月組東京公演『エリザベート』 | すっぴんマスター

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三井住友VISAミュージカル
『エリザベート』-愛と死の輪舞(ロンド)-

脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ
音楽/シルヴェスター・リーヴァイ
オリジナル・プロダクション/ウィーン劇場協会
潤色・演出/小池修一郎

[解 説]
 上演回数708回、観客動員数170万人――今や、宝塚歌劇を代表する人気ミュージカルへと成長した『エリザベート』。一人の少女がオーストリア皇后になったことから辿る数奇な運命に、黄泉の帝王という抽象的な役を配した独創的なストーリーから成り、美しい旋律で彩られたミュージカル・ナンバーは高い音楽性を持つ。世界各地での海外上演に先駆けて上演された1996年の初演より7度目の上演となる今回は、月組での上演。ルキーニ、エリザベートを演じてきた瀬奈じゅんが、満を持してトート役を演じる。

公式サイト より転用)




『エリザベート』そのものは大好きで、何回も観ているつもりだったけど、よく考えてみると中学生か高校生のときに宙組の公演を観て以来なのだった。


そういうわけで、僕のなかではたぶん姿月あさとのトート、花總まりのエリザベートがスタンダードになっているので、おそらくこのミュージカルを観るときにはつねにこのひとたちとの比較がおこなわれている。よくもわるくも。


で、世間的にはどうだかしらないけど、それと同時にこのときの宙組の芝居は僕のなかではまちがいなくダントツの出来ということになっている。特にどこがというと、それはやっぱり姿月あさとの、ソニー・ロリンズのテナーのような歌唱だけど、それ以外のあらゆる点においてもこれはたいへん優れていた。とおもう。フランツ・ヨーゼフを演じた和央ようかのあのでくのぼうな感じ、紫吹淳を除くと湖月わたる以外ではあの当時誰も体現不可能だったルキーニの狂気と諧謔、朝海ひかるのイノセントな透明感…。そして、個人的にはあまり好きではなかったのだけど、やっぱり花總まりなんです。あのひとは、やっぱりすごかったなと…。


こういうことは実はあとになって冷静になってから気づいたもので、今回月組の芝居を観るまではじぶんのなかでこういう図式ができているというのはあまり自覚していなかった。


そして二回の観劇を終えてよーく考え、わかったのは、こういうことはやっぱり数量的な比較では計れないのだなーということだった。というのは、まず最初に凪七瑠海のエリザベートを見たときの感想は「やっぱり花總まりはすごいひとだったんだなー」ということだったし、「最後のダンス」ラストのソロをうたう瀬奈じゅんを見て僕は姿月あさとのあの高音を思い出していたのです。しかし、それにも関わらず、僕は「宙組公演と比べて落ちるな」とかいうことは微塵もおもわなかったのです。じぶんでもこれはどういうことなのかよくわからなかったけど、よくよく考えれば文学や音楽に触れているときはこんなことは当たり前のことで、芝居を観るときだけそれを適用しないというのはどう考えてもおかしくて、要するに月組には月組の「エリザベート」があってしかるべきなのです。



エリザベートそのものの、つまり物語としてのエリザベートも僕は当然大好きで、翻訳だとか音楽だとか演出だとか、あらゆるフィルターを通過して、いかに物語が表出して僕らの五感のすぐ手前にやってくるかということが「お芝居」の出来というものだと仮にしたら、役者さんのアビリティというものは小説でいえば文体みたいなものにあたるのかもしれない。ところがじっさいには文体と物語というのは表裏一体、分離して考えられるものではない。物語のないところに文体があるわけがなく、すばらしい文体だが物語が皆無という小説もありえない。とすれば「お芝居」というものもそうしたものであると考えるのが自然で、「エリザベート」という確固とした演ずべき真理のようなものが言葉の壁やら演技に対するアティチュードのちがいやらの向こうに見え隠れして、いかにこれを“正確”につかんで引き出すかということは、ちょっとちがって、ウィーンでやろうと東京でやろうと、そこにあらわれているものはすべて独立した一個のコミット可能な「世界」であり、僕らはたぶん、こうしてくりかえしさまざまな演者でくりかえし顕現される物語をそのたびに新しいものとして接して、必要なら宝塚独特の、特定の役者さんへの固着ということまで含めて、新鮮な気持ちで観るべきなんだろう。



