■『下流志向~学ばない子どもたち 働かない若者たち』内田樹 講談社文庫
- 下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)/内田 樹
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「なぜ日本の子どもたちは勉強を、若者は仕事をしなくなったのか。だれもが目を背けたいこの事実を、真っ向から受け止めて、鮮やかに解き明かす怪書。「自己決定論」はどこか間違いなのか?「格差」の正体とは何か? 目からウロコの教育論、ついに文庫化。「勉強って何に役立つの?」とはもう言わせない」裏表紙より
高橋源一郎の書評などで、内容というか本書の理路はほぼ把握していたので、それほど文庫化を待っていたということでもなかったのだけど、見つけてからすぐ手に入れたのだから、やっぱり待っていたんだろうな…。おもしろかった。このひとの書くものは、このひとじしんに肯定的かどうかということをたぶん抜きで、いつでもおもしろい。整然とした論理に基礎付けられた物言いはとにかく説得力抜群、なにはともあれ一級の「書き手」だとおもう。ちなみに本書は経営者を対象にした講演を文章におこしたものです。
“志向”というのは、広辞苑には次のようにある。
・【志向】‐①心が一定の目標に向かって働くこと。こころざしに向かうこと。また、こころざし。
したがって本書のタイトルは「下流へと(すすんで)向かっていくこと」ということになるが、あとがきにはこうある。
「ただし、厳密に言えば、これを「志向」と呼ぶのはむずかしいかも知れません。「学ぶこと・労働することを拒否する人々」は必ずしも自分の意思でそうしているわけではないからです。彼らはそのような意思を持つようにイデオロギー的に誘導されているのです」274頁
本書のおはなしの中心であり、読んでいてもっとも目からウロコ、というかもはや感動的な指摘は、ひとびとがそのように制度的な誘導で、自主的に学びや労働から離れている、等価交換の経済的発想の原則に基づき、「学ばない」「働かない」というふるまいを、ある種の決断とともに選択的に、主体的に“実行”している、というところです。
まず著者は、諏訪哲二の『オレ様化する子どもたち』という書物を引き、現代の子どもたちはすべて「等価交換」の原則にしたがい、学校や教師に接しているという。
- オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)/諏訪 哲二
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子どもたちはある一定以上の時間、机にしばりつけられ、じっとしてはなしを聞き、あるいは黙ってノートをとるという「苦役」に対し、「不快」を貨幣として支払っている、というふうに考える。学校に入る以前から経済的な合理性に慣れ親しんでいる彼らは、「学び」の買い手、消費者として机に座り、ふところに「不快」を準備して、これをいくら支払うべきか、教師のふるまいや授業内容などを査定し、品定めをしている。どうしてそのような思考法が身についているかというと、子どもたちのはじめの社会参加が多く「労働主体」ではなく「消費主体」であるところによると著者は(諏訪哲二は)指摘する。家事のお手伝いではなく「買い物」をして、大人と同じ扱いをされることで、現代の子どもは最初の社会的自己規定をすることが増えている。
そして教育を商取引の現場のようにとらえ、等価交換しようとしたさき、じっさいには貨幣などもたない子どもたちが支払うのは「不快」だ。この貨幣の起源を、内田樹は家庭での両親の「疲れ自慢」に見る(特にこのぶぶんは、僕はくりかえすように高橋源一郎の書評で読んでいたが、明察としかいいようがないとおもう)。サラリーマンの家庭では、子どもが父親の一生懸命働いているかっこいいところを見る機会は少ない。給料も銀行振り込みであって、「お父さんがいっぱい働いて家計を支えている」ということを実体的に表現することはむずかしい。
「その結果どうなったかというと、父親が家計の主要な負担者であるという事実は、彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。ものを言うのもつらげに、不機嫌に押し黙ったままドアを開き、ものうげに服を脱ぎ棄て、妻や子からの語りかけにも返事をせず、ひたすら自分一人の不快だけを気づかっている様子から、家族たちは彼が無数の不快に耐えて家計を支えているという厳粛な事実を推察することになります」64頁
妻や子どもたちもこれにならえば、誰が最大の功労者であり貢献者かということは、どれだけ多くの「不快」を支払ったか、あるいは支払っているように見えるか、ということで決まってくる。
子どもはこのようにして、「不快」を貨幣にして、本来はなにも考えず、ユダヤ人のように、遅れてやってきたものとして、端的にいえば「あれ、おれ、いつのまにか学んでる」という具合に、内田樹いわく「時間的な現象」であるべきところの教育を、無時間的な等価交換の原則にしたがって購入する。等価交換は、イコールやら矢印やら、記号を用いればいくらでも空間的に表現可能だが、教育はそうではないのだという。
「『何の役に立つのか?』という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると『私』が決定したものは有用であり、無用であると『私』が決定したものは無用である。たしかに歯切れはいい。では、『私』が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょう?」90頁
これは、いわれてみればあたりまえのことだ。だって、なんの役に立つのかよくわからないから、即答できないからこそ、僕らはそれを学ぶはずなのだから。
はなしが労働にうつっても、書かれていることは基本的におなじ。ニートもやはり制度的に誘導され、等価交換のモデルにしたがい、すすんで労働から離れていく。しかしここでもやはり、等価交換は無時間的なものだが、労働はそうではないのだった。
これらのことは、竹田青嗣のいうところの哲学の定義に正しく、「現在までのところ誰もが納得せざるを得ない原理の呈示」ということで、問題を解決するための特に明確なこたえが書かれているわけではない。しかし、これでもって本書を無意味なもの、ただのことばの戯れほどのものだということはできない。本書を読んで、なるほどと説得されるなりなんなり、読者が腕を組んでものを考えるその個々の営みが、ひとつの現象というか、思索のムーブメントとして波立つところに、仮に意味はなくとも、なんらかの可能性が潜勢している。竹田青嗣は本書とはまったくむかんけいな、たんに僕の好きな思想家で、じっさいはなしの内容もむかんけいといっていいのだけど、『人間の未来』に次のように書いている。
「われわれはここで、一つの重要な選択肢の前に立っている。われわれは新しい『物語』を設定する必要に迫られているが、それは『理想理念』としての『物語』ではなく、現代社会と資本主義の『正当性』の理論である。つまりそれは、世界はかくあるべきという特定の理想の『物語』ではなく、世界が少なくともこのようなものなら、それについては誰もが納得するほかないといった、合意の普遍性の理論にほかならない」人間の未来‐296頁
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本書で内田樹は何冊もの書物を援用し、まえがきにじぶんの創見といえるようなものはほとんど書かれていないとまで言っているけど、それじたいはべつにたいした問題ではないとおもう。「世界はどうもこういうことになっているらしい」という感覚の到来こそをもっとも歓迎すべきであって、個々の子どもやニートの例をあげて反論したりというのは、ちょっとあたらない気がする(べつにそういう反論を目にしたわけではないが…)。おなじようにして、著者は質疑応答の際に具体的に「おせっかい」が有効であるということを書いているけれど(くわしくは本書を読んでください)、これは原理の解説であるから、じつは具体的な正解というのは、具体的な“言い方”は仮にできたとしても、ありえないとおもう。つまり、こたえもまた原理的なものにならざるを得ないのだから、実用書チックな解答はそれこそ原理的にできないんじゃないだろうか。そして、本書に「けっきょくどうすりゃいいの?」という問いかけをするのは、それこそここに口を極めて書かれている無時間的な消費者マインドというものであって、読者は胸のうちに起こった納得の感覚や否定の感覚を大切に、長いスパンで考えていくのがいいんだろうなーとおもった。
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