『敗戦後論』加藤典洋 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『敗戦後論』加藤典洋 ちくま文庫


敗戦後論 (ちくま文庫)/加藤 典洋
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「『戦後』とは何か?敗戦国が背負わなければならなかった『ねじれ』た国のあり方から、われわれはどのような可能性を受けとるべきなのか?自国の戦死者300万への弔いが先か、被侵略国の犠牲者2000万への謝罪が先か。発表後、大きな反響を巻き起こしたラディカルな議論の原点が、戦後60年経ったいま、ここに、文庫で蘇る。『靖国』問題や『政治と文学』について考えるための、この先の指針となる基本書。
解説 内田樹」裏表紙から



こんなおもしろい論文を読んだのは久しぶりだ。


本書の解説を担当している内田樹が、ブログや著書でよく推していて、『子どもは判ってくれない』などに短くあった彼の「敗戦後論」でも本書に刺激されたというふうに書かれてあったので、加藤典洋のものもまたそろそろ読みたいなとか考えていたところであったし、そういうわけで、ずっと探していたのでした。



子どもは判ってくれない (文春文庫)/内田 樹
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加藤典洋の本職は文芸批評であって、村上春樹の分析には僕もたいへんな衝撃をうけた。というか、批評がおもしろいとおもえたのはそれがほとんど最初のことであって、それ以降はいつも読み飛ばしていた文庫版解説も読むようになったし、哲学系の難解な読書も抵抗がなくなり、じぶんでもブログなんかはじめてままごとな書評を公開するようになったから、じぶんがじっさいのところなにを考え、どんな面持ちでいるのか、小説とはどんなものと捉えているのかという、自明におもえてじつはぜんぜん見えていなかったことも次第に明らかになっていったのだった。そしてこれらのことはほとんど同時に起こったので、ここでこうしてブログをやっているのも、つきつめれば加藤典洋の村上春樹批評がおもしろかったからこそなのです。



村上春樹 イエローページ〈1〉 (幻冬舎文庫)/加藤 典洋
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村上春樹 イエローページ〈2〉 (幻冬舎文庫)/加藤 典洋
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だから僕が、物語でも音楽でもなんでもいいけど、なにかおもうところや違和感や快感の根拠をたどって表明しようというとき、いわば「謎解き」をするときには、たぶん意識していなくても、このひとの方法をモデルとしているというのは、ありそうなはなしです。加藤典洋の村上春樹分析を読んでおとずれた感動と衝撃がどのような種類のものであったのかというと、「あれほどくりかえし読みこんでいた“オレの“春樹が、こんなふうに読まれることがありうるなんて」という驚きのかたちだった。そしてもちろん、こんな読み方ができたら読書はいまの何倍も楽しくなるし、得るものも比較にならないと確信したのです。



で、どうしたらこんな読み方、思考ができるのかっていうと、これは内田樹もそうなのだけど、このひとたちにはなにか特有の「ちょっとうしろに下がって、ばあいによってはしゃがみこんで、遠くから眺めてみる」というふうな思考習慣が強くあるようにおもう。うまくいえないが…。たぶん、こういったことばは本書を読み終えた直後だから出てくるものとおもうが、彼らはそもそも「解答」を探しているのではないのだ。「視点」は、つねにその「輪郭」を設定している。しかし「輪郭」は、内側にあるものを規定するとともに、その外側をも、内側と同時に準備するものでもある。このひとたちの思考法というのは、この「輪郭」をよく捕捉しつつ、つねにその外側にも気を配り、「結論」を留保することで、なにか可能性のようなものを潜勢させて、内容を生き生きとしたものにしているのだ。




本書には「敗戦後論」、「戦後後論」、「語り口の問題」という論文が発表されたじゅんばんに収められていて、その間に登場した批判や論争などを通じ、加藤典洋の思考の深まってゆく過程がよくわかる仕組みになっている。



戦争が世界規模になるとともに、「敗戦」の意味はかわってしまった。それ以前では仮に敗れてもひとびとは共同性を強めたが、世界戦となってからは、敗戦国にはある「ねじれ」が見られるようになった。それは人格分裂という書き方もされている。軍事力の放棄を軍事力によって認めさせられたという矛盾、また戦争責任者である天皇が免責され、かわりに閣僚たちが処刑されたという矛盾、こういったことを、日本の社会はそのままに、宿痾のように抱え込んでいるのだという。


この「ねじれ」は戦争死者への態度に顕著だ。いっぽうはこの侵略戦争がもたらした他国の死者二千万、たほうは自国の戦争で無意味に死んでいった三百万に対する哀悼だ。この分裂を著者はジキル氏とハイド氏の分裂にたとえている。





「悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。

そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。

そのようなあり方がはたして可能なのか」83頁





正解、解答、「こたえ」を求めるありかたでは、つねにこのどちらかいっぽうに与するほかなく、ねじれそのものに言及したり解決したりということはできない、というのが、あとがきまで読んだあとの僕の理解です。加藤典洋は続けて次のように書く。





「ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ」84頁





このことについての批判をうけて次の「戦後後論」はかかれるが、ここでは太宰治と「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーを持ち出し、「誤りうることのなかに無限を見る」という文学の態度を導き、示している。そしてまた、こういった態度は、うえに書いたように、そもそも加藤典洋にこういった分析的思考を可能にしていた姿勢だったとおもうのだ。「こたえ」を求めて導かれた、論理的に正しい結論は、成立したじてんですでに、対立する「先回りの(338頁)」思想を内在している。「戦後後論」には僕も一時期たいへんお世話になった竹田青嗣の名前も出てくるが、この「誤りうること」は、現象学的な不可疑性と比較してこう書かれている。





「現象学は信の疑えなさに導かれて真にいたる。しかし、文学はたぶん、どこにもその真の手がかりがないこと、誤りうることのただなかに身をおくことを徹底することで真に呼ばれる、もう一つの真とのつながり方のあることをわたし達に語っている」229頁






ある誤りを犯す。それまでのじぶんはまちがっていたと切り捨て、忘れ去る。しかしこれでは「わたし達は大切な思想の種子と課題を捨て去る」(233頁)ことになるのだ。



正直にいうと、あとがきを読み、内田樹の解説を読んでやっと理解できたというぶぶんもかなりあった。「語り口の問題」などは、いまでもほんとに理解できたのかどうかかなりあやしい。だからほかのあらゆる書物と同様、くりかえし思い出し、あれはこういうことだったけなという具合に本棚から引っ張り出すことになるのはまちがいないでしょう。


書かれてある内容も重要だけど、その思索の道筋…加藤典洋がいかなる過程でこれを書いていったかということを学ぶという点でも、意義深い論文でありました。そしてそのさきに「誤りうること」という示唆があったというのも、なんだかおもしろい。だってこれは、加藤典洋が採用し、文章のうえで実地に見せてきたことそのものなんだから。