もっと具体的なはなしをすると、まず宙組から大抜擢をされた凪七瑠海さんでしょうか。もとは男役さんらしくて、これまでの、白城あやかだとか大鳥れいだとか白羽ゆりだとか、なんの留保もなく美人といえるひとたちと比較すると、最初に顔写真を見たときの印象ではなにか軽すぎるような感じがして、正直いって僕の私淑する小池修一郎の考えていることがよくわからなかった。閉鎖的で必然的に競争心をあおる宝塚独特のシステムを考えても、不自然なくらいのこの大抜擢はやっぱりヘンだった。凪七瑠海が月組で、少なくとも「とてもやりやすい」ということはおそらくありえないだろうとおもえたのです。


背後にどんな過程があったかはわからないけど、しかしよくよく考えてみるとこの、おそらくは嫉妬と羨望を同時にあびることとなった状況はまったくエリザベートそのものといってよく、下手をすると小池修一郎はエリザベートの孤独感をもっともわかりやすく演者に与え、かつ宝塚ファンの気質までも考慮にいれて、すなわちゴシップにいろいろな推測をしている多くの観劇者の「凪七瑠海像」に沿わせて共鳴を起こさせるようにと、このキャスティングを考出したのかもしれない。


それはともかくとして、ほんとになんの誇張もなく、このひとのエリザベートはよかった。年齢やそれにともなって獲得されていくある種の「悟り」に応じて次々と声を変えていくこともよくできていたし、なにより子供から壮年までを演じねばならないこの役を驚くほど手際よくこなしていた。「私だけに」は圧倒されたし、老いたフランツとのデュエット「夜のボート」も、はっきりいって感動した。お恥ずかしいはなし、僕はこんないいうたが「エリザベート」にあるなんて知らなかった。最初はちょっと小さすぎるとおもえた顔も結婚をしたあたりから非常に高貴な“小ささ”に見えてくる。



「エリザベート」という物語は、エリザベートじしんのなかにあったエロスとタナトスのたたかいを、彼女をじっさいに殺害したルキーニという狂気の男が「“死”との恋だった」と解釈するという構造にある。語り手はルキーニであり、エリザベートの抱える死への欲動はトートや黒天使というかたちで現出し、「角度をかえてみればまさに“死”が世界を操っている」という感覚が、観る側にはとても大切だ。だから黒天使は一般のひとびとにまぎれてまさに滲み出るように突如としてあらわれるし、トートが登場する場面のひとびとはマリオネットのようにかたい動きとなる。これはダンスなどの演者のふるまいのみならず音楽にもよくあらわれていて、たとえば予感的なエリザベートの結婚式は不協和音で締められている(たしか)。


“死”=トートはそのようにたいへん抽象的な存在であるが、瀬奈じゅんの感じも僕はわりと好きかもしれない。トートはなんだかえたいのしれない“死”という概念の具象である(死神とはちがうのだ)。瀬奈じゅんのトートは冷ややかさとともにどこか弱さも感じられる、なにか人間くささすらあるようなものに僕は感じたが、くりかえすようにこういうのもありかなーと、というか「ありなんだなー」というのが正直な感想です。


ルドルフは役替わりということで三人が演じているようですが、僕が見たのは遼河はるひと明日海りおでした。個人的には明日海りおのほうが好きかなー。遼河はるひさんはトランペットのような声量の持ち主で、それじたいはすばらしいことなのだが、「闇が広がる」の瀬奈じゅんとのデュオでは遼河はるひさんの声が勝ってしまい、ハーモニーがちょっとアレな感じにおもえました。



以前も書いたようにこの作品はどちらかというと宝塚っぽくないので、初心者にもオススメなのです。今回はもうおわってしまいますが…。次もあるなら観たいな~



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