくおもっていなかった。
「断りなく可愛がられたことが、憤りの第一の理由だろうか。だが、可愛がられたこと自体が、悲憤につながるものか。断りなく、ということならば、断りを入れればどうなっていたのだろうか。外に出されている猫は、無差別に境を越える」113頁
こうしたことに、作者夫妻はチビの死後気づく。飼い主のほうでも、死後になってはじめて気づいたということなのかもしれない。いずれにせよ、飼い主の「憤り」という身振りにあらわれるものは、境を行き来する猫の本質を束縛する、所有の感覚だ。
チビが死に、自由に行き来するということができなくなることで、飼い主は完全にチビを所有するに至る。それは、作者にしても悲しいことだ。景気が悪くなり、季節のうつりかわりとともに次第に世知辛い世の中となっていくことが、その寂しさと美しく、もの悲しくシンクロする。猫が間接的に示すのが古き良き共同体であるなら、猫の死とそれの所有があらわすのは淡白な自己責任だ。逆説的なようだが、自分勝手に境界を越えていく猫の存在は、都会的な孤独より、むしろ他者との溶け合いをあらわすのかもしれない。
本作のタイトルは『猫の客』だが、末次エリザベートのフランス語訳では「天からやってきた猫」という題名になっているらしい。どちらにもいえることは、所有物ではない、ゲストとしての、やってくるものとしての猫だ。
猫のいない、閉じた空間がある。空間は境界で区分されており、基本的には相互不干渉だ。そこへ、猫がやってくる。猫は境界を越えて閉じた空間を行き来し、その存在で、門を開け、境界をうすめて空間を溶け合わせる。しかし、主観的には、猫は“どこか”からやってくるのではなく、どこからともなく、最初からぜんたいをとかしたものとして、事後的に境界を破壊したと認定されるものとして、あらわれる。この猫が“どこか”からやってきたのだとすれば、彼は(あるいは彼女は)どこかの閉じた空間の住人、あるいは所有物となり、その存在は「閉じた空間」を背負ったものとなるだろう。本質的なエトランゼとしての「猫」は、つねに「やってくるもの」なのだ。
そういうわけで、最後にひとことだけ書いておくと、恒常的に猫を飼っているという愛猫家には、あまりむかない小説なのかもしれない。しかし、飼うことはないが、「猫」という存在にはどこかしら好ましいものがあるとおもうひとの気持ちには、きっとぴったり沿うことになるんではないかとおもう。