『ビッグ・フィッシュ』 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ビッグ・フィッシュ』

監督:ティム・バートン

主演:ユアン・マクレガー

2003年アメリカ



ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション
¥1,765
Amazon.co.jp


美貌のマリオン・コティヤールめあてで観たんですが…、

映画を観て、こんなふうに目の中から涙が出てくることなんて、ほんとに久しぶりだった。



i.jpg



じっさいのところマリオンは主人公である父子の、息子のほうの婚約者という、まあチョイ役でしかないのですが、でもこの映画はほんとうに観てよかった。マリオンに感謝。

(マリオン・コティヤールは『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』で49年ぶり2人目のフランス人女優として第80回アカデミー主演女優賞(!)を受賞した女優ですが、一般的には『TAXi』シリーズのタクシー運転手の恋人役が有名かもしれない。今作でハリウッド・デビュー)


エディット・ピアフ~愛の讃歌~ (2枚組)
¥4,311
Amazon.co.jp

TAXi
¥3,580
Amazon.co.jp



エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー。回想シーンをユアン・マクレガー)は、自らの半生をおもしろおかしくファンタスティックに語って聞かせることを得意としていたが、巨人が出てきたり、魔女が出てきたり、巨大な魚が出てきたり、あまりに突飛で荒唐無稽なそのおはなしに、息子であるジャーナリストのウィル・ブルーム(ビリー・クラダップ)は心底うんざり、辟易していた。それは彼の結婚式当日に爆発し、親子は決定的に仲たがいしてしまう。ある日から父親は病気で寝たきりとなる。ウィルは他人のように笑ってはなしを聴くことができず、いや息子だからこそというべきか、父親の「ほんとうのところ」を知りたいと願うが、エドワードは相変わらず。空想のなかに生きるような父親と、硬質なジャーナリズムの世界に生きる息子はわかりあえるのだろうか…というおはなし。



この映画のすべては、結末近くに病床の父親がくちにする「The story of my life...」ということばに集約される。僕はこの場面で、不覚にも涙を流してしまった。


世界は、我々が認める目の前にしか広がっていかない。だとすれば、世界とは結局のところ僕らがそれをどう見るのか、ということにすべてがかかっているのだ。そういう意味では、「意志がすべて」であるとした『ライフ・イズ・ビューティフル』に近いところもあるのかもしれない。


ライフ・イズ・ビューティフル
¥2,149
Amazon.co.jp


父親が語って示す世界、自らの「人生の物語」は、ウィルでなくとも、荒唐無稽、あきれ返ってしまうような、子供の空想の世界のようである。このような主観的認識方法は、おおく独我論を誘う。彼の人生をでたらめの夢物語であると笑いとばしてしまうことはかんたんだろう。しかしどうだろう…、最後のシーンを見たあとで、エドワードの人生を不幸なものであると断ずることのできるにんげんがいるだろうか…。彼の「世界」を笑い飛ばしたじてんで、僕らの世界もじつはあるていど限定されてしまうのではないだろうか。まず重要なのは、エドワードには世界がそのように見えたのだ、ということなのである。事実どうなのかということの追究は、存在しない「真理」の追究へと返っていく。世界がほんとうのところどのようなものなのか、そのこたえは、追いついた瞬間に現在目の前に広がる世界の枠組みの外側へと逃げていってしまう。こたえなどはないのである。あるのは、そのひとの人生における大きな物語…「The story of my life」だけなのだ。もちろん、エドワードのありかたはかなり極端だろう。だがそれがどのようなものであれ、僕らは僕らなりに、それぞれの物語を抱えている。結末付近で、エドワードの波乱万丈の物語は、息子の「語り」によりあるかたちを示してみせる。あれほど幸福感に満ちた場面が他にあるだろうか…。少なくともいまは思い出せない。エドワードの冒険物語に現れ出てきた数々の魅力的な登場人物たち…、巨人や魔女やサーカス団長の狼男や、なにやらかにやらは、すべて、僕らが出会い、それぞれの物語にも存在してきた人物たちの象徴である。息子のウィルは父親を「氷山」にたとえる、海上に見えるのはぜんたいの一割、残りは隠れてしまって見えない、ほんとうのあなたはどこなのかと。対し父親は、私はいつも自分そのものだ、それが見えないのはお前が悪いのだと。エドワードには、その物語こそが真実であったのだろう。

エドワードの世界の認識のしかたは、生得的なものなのはまちがいないとしても、ある意味実用的なぶぶんもある。死の床についたエドワードは、苦しみのなか息子に「じぶんの死に方の物語」を語ってくれと要求する。物語に人生を託してきたこの男は、人生の最後の瞬間まで、物語的に世界を見ようとするのである。

仕事が忙しい、いじわるな上司のことをかんがえると胃が痛くなる、出張ばかりで子供の顔もろくに見ていない、奥さんは冷たい、小説家としていっこうに芽が出ない…、僕らの目前にはそういった現実がまちがいなく、確信をともなった実際的感触とともに広がっていくが、もしエドワードのように、まあこれは極端としても、世界を物語として捉え、現実そのものではなく、見え方にこだわったとしたらどうだろう。世界は色を変え、またちがった印象で僕らを規定していくのではないだろうか。

それにしても、ティム・バートンは好きな役者を徹底的につかいまくりますよね。ヘレナ・ボナム=カーターがその筆頭だけど、『チャーリーとチョコレート工場』でちら見したような役者がこの作品でもたくさん見えました。


チャーリーとチョコレート工場 特別版
¥2,503
Amazon.co.jp