空手を思い返す | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

空手の道場というところは、いまおもうとじつにいろいろなルールの決まっているところだった。まず道場に入るとき。ドアをあけたら靴を脱ぐ前に、大きな声で「押忍失礼します」と言わなければならなかった。これはいまおもうと警備員のバイトなどとよく似ている。これはまた、道場ごとの配置、デザインなどによってもちがうのかもしれないが、うちのばあいは、ウェイト・トレーニングの器具がところせましと置かれている区画を抜けてじっさいの稽古場にはいるときにも言わなければならなかった。

そのあと着替えて準備に入るのだけど、僕にはしょっちゅうだったが、遅刻したときなどは、そのまま稽古場のいちばんうしろ…ちょうど砂袋(すねとか拳の部位鍛錬につかう、砂がぎちぎちにつまったざらざらの麻袋)のまんまえに、指導員から許可がおりるまで後ろ向きに正座して待たなければならなかった。指導員によっては、もう座った瞬間に「あ、ツッキーニ入って~」みたいな気楽なひともいるのだけど、たとえば師範代(道場内でいちばんえらいひと)が指導する日などはそのままずっと、「おれが入ったの気づいてないんじゃないのか…。さっきの声小さかったのかな…」とか不安になるほど、声がかからないこともある。そういうときはたいてい、最初に行われる基本稽古という稽古のおわったあとの大休止のときに声がかかる。

それでまあ、稽古に合流する。空手というのはもとをたどればいちおう中国から渡ってきたものなので、実戦主義の、きわめて合理的実際的なうちの極真会館はかなり変り種としても、思想的には儒教の性質を受け継いでいる。僕は儒教にまったく明るくないが、かんたんにいえば年功序列男尊女卑みたいなことであって、ある種宗教みたいなものでしょう。僕が見た限りでは、実際女性の稽古生というのはほとんどいなかった。が、それは男尊女卑とは無関係であって、たんに空手という技術の習得の厳しさ、特に極真はスパーリングでは本気で殴りあうし(顔面への手技は禁止)、基本稽古などもぜんぶやろうとしたらかなり長時間になってそれだけでへとへとになってしまう過酷なものであって、正直言って女性にはきついだろうというのはある。もちろんがんばってめきめき強くなっていくひともいたけど。印象的だったのは、僕が中学生くらいのころ、おそらく高校生かせいぜい大学一年生くらいの、かなりかわいい女の子が入ってきたときだった。細かい状況は忘れてしまったけど、その子がタイマーの読み上げかなんかを担当していたんだったとおもう。スパーリング(組み手)というのは一分とか一分半とか時間が決まっていて、担当のものがラスト一分とか十秒とかを読み上げるのである。下っ端の僕もよくやらされた。で、そのときはその子がやっていた。くりかえすように細部は覚えていないし、ここでタイマーを持ち出したのは僕の想像力なのだけど、とにかく、その読み上げる声が小さいとかなんかで女の子が注意されたのだった。その子は男ばかりのむさくるしい集団にいるという状況を差し引いて見てもかわいい子だったから、媚びて許してもらうことに日ごろから慣れていたんでしょう。まあひとことでいえば、「女の子」であることを利用して、笑ってスルーしようとしたわけです。しかしその直後の指導員の恫喝が忘れられない。道場は静まりかえり、女の子の笑顔は凍りついてしまった。だから僕にいわせれば、男尊女卑なんてまるでなかった。あったのは男にも女にも等しく厳しい現実だけだったのです。

ずいぶんはなしがそれてしまったけど、年功序列的な、帯の色に秩序づけられた階級みたいなものはげんにあった。極真会館の道場訓の四番目には次のようにある。

「一、 吾々は礼節を重んじ

長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと」

だから、体育会系の部活なんかを経験しているひとはわかるとおもうけど、基本的にタイマーみたいなめんどい役は帯の若い連中の仕事であって、試合前の先輩のために全身にサポーターをつけて(これをガンダムと呼ぶ)防御行為なしの組み手の相手をしたりとかも、当然下の連中の義務であった。返事はすべて「押忍」であり、先輩の前を通ってはならない。これが先輩のみについてだったか、すべての人物に対してだったかはよく覚えていないが、僕はそういう区別がめんどくさいので、基本的にぜんいんに同じ態度でいた。この習慣がいまでも残っているのか、勤務先では僕は誰に対しても敬語と決めている。年下ってわかった瞬間にタメ口になるのって、ものすごいかっこわるくないですか?

とにかくもう、典型的なタテ社会なのである。しかし、どうしたわけか、僕はそれをなんにもおかしなことだとはおもわなかった。じぶんより明らかにあたま鈍いくせに教師だからといって威張り散らすようなやつにはいらいらくるが、道場の先輩に対してはまったくそのようなことがなかった。なぜか。


拳を交わしあった相手とはある種の友情のようなものが生まれるというのはよく聞くはなしですよね。これはなんなのかって考えると、もうこれ以上、相手に対してなんらかの行動を起こすことができないからなんではないでしょうか。道場を出て、学校や会社に行けば、あたまにくるようなやつは大勢いる。ときには殴りたくもなる。しかし理性がそれを押しとどめる。僕らには野性を解放してしまうことのリスクが想像できるからである。好きな娘にもきらわれてしまうかもしれない。目をかけてくれていた上司や呼び出された両親を失望させてしまうかも。解雇とか退学とかいった単語もちらつく。こいつを殴ればまわりの友人たちの反応も変わってしまうだろう。そもそもいまは憎いこいつだって、普段は馬鹿話のできる大切な友人なのだ。それを失ってしまうのはどうなのだろう。そういったことを瞬間的に考える僕らは、ふつうは、手を出さないわけである。

ところが、空手の道場ではこのふつうでは控えなければならないことを行い、ばかりか練習しているのである。日常、感情を抑制する僕らは、ある意味では野性的な上下関係の決定を留保している。憎い相手を打ち砕き、踏みつけたいという欲求はそのままに、相手との関係を別の(社会的な)次元に置き換え、再解釈している。ところが殴りあうことがげんに実行された空間では、その留保された決定がくだされることになる。組み手などはべつに勝敗はないが、「おれのほうが強かった」という感覚は、よほど近い実力でない限りあるだろう。つまり、ここでは野性の次元、すなわち人間の生物たる根源的な次元で、「どちらが上」ということが決定されるのである。だから、ひどく極端な言い方をしてしまえば、「空手道場」という集団のうちでは「野性的な序列」というものが決まっていなければならない…もっといえば決まっていないのはヘンなのである。

ふつうはこんなの耐えられない。「あいつにはここでは負けるが、こっちの分野では負けない」というような「可能性の感覚」がないと、覆ることのない敗北感を抱えて生きていくのはつらい。ではなぜ空手道場はふつうにこれが成り立っているのか。これが、僕らにあの帯の序列を受け入れさせるのではないでしょうか。つまり、「先輩は強くて当たり前」なのです。僕たちは根本までむきだしにされた、身もふたもない「生物的序列」を組織としての「帯の序列」に無意識に置き換えることで受け入れているのではないでしょうか。もちろん、白帯のくせにめちゃくちゃ強いやつとか、たまにしかこないからだぶよぶよの黒帯とかもいるけど、そういうのはアナキン・スカイウォーカー的例外でありましょう。